慈恩寺(読み)ジオンジ

デジタル大辞泉 「慈恩寺」の意味・読み・例文・類語

じおん‐じ【慈恩寺】

大慈恩寺だいじおんじ
山形県寒河江さがえ市にある慈恩宗の本山。山号は瑞宝山。行基の開創と伝え、法相宗、のち天台真言両宗の寺。

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精選版 日本国語大辞典 「慈恩寺」の意味・読み・例文・類語

じおん‐じ【慈恩寺】

  1. [ 一 ] 中国、唐代の長安城(陝西省西安)にあった寺。六四八年、高宗が皇太子のときに母の慈恩にこたえるために創建。インドから帰国した玄奘(げんじょう)を上座に迎え、翻教院が建てられて多数の経論が訳出された。大慈恩寺
  2. [ 二 ] 山形県寒河江(さがえ)市にある慈恩宗の本山、本山慈恩寺の略称。山号は瑞宝山。神亀元年(七二四)行基の創建と伝えられる。本堂は国重要文化財
  3. [ 三 ] 滋賀県蒲生郡安土町慈恩寺にある浄土宗の寺、浄厳院の別称。

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日本歴史地名大系 「慈恩寺」の解説

慈恩寺
じおんじ

[現在地名]寒河江市慈恩寺

寒河江川北岸の山山地南端にある。瑞宝山と号し、本尊弥勒菩薩。慈恩宗本山。現在の一山は本山慈恩寺を中心に、華蔵けぞう院・最上さいじよう院・宝蔵ほうぞう院・梅本うめもと坊・川口かわぐち坊・証誠しようじよう坊・頼蔵らいぞう坊・善蔵ぜんぞう坊・宝林ほうりん坊・桜沢さくらざわ坊・善竹ぜんちく坊・禅林ぜんりん坊・普門ふもん坊・宝前ほうぜん坊・寺司てらじ坊・林泉りんせん坊・宮本みやもと坊・明覚みようがく坊・萱濃かやの坊・松蔵しゆうぞう坊の三院一七坊で構成される(いずれも独立法人)。山内一円は県の史跡に指定されており、参道を登ると慈恩寺本堂(弥勒堂)の前に出る。境内は本堂に向かって右手に薬師堂・阿弥陀堂が、左手に鐘楼・天台大師堂・三重塔が並び、本堂左手から柴灯護摩壇のある山上に登る石畳の両側にも弘法大師堂跡や経堂跡などが点在する。本堂前の石段下には、舞楽奉納の時の楽屋を兼ねる山門がある。本堂は国指定重要文化財で、元和四年(一六一八)最上義俊の再建になる。桁行七間・梁間五間で四周に一間通りの縁をめぐらす。単層入母屋造で重厚な茅葺。建物の内外にある組物・虹梁・木鼻・柱頭部・蟇股などに施される彫刻や彩色には江戸時代初期の特色がみられる。

〔開創〕

最上慈恩寺略縁起(最上院文書)によると、神亀元年(七二四)行基が開山、天平一八年(七四六)聖武天皇の勅を奉じた婆羅門僧正が精舎を建立開基し、寒江山大慈恩律寺と名付け、八幡大神を鎮守にしたという。天仁元年(一一〇八)鳥羽天皇の勅宣によって藤原基衡が造寺領主になり、奈良興福寺の願西が本願主となって再興、釈迦・弥陀の両堂を造営し、山号を雷雲山と改め、白山権現を鎮守として寺域を拡大した。保元二年(一一五七)慈恩寺全山の堂社が焼失。慈恩寺伽藍記(宝蔵院文書)は仁平年中(一一五一―五四)の鳥羽法皇院宣による再興を記し、「此時同願主願西上人、而当奉行者刑部卿忠盛也」として、平忠盛が妙楽院弥陀堂を建立したことを記す。元暦元年(一一八四)願西の死去により、翌文治元年(一一八五)紀州高野山の弘俊阿闍梨が後白河法皇の院宣と鎌倉右大将家の御教書を体して堂塔・仏閣・坊舎を整備し、山号を瑞宝山と改め、熊野権現を鎮守にしたという(前掲略縁起)。なお、願西が再興した年と没年の間には七七年の歳月があり、検討を要する。

〔中世〕

宮城県名取市新宮しんぐう寺蔵の一切経写経大智度経論巻第一〇〇の奥書に「養和二年六月廿二日 書写了 出羽国慈恩寺定秀滝城房一校了」と記される。これが現在、慈恩寺に関する記録の最古のものである。なお滝城房は同じ平安末期の大宝積経巻第九四の端裏書にもその名をとどめる。


慈恩寺
じおんじ

[現在地名]岩槻市慈恩寺

慈恩寺台地の東端近くにある。華林山最上院と号し、天台宗。本尊は十一面観音。江戸時代には江戸東叡山寛永寺末。江戸時代後期に編纂された慈恩寺縁起(慈恩寺文書)によると、天長年間(八二四―八三四)に円仁(慈覚大師)が創建したと伝えている。古代の慈恩寺については明確でないが、中世には慈恩寺観音堂は坂東三十三観音霊場(札所)の第一二番として賑わったとみられる。このほか中世の当寺の活動の一端をうかがわせるものに、加須かぞ竜蔵りゆうぞう寺に蔵される阿弥陀如来立像や法華経開板の板木がある。阿弥陀如来像には永仁元年(一二九三)の墨書銘があり、「仏師武州慈恩寺大進」とある。大進は当寺所属の仏師と推定されている。法華経開板は文亀三年(一五〇三)から永正三年(一五〇六)にかけて当寺はたさき坊において行われ、その時の板木五三枚が川口市峯の新光みねのしんこう寺に保存されている。

永徳元年(一三八一)一〇月、鎌倉公方足利氏満は「太田庄慈恩寺」の別当職に遍照へんじよう院僧正頼印を補任しているが(同月七日「足利氏満補任状」明治百年大古書展出品目録)、このことは「頼印大僧正行状絵詞」にも記されている。同三年「慈恩寺領武蔵国太田庄花積郷内御厩瀬渡并船」が渋江加賀入道に押領されるという事件があり、頼印の訴えにより氏満は押領を退け、頼印代に沙汰付けるよう壱岐弾正大夫入道希広らに命じ(同年四月一一日「足利氏満御判御教書写」相州文書)、希広は渡場と船とを頼印雑掌に打渡している(同年五月八日「壱岐弾正大夫入道希広打渡状」神田孝平氏旧蔵文書)


慈恩寺
じおんじ

[現在地名]八幡町島谷

東殿とうど山の北麓、乙姫おとひめ川の東に位置する。鐘山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊釈迦如来。寺伝によると、慶長六年(一六〇一)遠藤慶隆が半山を開基として創建(一説では慶長一一年)。元和八年(一六二二)焼失し、寛永八年(一六三一)八幡城二の丸館を移築して再建。元和二年遠藤氏より門福手かどふて(現美並村)に寺領四三石余を与えられる。


慈恩寺
じおんじ

[現在地名]小倉南区下曾根三丁目

西山浄土宗。大報山と号する。本尊阿弥陀如来。古くは天台宗であったが、明応年間(一四九二―一五〇一)浄土宗西山派に改めた。長野の護念ながののごねん寺末。慶長一八年(一六一三)キリシタン禁令に伴い小倉藩でも取締が始まり、当寺が踏絵を行う判行寺になった。寛永九年(一六三二)譜代大名の小笠原氏が入封してからはとくに厳しく行われ、山門入口の外側で踏絵が実施されたと伝える。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「慈恩寺」の意味・わかりやすい解説

慈恩寺(山形県)
じおんじ

山形県寒河江(さがえ)市慈恩寺にある慈恩宗本山。山号は瑞宝山(ずいほうざん)。宗派は、法相(ほっそう)宗より真言(しんごん)、天台両宗を経て第二次世界大戦後より慈恩宗となる。本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)。寺伝によれば、724年(神亀1)に行基(ぎょうき)が開山、746年(天平18)聖武(しょうむ)天皇勅願によって婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)(菩提僊那(ぼだいせんな))が開基したという。鎌倉時代に入って当寺のある寒河江荘(しょう)は大江広元(ひろもと)の荘園(しょうえん)となり、以後長く大江氏の庇護(ひご)を受けた。戦国時代ころには一山50坊を超える支坊があり、繁栄した。室町末期に最上義光(もがみよしあき)がこれにかわり、1622年(元和8)最上氏改易後は、江戸幕府より2812石の御朱印地を給され、東北第一流の巨刹(きょさつ)を誇った。1618年最上義俊(よしとし)再建の本堂(弥勒堂)は国の重要文化財に指定されている。同じく国の重要文化財の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)は恵心(えしん)僧都(源信)の作と伝えられ、もと釈迦(しゃか)如来であったが、修理の際に間違えて阿弥陀如来の印相になったといい、以来「とり違えの阿弥陀」としても知られている。本尊の弥勒菩薩像は永仁(えいにん)6年(1298)造の銘のある秘仏である。1980年(昭和55)に平安後期制作の仏像群が多数発見された。慈恩寺の後ろの葉山(はやま)は上代からの山岳宗教の山であり、歴史的にも修験(しゅげん)とのかかわりは深い。当寺の祭礼に奉奏する林家舞楽(谷地(やち)舞楽)は国指定重要無形民俗文化財である。

[中山清田]



慈恩寺(中国)
じおんじ

中国、陝西(せんせい/シャンシー)省西安(せいあん)市にある寺。唐の太宗の代648年(貞観22)10月、皇太子治(ち)(後の高宗)が、母文徳皇后の慈恩に報ずべく進昌坊無漏(しんしょうぼうむろ)寺(一説に浄貴寺)址(し)に創建した寺。10余院を擁した壮大雄麗なこの寺は、インドより帰国直後の玄奘(げんじょう)三蔵を上座に迎えて、伽藍(がらん)・教学ともに当代第一と称された。651年(永徽2)玄奘伝来の経像の罹災散逸を防ぐために5層の塼(せん)塔が建造され、その南壁には太宗御製・褚遂良(ちょすいりょう)筆「大唐三蔵聖教序」碑が置かれたが、世上ではこの塔を大雁塔(だいがんとう)とよんだ。玄奘に参ずる僧俗は中インドの那提(なだい)三蔵をはじめ多くを数え、殷賑(いんしん)を極めたが、658年(顕慶3)玄奘が西明寺(さいみょうじ)に移ると、その高弟基がかわって教化に努め、法相(ほっそう)宗を成立させ慈恩大師とよばれた。玄宗の代に北宗禅の義福(ぎふく)が住し、徳宗の代にインド僧牟尼(むに)室利(しつり)が止住して栄えたが、唐末より衰微。現在は、則天武后によって7層に改修され、明(みん)の天順年間、清(しん)の康煕(こうき)年間に重修された大雁塔と仏殿および法堂などが残るのみである。

[里道徳雄]



慈恩寺(浄厳院)
じおんじ

浄厳院

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改訂新版 世界大百科事典 「慈恩寺」の意味・わかりやすい解説

慈恩寺 (じおんじ)
Cí ēn sì

中国,陝西省西安市の南郊4km,唐代の国都長安城内の進昌坊の地にあった寺。648年(貞観22)に当時皇太子であった唐の高宗が母の文徳皇后の慈恩に報いるために建立したもので,子院10余,合わせて1897間という広大な規模を誇った。〈大慈恩寺〉という寺額を賜り,たまたまインドから帰国した玄奘を迎えて上座とし,翻経院で訳経に専念させた。玄奘を大慈恩寺三蔵法師と呼ぶのは,そのためであり,玄奘の高弟の窺基は,この寺で法相宗を広めたので,慈恩大師と呼ばれる。玄奘が将来した経典と仏像を収めるために5層の塼塔を建てたが,8世紀初頭に高さ64mの7層の塔に改修され,〈大雁塔〉と称されて現存し,史都西安のシンボルとなっている。褚遂良(ちよすいりよう)が書いた太宗撰の〈大唐三蔵聖教序〉と高宗撰のその序記との1対の碑は,元来は5層塔の上層に安置されたが,今は7層塔の第1層の南門の左右の龕にはめこまれている。
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慈恩寺 (じおんじ)

山形県寒河江市にある慈恩宗本山,現在3院17坊からなる寺の総称。山号は瑞宝山。寺伝に746年(天平18)婆羅門僧正の開基といい,今日まで法相宗の法式を伝える。平安末にはこの地方の荘園の主摂関家の力に負い,寒河江荘の大寺として繁栄した。閑寂なたたずまいの萱葺きの本堂(弥勒堂)を中心に,平安末期,鎌倉期,室町期の諸仏像,中世の仏具,絵画,文書などを多く伝蔵する。また,平安末の慈恩寺一切経は,宮城県名取新宮寺一切経の一部として伝存している。江戸時代には朱印寺領2812石を得,衆徒22ヵ寺,宮仕役僧6人を支配していた。一子相伝の名のもとに伝承された林家の舞楽の奉納が,毎年5月8日に行われる。
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百科事典マイペディア 「慈恩寺」の意味・わかりやすい解説

慈恩寺【じおんじ】

山形県寒河江(さがえ)市慈恩寺,葉山山麓にある慈恩宗の寺。本尊弥勒菩薩。当初は法相宗,のち天台宗慈恩寺派・真言宗慈恩寺派の両派を兼ねたが,1952年慈恩宗となった。8世紀の創建と伝え,1108年奈良興福寺の願西が再興。さらに12世紀半ば弘俊によって造営された。領主に保護され,広大な御朱印地を与えられて,寺侍,寺百姓をかかえる特殊な宗教集団集落が発達した。単層入母屋造の本堂など多くの堂が残り,本堂や阿弥陀如来座像,また弥勒堂に奉納される林家舞楽は重要文化財。
→関連項目寒河江[市]

慈恩寺【じおんじ】

中国,陝西(せんせい)省西安(せいあん)の南に当たる地にあった寺。648年唐の太宗(たいそう)の皇太子(のちの高宗)が母の報恩のために建立したもので,大慈恩寺とも。インドから帰朝した玄奘(げんじょう)を迎えて仏典漢訳等の事業を行わせたので,新仏教の中心として栄えたが,845年の廃仏により荒廃。8世紀初めに再建された大雁(だいがん)塔が残っている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「慈恩寺」の意味・わかりやすい解説

慈恩寺
じおんじ
Ci-en-si

中国,陝西省西安市にある唐代に建立された古寺。大慈恩寺とも呼ばれる。長安城の南,曲江池の側にあった隋代の寺院跡に,貞観 22 (648) 年,太宗の皇太子 (のちの高宗) が母 (文徳皇后) の菩提のために造営し,翻経院を建て,玄奘三蔵を迎えて上座としたのが始りである。翻経院では多数の経論が訳出された。玄奘の高弟慈恩大師窺基もここに住し,法相宗を大成した。大雁塔があるほか,楣 (まぐさ) 石の線刻の仏殿内説法図は数少い貴重な唐代絵画の資料である。

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デジタル大辞泉プラス 「慈恩寺」の解説

慈恩寺〔山形県〕

山形県寒河江市にある寺院。山号は瑞宝(ずいほう)山。724年、行基の開山と伝わる。法相宗、天台・真言両宗を経て、現在は慈恩宗本山。本尊は弥勒菩薩。本堂は国の重要文化財。春の法会で舞われる「林家舞楽」は国の重要無形民俗文化財。

慈恩寺〔埼玉県〕

埼玉県さいたま市岩槻区にある天台宗の寺院。山号は華林山、院号は最上院。天長年間、円仁による創建と伝わる。本尊は千手観世音菩薩。

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事典・日本の観光資源 「慈恩寺」の解説

慈恩寺(第12番)

(埼玉県さいたま市岩槻区)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の慈恩寺の言及

【ボタン(牡丹)】より

…玄宗と楊貴妃の艶話(えんわ)の背景として,興慶池沈香亭前の牡丹が彩りを添え,長安の暮春に人々は牡丹熱でうかされる。貴族や寺観では接木によって名花,珍花を集め,時代はやや下るが,慈恩寺浴堂院の牡丹は両叢で500~600朶(だ),興唐寺のそれは1本1200朶といわれ,1本数万銭のものもあった。李徳裕の〈牡丹賦〉や白居易の牡丹に関する多くの詩はそうした当時の好尚を反映している。…

※「慈恩寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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