寒河江川北岸の
最上慈恩寺略縁起(最上院文書)によると、神亀元年(七二四)行基が開山、天平一八年(七四六)聖武天皇の勅を奉じた婆羅門僧正が精舎を建立開基し、寒江山大慈恩律寺と名付け、八幡大神を鎮守にしたという。天仁元年(一一〇八)鳥羽天皇の勅宣によって藤原基衡が造寺領主になり、奈良興福寺の願西が本願主となって再興、釈迦・弥陀の両堂を造営し、山号を雷雲山と改め、白山権現を鎮守として寺域を拡大した。保元二年(一一五七)慈恩寺全山の堂社が焼失。慈恩寺伽藍記(宝蔵院文書)は仁平年中(一一五一―五四)の鳥羽法皇院宣による再興を記し、「此時同願主願西上人、而当奉行者刑部卿忠盛也」として、平忠盛が妙楽院弥陀堂を建立したことを記す。元暦元年(一一八四)願西の死去により、翌文治元年(一一八五)紀州高野山の弘俊阿闍梨が後白河法皇の院宣と鎌倉右大将家の御教書を体して堂塔・仏閣・坊舎を整備し、山号を瑞宝山と改め、熊野権現を鎮守にしたという(前掲略縁起)。なお、願西が再興した年と没年の間には七七年の歳月があり、検討を要する。
宮城県名取市
慈恩寺台地の東端近くにある。華林山最上院と号し、天台宗。本尊は十一面観音。江戸時代には江戸東叡山寛永寺末。江戸時代後期に編纂された慈恩寺縁起(慈恩寺文書)によると、天長年間(八二四―八三四)に円仁(慈覚大師)が創建したと伝えている。古代の慈恩寺については明確でないが、中世には慈恩寺観音堂は坂東三十三観音霊場(札所)の第一二番として賑わったとみられる。このほか中世の当寺の活動の一端をうかがわせるものに、
永徳元年(一三八一)一〇月、鎌倉公方足利氏満は「太田庄慈恩寺」の別当職に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
山形県寒河江(さがえ)市慈恩寺にある慈恩宗本山。山号は瑞宝山(ずいほうざん)。宗派は、法相(ほっそう)宗より真言(しんごん)、天台両宗を経て第二次世界大戦後より慈恩宗となる。本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)。寺伝によれば、724年(神亀1)に行基(ぎょうき)が開山、746年(天平18)聖武(しょうむ)天皇勅願によって婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)(菩提僊那(ぼだいせんな))が開基したという。鎌倉時代に入って当寺のある寒河江荘(しょう)は大江広元(ひろもと)の荘園(しょうえん)となり、以後長く大江氏の庇護(ひご)を受けた。戦国時代ころには一山50坊を超える支坊があり、繁栄した。室町末期に最上義光(もがみよしあき)がこれにかわり、1622年(元和8)最上氏改易後は、江戸幕府より2812石の御朱印地を給され、東北第一流の巨刹(きょさつ)を誇った。1618年最上義俊(よしとし)再建の本堂(弥勒堂)は国の重要文化財に指定されている。同じく国の重要文化財の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)は恵心(えしん)僧都(源信)の作と伝えられ、もと釈迦(しゃか)如来であったが、修理の際に間違えて阿弥陀如来の印相になったといい、以来「とり違えの阿弥陀」としても知られている。本尊の弥勒菩薩像は永仁(えいにん)6年(1298)造の銘のある秘仏である。1980年(昭和55)に平安後期制作の仏像群が多数発見された。慈恩寺の後ろの葉山(はやま)は上代からの山岳宗教の山であり、歴史的にも修験(しゅげん)とのかかわりは深い。当寺の祭礼に奉奏する林家舞楽(谷地(やち)舞楽)は国指定重要無形民俗文化財である。
[中山清田]
中国、陝西(せんせい/シャンシー)省西安(せいあん)市にある寺。唐の太宗の代648年(貞観22)10月、皇太子治(ち)(後の高宗)が、母文徳皇后の慈恩に報ずべく進昌坊無漏(しんしょうぼうむろ)寺(一説に浄貴寺)址(し)に創建した寺。10余院を擁した壮大雄麗なこの寺は、インドより帰国直後の玄奘(げんじょう)三蔵を上座に迎えて、伽藍(がらん)・教学ともに当代第一と称された。651年(永徽2)玄奘伝来の経像の罹災散逸を防ぐために5層の塼(せん)塔が建造され、その南壁には太宗御製・褚遂良(ちょすいりょう)筆「大唐三蔵聖教序」碑が置かれたが、世上ではこの塔を大雁塔(だいがんとう)とよんだ。玄奘に参ずる僧俗は中インドの那提(なだい)三蔵をはじめ多くを数え、殷賑(いんしん)を極めたが、658年(顕慶3)玄奘が西明寺(さいみょうじ)に移ると、その高弟基がかわって教化に努め、法相(ほっそう)宗を成立させ慈恩大師とよばれた。玄宗の代に北宗禅の義福(ぎふく)が住し、徳宗の代にインド僧牟尼(むに)室利(しつり)が止住して栄えたが、唐末より衰微。現在は、則天武后によって7層に改修され、明(みん)の天順年間、清(しん)の康煕(こうき)年間に重修された大雁塔と仏殿および法堂などが残るのみである。
[里道徳雄]
中国,陝西省西安市の南郊4km,唐代の国都長安城内の進昌坊の地にあった寺。648年(貞観22)に当時皇太子であった唐の高宗が母の文徳皇后の慈恩に報いるために建立したもので,子院10余,合わせて1897間という広大な規模を誇った。〈大慈恩寺〉という寺額を賜り,たまたまインドから帰国した玄奘を迎えて上座とし,翻経院で訳経に専念させた。玄奘を大慈恩寺三蔵法師と呼ぶのは,そのためであり,玄奘の高弟の窺基は,この寺で法相宗を広めたので,慈恩大師と呼ばれる。玄奘が将来した経典と仏像を収めるために5層の塼塔を建てたが,8世紀初頭に高さ64mの7層の塔に改修され,〈大雁塔〉と称されて現存し,史都西安のシンボルとなっている。褚遂良(ちよすいりよう)が書いた太宗撰の〈大唐三蔵聖教序〉と高宗撰のその序記との1対の碑は,元来は5層塔の上層に安置されたが,今は7層塔の第1層の南門の左右の龕にはめこまれている。
執筆者:礪波 護
山形県寒河江市にある慈恩宗本山,現在3院17坊からなる寺の総称。山号は瑞宝山。寺伝に746年(天平18)婆羅門僧正の開基といい,今日まで法相宗の法式を伝える。平安末にはこの地方の荘園の主摂関家の力に負い,寒河江荘の大寺として繁栄した。閑寂なたたずまいの萱葺きの本堂(弥勒堂)を中心に,平安末期,鎌倉期,室町期の諸仏像,中世の仏具,絵画,文書などを多く伝蔵する。また,平安末の慈恩寺一切経は,宮城県名取新宮寺一切経の一部として伝存している。江戸時代には朱印寺領2812石を得,衆徒22ヵ寺,宮仕役僧6人を支配していた。一子相伝の名のもとに伝承された林家の舞楽の奉納が,毎年5月8日に行われる。
執筆者:竹田 賢正
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…玄宗と楊貴妃の艶話(えんわ)の背景として,興慶池沈香亭前の牡丹が彩りを添え,長安の暮春に人々は牡丹熱でうかされる。貴族や寺観では接木によって名花,珍花を集め,時代はやや下るが,慈恩寺浴堂院の牡丹は両叢で500~600朶(だ),興唐寺のそれは1本1200朶といわれ,1本数万銭のものもあった。李徳裕の〈牡丹賦〉や白居易の牡丹に関する多くの詩はそうした当時の好尚を反映している。…
※「慈恩寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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