河北町
かほくちよう
面積:五一・三七平方キロ
県中央部の山形盆地北西部に位置し、東は天童市・東根市、北は村山市、西と南は寒河江市に接する。東流する寒河江川は、町域南端の溝延地内で東端を北流する最上川に合流する。出羽丘陵葉山山塊の南東斜面が、南部でおおよそ一〇〇メートルから北へ一二〇―一三〇メートルの等高線を形成し、山地と平野を区分する。町域の七〇パーセントを占める東部の平野部は、大半が寒河江川の開析扇状地で、北東部には最上川の自然堤防や氾濫原が広がる。ただし葉山山塊から平野部に南東流する滝ノ沢川が下沢畑から高島まで扇状地をつくり、なお北部の山麓線と一〇〇メートルの等高線に挟まれた緩傾斜地域は、同じく南東流する法師川が扇状地をなしたもので、沢畑以北の諸集落はその扇端部に立地する。東根・米沢両市を結ぶ国道二八七号が谷地の南端を東西に走り、国道三四七号や寒河江―村山線が二八七号から北へ延びる。
旧石器時代のものとして法師森・奥土入・根際山神などの遺跡がある。縄文時代遺跡は、前期は後沢・長慶寺原・奥土入、中期はお月山・慶光寺山A・権現森など、後期は奥土入・長慶寺原、晩期は花ノ木など多くの遺跡があり、いずれも集落跡で、すべて東部の平野部に臨む丘陵と山麓に分布する。弥生時代遺跡としては、縄文晩期との複合遺跡である花ノ木から扁平片刃石斧が出土している。古墳時代の遺跡は、西里・下槙・桑ガ原などがあり、奈良時代の集落跡が不動木ほか一四、平安時代のものが九ヵ所町域から発見されている。古墳時代前期から平安時代後半まで断続して営まれた熊野台遺跡もある。古墳時代以降の遺跡は平野部に広がる。遺跡の層は全町的にきわめて厚いといえる。律令制下では出羽国村山郡に属した。当町域は「和名抄」の村山郡長岡郷の一部と考える説が有力であったが、昭和五六年(一九八一)畑中遺跡から「大山郷」と墨書した須恵器坏が出土した。
河北町
かほくちよう
面積:一二四・一四平方キロ
桃生郡のほぼ中央部に位置し、本吉郡津山町から南流してきた北上川(追波川)が町の中心地相野谷付近で直角に曲がり、東流して東端追波湾に注ぐ。北方は北上山地で町域北端に高津森(標高四一九・一メートル)・大峰山(四〇四メートル)・黒森山(三八二・五メートル)などが連なり、北上町・津山町と接し、西は桃生町、南西端を流れる旧北上川を境に河南町と接する。南は釜谷峠、硯上山(五二〇・二メートル)、雄勝峠、上品山(四六六・八メートル)、籠峰山(三四七・五メートル)と連なる丘陵で石巻市、雄勝町と接する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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河北〔町〕
かほく
山形県中部,山形盆地北西部にある町。北は村山市,東は東根,天童両市,南西は寒河江市に接している。 1954年,西里村,谷地 (やち) 町,北谷地村,溝延村が合体して成立。町域の東部を最上川が北流している。中心集落の谷地は天正年間 (1573~92) 白鳥氏が段丘上に築いた谷地城を中心に発展。元和8 (1622) 年以後城主が不在となり最上川の船着場として繁栄。江戸時代にはベニバナの取引の中心地であった。米を多産し,果樹栽培が行われる。工業団地では電気機械器具が製造される。地場産業としてかつては草履の生産で知られたが,現在もスリッパの製造で有名。国道 287,347号線が通る。面積 52.45km2。人口 1万7641(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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