山形県中央部,北村山郡の町。人口8160(2010)。村山盆地の北端に位置し,最上川中流域を占める。中心集落は最上川東岸にあって古くから最上川舟運の中継地として栄えた大石田で,JR奥羽本線が通り,山形新幹線の大石田駅がある。船大工から家大工に転業する者が多く,大工・左官が多いことで知られる。農業が基幹産業であるが,近年果物缶詰,電子製品の工場も誘致されている。冬季の積雪は2m以上におよぶ豪雪地帯だが,スキー,雪祭などで観光客の誘致をはかっている。芭蕉,正岡子規らの文人が訪れ,最上川を詠んだ句碑がある。
執筆者:松原 宏
出羽国村山郡の北部,最上川中流部にあった最大の河港。奥羽山脈を水源とする朧気(おぼろけ)川,丹生川がこの地域で最上川に合流する。戦国期には丹生川の河岸段丘上に太田氏の井出楯があった。大石田集落はこの井出楯との関係が深く最上氏の領国形成とともに河岸場として整備された。はじめ大石田は山形藩領の一村であったが,1636年(寛永13)に大石田四日町村が分かれて天領となり,その後大石田本町が分村し,山形藩主の移動により大石田村も二分され,68年(寛文8)以後は四つの行政村に分割されていた。1761年(宝暦11)の大石田惣町は,村高1251石余,家数148軒,船120艘であった。大石田河岸は,船持荷宿商人の町として栄え,川船差配を独占していた元禄年間(1688-1704)には大小の大石田船は292艘に上る。その後上流の上郷の発達で川船数は減少したが,1792年(寛政4)に幕府の川船役所が置かれ,1836年(天保7)32人の荷問屋株仲間が結成された。明治以後,幕末の有力商人は地主となり,大石田は地主の町として発展した。
執筆者:横山 昭男
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山形県中央部、北村山郡にある町。1897年(明治30)町制施行。1955年(昭和30)横山、亀井田の2村と合併。尾花沢盆地の西部に位置し、町域の東半は最上(もがみ)川が北西流して沖積地が開け、西半は出羽(でわ)山地の葉山(はやま)山麓(ろく)一帯を占める。県内平坦(へいたん)部有数の豪雪地である。JR奥羽本線が通じ、山形新幹線も大石田駅に停車する。中心の大石田は近世初頭から最上川舟運の中継地として河岸が栄え、1792年(寛政4)には幕府の川船役所が設置されるなど、奥羽本線の開通(1901)まで県内の流通経済の一大中心地として繁栄した。舟運衰退後は、水稲、酪農を中心とし、出稼ぎ、過疎問題を抱える純農山村。近年ではソバ栽培が盛ん。芭蕉(ばしょう)、正岡子規(まさおかしき)、斎藤茂吉(もきち)らの文人墨客が来訪し、文学的風土にも恵まれている。面積79.54平方キロメートル、人口6577(2020)。
[中川 重]
『『大石田町史 史料編』全12巻(1975~1982・大石田町)』▽『『大石田町史』全2巻(1985~1993・大石田町)』
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…日本の代表的舟唄《最上川舟唄》でも知られる。【中川 重】
[水運の歴史]
《延喜式》の駅制によれば,野尻(現,大石田町駒籠),避翼(さるはね)(現,舟形町長者原),佐芸(さけ)(現,鮭川村真木)の間に伝馬と舟が置かれたとあり,古代から航行に利用されたことが知られる。室町初期に成立した《義経記》の中でも,北国落ちの源義経が,清川(現,立川町)から合海(あいかい)(現,新庄市本合海)まで川船で上る様子が記され,当時の水運の利用が推測される。…
※「大石田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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