東ティモール独立(読み)ひがしてぃもーるどくりつ

知恵蔵 「東ティモール独立」の解説

東ティモール独立

武装闘争の末、国連管理下の住民投票を経て2002年5月にインドネシアから分離独立を達成した。初代大統領は、独立直前の4月の選挙で8割を超す得票率で当選したシャナナ・グスマオ(任期5年)。ジャーナリスト出身で、1976年、東ティモール独立革命戦線(フレティリン)に参加し、92年に反逆罪容疑でインドネシア治安当局に逮捕され、投獄。97年、獄中で東ティモール民族抵抗評議会(CNRT)議長に就任、独立派が勝利した99年8月の住民投票の翌月、釈放された。16世紀以来のポルトガル植民地支配脱却を目前にした1974年に独立運動が広がったが、76年にインドネシアが強引に併合を宣言。以後、インドネシア軍による武力弾圧が続き、99年住民投票後も反独立派のテロ活動などで騒乱状態になり、同年9月からオーストラリア軍を中心にした国連平和維持軍(PKF)が展開。翌10月に国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が設立され、独立後は平和維持活動などを任務とする国連東ティモール支援団(UNMISET)が投入された。日本も道路や橋の維持・補修にあたる施設部隊を中心に自衛隊員計約2300人を派遣した。独立3周年を迎えた05年5月にUNMISETは解散し、6月にはPKFも撤収。だが06年2月、政府軍内の部族対立などを背景に一部が待遇改善を求めて離脱、住民も巻き込んだ武力衝突に発展した。騒乱の責任を問われたアルカティリ首相が同年6月に辞任、グスマオ大統領の指名で翌7月、ノーベル平和賞受賞者のラモス・ホルタ外相が新首相に就いた。さらに、07年5月の大統領選決選投票でホルタが第2代大統領に選出され、グスマオが後任首相になり、新体制が発足。だが、国家財政難や元ゲリラの失業問題などを抱え、政情は不安定で、08年2月にはホルタ大統領が首都の自宅で襲撃されて重傷を負うなど治安問題の深刻さを国際社会に印象づけた。オーストラリア軍を中核にした国際治安維持部隊が展開している。経済的な自立に向けては、ティモール海の豊富な石油・天然ガスの開発がカギだ。

(大野拓司 朝日新聞記者 / 2008年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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