日本歴史地名大系 「東千手村」の解説 東千手村ひがしせんずむら 福岡県:嘉穂郡嘉穂町東千手村[現在地名]嘉穂町千手椎木(しいのき)村・屏(へい)村の西に位置し、南東は夜須(やす)郡江川(えがわ)村(現甘木市)、南は同郡野鳥(のとり)村(現同上)。南に古処(こしよ)山(八五九・五メートル)・宇土浦(うどうら)山がある(地理全誌)。東千手川(別所川とも)・千手川・芥田(あくただ)川などが流れる。集落は本村のほか中(なか)村・代(だい)・正手(しようで)・原(はる)・春田(はるだ)・一丁五反(いつちようごたん)・平迫(ひらさこ)・辰石(たついし)・大(だい)村・古屋敷(ふるやしき)・真那子(まなご)にある(「郷村鑑帳」秋月郷土館蔵)。「続風土記」は千手町・芥田村・長野(ながの)村・川底(かわぞこ)村を枝村とする。東分村ともいった(正保郷帳)。文和三年(一三五四)に南朝方の菊池勢が北朝方の「千手城」を攻め落し(正平九年一一月一五日「木屋行実軍忠状」木屋文書/南北朝遺文(九州編)三)、嘉吉二年(一四四二)には大内方の平賀頼宗の軍勢が少弐方の「千手城」を攻撃している(同年三月一一日「室町幕府御教書」平賀家文書/大日本古文書一四)。弘治二年(一五五六)六月には「千手・馬見面」で大内勢と秋月勢の合戦があった(同年八月一〇日「大内義長感状」佐田文書/熊本県史料 中世篇二など)。また永禄一一年(一五六八)には毛利氏が嘉麻(かま)郡に進出するなかで、大友氏は「千手要害」を確保するため豊後玖珠衆を小石原(こいしわら)(現小石原村)に派遣している(一一月一九日「大友宗麟書状案」大友家文書録/嘉穂地方史古代中世篇)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by