長野村(読み)ながのむら

日本歴史地名大系 「長野村」の解説

長野村
ながのむら

[現在地名]薩摩町永野(ながの)

大村(おおむら)郷北方(きたかた)村の北、国見(くにみ)岳山中に源を発し永野金山付近を経て西流する川内(せんだい)川支流穴(あな)川上流域の山間にある。北東から東へ山岳を隔てて大隅国菱刈(ひしかり)郡本城(ほんじよう)郷南浦(みなみうら)村(現菱刈町)・同国桑原(くわはら)郡栗野(くりの)郷幸田(こうだ)村(現栗野町)・同郡横川(よこがわ)郷上之(かみの)村(現横川町)、西は宮之城(みやのじよう)郷求名(ぐみよう)村、北は菱刈郡曾木(そぎ)郷針持(はりもち)村(現大口市)。宝治二年(一二四八)渋谷庄司光重の四子大谷重諸の子重行が下向して鶴田(つるだ)を領し、その弟谷口為重が長野に入りしだいに勢力を広げたといわれる(薩摩町郷土史)。暦応四年(一三四一)七月日の渋谷千代童丸代信政本解案(島津家文書)によれば、同年五月五日千代童丸所領の答(けどう)院太郎丸(たろうまる)名長野宿所に渋谷石見権守重棟子息弥四郎重春ら一族が押寄せ放火狼藉に及んだとして薩摩守護島津道鑑(貞久)に出訴した。しかし二ヵ月の間なんの沙汰もなかったとして再度狼藉人らの交名注文を添えて処罰を願出ている。長野宿所は観音滝(かんのんだき)公園裏山の長野城跡であろう。渋谷千代童丸は長野城主鶴田重成の子ではないかと考えられ、渋谷石見権守重棟は高城氏であろう。応永八年(一四〇一)に鶴田氏が凋落し、渋谷氏系答院氏の支配するところとなった(答院記)。寛正五年(一四六四)の答院氏の平徳重覚書(町田氏正統系譜)によれば、享徳元年(一四五二)島津氏により行われた答院検田では九月一日から一〇月二〇日の間に長野まで検田が行われた。


長野村
ながのむら

[現在地名]長陽村長野

東北の烏帽子(えぼし)岳より流れ出る山王谷(さんのうだに)川が、村内を東から西へ下る。東南は河後田(かわごだ)村の小村の袴野(はかまの)村、南西は河後田村・喜多(きた)村、西は河後田村小村の栃木(とちのき)村、北は小村の乙(おつ)ヶ瀬(せ)村、喜多村小村の沢津野(さわづの)村と接する。中世には永野とも記され、阿蘇社大宮司家の私領である南郷一〇ヵ村のうちの一村。宇治惟泰から実名不詳の「あそとの」をへて、正治二年(一二〇〇)に宇治惟次(継)に譲られた(同年一二月一四日「宇治惟泰譲状写」阿蘇家文書など)。惟泰の譲状以後その名がみられないゆえ、大宮司惟義の代からは惣領大宮司家とは別相伝になったと思われる。南北朝期以後は阿蘇社祭礼・造営時の諸役を課され、正平七年(一三五二)には南四宮上葺をつとめている(同年二月吉日「阿蘇社上葺等次第」同文書)。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)によると、長野の分として、「一所おいしまめ一斗 一所なかゑまめ一斗 一所つきのた大豆一斗」があり、中江(なかえ)ノ前(まえ)・大石河原(おおいしがわら)・月(つき)ノ田(た)など小字として残る。

烏帽子岳山麓部に温泉で有名な湯谷(ゆのたに)(湯の谷)の集落がある。


長野村
ながのむら

[現在地名]香北町永野(ながの)

朴木(ほおのき)村の北東、物部(ものべ)川北岸の村々で最も広い平坦な段丘上に位置する。北東は物部川の支流久保(くぼ)川を隔てて大井平(おおいだいら)村。東西二キロ、南北五〇〇メートルという地形が村名の由来。現在は東西に通る県道沿いに物部川北岸唯一の商店街を形成するが、灌漑用水が得がたかった近世初期までは開発の遅れた地の一つであった。「永野」とも記す。

天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は「自是永の名先高五貫ト有」とし、五三筆八町二反八代(田分四町三反余・畠屋敷三町八反余)とあるが、そのすべてが「永野名 永の源兵衛扣」とある。面積の割に貫高評価が低いのは、半ば近くが畠屋敷で田分も下や下々の等級ばかりのためだろう。永野源兵衛の屋敷は「主土ゐ」として一反五代が記される。永野氏はこの村の開発名主として一円支配を保ちつつ、山田氏の時代から長宗我部氏の時代へと無難に対処してきたらしい。源兵衛は長宗我部氏に仕え忠勤を励んだ結果、中谷(なかだに)村を給地に与えられ、物部川南岸の韮生野(にろうの)村ではかつての有光氏の支配地と、有光氏が務めてきた大川上美良布(おおかわかみびらふ)神社の神官職を継承。


長野村
ながのむら

[現在地名]中仙町長野

玉(たま)川中流の沖積平野に集落がある。玉川を挟んで西側は長野(ながの)山(二四九・二メートル)や八乙女(やおとめ)山などの丘陵地帯、東側には平野が広がり、東は東長野村・黒土(くろつち)村、南は鑓見内(やりみない)村・大蔵(おおくら)村、北は袴田(はかまだ)村・館郷(たてのごう)村に接する。玉川西岸の丘陵の麓数ヵ所から縄文期の土期・石器が採集される。

応永二六年(一四一九)八月南部政光が修理亮光経に与えた置文(南部家文書)に「山北之長野」とみえる。慶長七年(一六〇二)九月佐竹氏秋田入部に際し「北又七郎義簾を仙乏郡長野紫島城に」配置したとある(羽陰史略)。天正一八年(一五九〇)の太閤検地の際色部真長の記録の写と思われる「仙北御在城の節御支配、仙北領村付帳の写」(色部文書)に「なかの村」「きつねつか村」とあり、これは長野村と支郷狐塚村であろう。伝説によれば安倍氏一族がこの地域を支配し「先づ一番に仙北金沢洗か城、二番に長野八乙女城、三番に神宮寺楊の森鶴か城」(「安倍合戦の次第」中仙町郷土史資料)を築いたとある。


長野村
ながのむら

[現在地名]養父町長野

町(まち)村の南にあり、建屋(たきのや)谷の最奥部を村域とする。建屋川の上流に向かって順に野谷(のたに)・石(いし)ヶ坪(つぼ)・柴(しば)・尾之上(おのうえ)・内山(うちやま)・長野・井之坪(いのつぼ)・唐川(からかわ)の八集落に分れる。内山から南西に向かう道は朝来(あさご)郡佐中(さなか)村(現朝来町)、井之坪から八代(やしろ)峠越で南に向かう道は同郡八代村(現朝来町)、唐川から北に向かう道は同郡奥(おく)村(現和田山町)にそれぞれ至った。なお佐中村に至る道、奥村に至る道はともに現在荒廃が著しい。江戸時代は幕府領(寛永一六年知高帳・宝暦七年但馬国高一紙、「但馬国高附郡訳手控」岡田家文書など)。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高四二五石余。天保郷帳では高四四七石余。天保一四年(一八四三)の家数一二五(「村覚書」建屋区有文書)。


長野村
ながのむら

[現在地名]丹原町長野

周桑平野の西南端に位置する。東は田野(たの)村に、南は寺尾(てらお)村・石経(いしきよう)村に、西は石経村・来見(くるみ)村・高松(たかまつ)村に、北は高松村・田野村に接する。田滝(たたき)川・関屋(せきや)川の扇状地の扇端部にあたり、南境を中山(なかやま)川が東北に流れる。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布(しゆうふ)郡の項に高一千三五石六斗九升うち田方六八六石七斗八升九合、畠方三四八石九斗一合とあり、「長野村 小川有」とみえる。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記も同石高で「松平隠岐守知行 長野村」とみえる。寛文四年(一六六四)の「寛文印知集」にも「周敷郡之内二拾四箇村 長野村」とあり、天保郷帳では高一千六二石一斗九升五合とあり、村名表記は変わらない。

「田野村誌」によると、字上地(かみじ)に厳島神社があり、その社伝文書によると内大臣平重盛が一千貫の土地を献上したとある。その史実関係は不明だが、田野郷の一部として早くから開けていたと思われる。


長野村
ながのむら

[現在地名]周東町大字西長野(にしながの)

玖珂郡の西南部に位置し、萩藩領で熊毛宰判に属した。村域は岩国藩の須通(すどおり)村の下須通(しもすどおり)が中央に入りこみ、東西二地区に分離していた。東部は口長野(くちながの)と称し、東は下久原(しもくばら)、北は山越に獺越(おそごえ)の各村、南は島田(しまた)川を隔てて差川(さすがわ)村に接し、西部は奥長野と称し、西は熊毛(くまげ)郡樋口(ひぐち)村(現熊毛町)、北は須通村である。

中世椙杜(すぎのもり)と称した地域を近世初期に分割してできた村の一で、村名の初見は寛永三年(一六二六)正月、益田玄蕃・清水信濃連署による天野伝三郎宛「御配付立」(「閥閲録」所収天野求馬家文書)で「四百拾石九斗八升六合 同郡長野村」とある。


長野村
ながのむら

[現在地名]行田市長野一―三丁目・桜町(さくらちよう)一―三丁目・旭町(あさひちよう)・富士見町(ふじみちよう)・長野

行田町の東に続き、北は白川戸(しらかわど)・小見(おみ)の両村、南は埼玉(さきたま)村。日光脇往還が北部を南西から北東に貫いている。「風土記稿」は、「按ニ東鑑ニ畠山重忠カ弟長野重清ト云人ヲ載ス、是恐ラクハ当所ノ住人ニシテ、在名ヲ氏ニ唱ヘシナラン」といい、さらに室町・戦国期の長野信濃守・長野一孤斎らの人名をあげて「是等重清カ子孫ナトニヤ、モシ然ランニハ古ク開ケシ地ナリ」と述べている。水田地帯を隔てた南部は埼玉古墳群一帯の洪積台地にかかっていて、村内には白山(はくさん)古墳があり、また北部微高地上には、加曾利・鬼高・国分の諸期にわたる集落跡の長野中学校校内遺跡があって、墨書のみられる須恵器が出土している。群馬県榛名(はるな)町長谷(ちようこく)寺所蔵の至徳二年(一三八五)一一月書写の大般若経巻四二八奥書にみえる「忍保住長野満願寺」は当地か。


長野村(善光寺町)
ながのむら

東は三輪(みわ)・上松(うえまつ)の二村と境し、南は鐘鋳(かない)川によって妻科(つましな)村(現南長野)・鶴賀(つるが)村と境し、西は腰(こし)村(現西長野)に接続し、北は湯福(ゆぶく)川で箱清水(はこしみず)村(現長野)と境する。善光寺を中心とした門前集落で、村名の初見は慶長六年(一六〇一)九月一六日の大久保長安等連署証文(善光寺文書)で、「善光寺御寺領之割」に「一弐百五拾石 信州水内郡之内長野」とある。同年七月二七日の徳川家康寄進状(同文書)に、

<資料は省略されています>

とあるように、長野村は善光寺領と定まり、以後、江戸時代を通じて善光寺の支配するところであった。


長野村
ながのむら

[現在地名]岡山市長野

磯(いそ)ヶ部(べ)村の北にあり、砂(すな)川上流の鳴谷(なるたに)川に沿い、高原谷間の標高およそ五〇メートルに位置する。龍王(りゆうおう)山東麓の峠を越え西は備中賀陽郡稲荷(いなり)村。文明三年(一四七一)の備前一宮神事等注文(吉備津彦神社文書)に「長野村」とみえる。当地周辺の地形から天正一〇年(一五八二)豊臣秀吉は高松(たかまつ)城水攻めの時に、同城前面に築堤、足守(あしもり)川の水を引入れるとともに、鳴谷川を堰止め、龍王山東麓の峠を削り、背後からも水を流入させることを計画したという(中国兵乱記)。しかしこの工事が完成しないうちに講和が成立したため工事を中断、普請を担当した奉行は責任をとって切腹したと伝える。


長野村
ながのむら

[現在地名]大桑村大字長野

長野村は須原宿(すはらしゆく)と野尻宿(のじりしゆく)の中間にある村で中山道沿いに耕地と集落が散在し、ただ伊奈川(いながわ)集落だけが駒(こま)ヶ岳から流れ出る木曾川支流の伊奈川渓谷に点在している。

元徳元年(一三二九)の小木曾庄検注雑物目安注文(高山寺文書)に出てくる「永野保(ながのほ)」は、この長野村ではないかと考えられる。「長野」の地名が記録のうえに現れてくるのは、嘉永四年(一八五一)の「木曾旧記録」に「若宮ぢんれうの事、長野しゝごの内ニ而五拾疋のふん、なかくつけ候、別義あるましく候仍如件」とある、天文一九年(一五五〇)の木曾義在の寄進状(木曾旧家所持書付写)が初見である。


長野村
ながのむら

[現在地名]京北町大字細野(ほその) 長野

細川(ほそかわ)七ヵ村の一。大堰(おおい)川の支流細野川沿岸の山間集落。川をさかのぼると細川の下(しも)村に達し、北は山を隔てて宇津(うつ)の弓槻(ゆづき)村・栃本(とちもと)村。古代は「和名抄」に記す池辺(いけのべ)郷に属する。のち細川庄に含まれる。

慶長七年(一六〇二)以後幕府領となり、その後神吉下(かみよししも)村(現船井郡八木町)・上弓削(かみゆげ)村とともに、寛延二年(一七四九)頃から旗本武田氏領に編入された。

延宝検地は延宝七年(一六七九)実施、村高一三一・五三一石(西家文書)。


長野村
ながのむら

[現在地名]河内長野市長野町・末広(すえひろ)町・栄(さかえ)町・本(ほん)町・菊水(きくすい)町

向野(むかいの)村の南にあり、西は西代(にしだい)村。南部で天見(あまみ)川が石川に合流して北流する。西高野街道と東高野街道が長野神社の北で一つになる。また五つの谷などからの七本の道が西代村との境の七ッ辻(ななつつじ)(標高一〇八メートル)で交差する。「山槐記」保元三年(一一五八)九月二八日条に「仍於大野々口辺暫待天曙過野、巳刻於長野或田屋勧饌」とみえ、中山忠親が高野山参詣の途次、四天王寺(現天王寺区)から当地に至っている。

寛永一一年(一六三四)より近江膳所藩領、延宝七年(一六七九)本多忠恒(西代藩)領、享保一七年(一七三二)忠恒の子忠統の伊勢神戸(かんべ)転封に伴い神戸藩領となって幕末に至る(中村宏家文書)。


長野村
ながのむら

[現在地名]山口市大字大内長野(おおうちながの)

仁保(にほ)川の東岸、深野(ふかの)村の南にあり、西は御堀(みほり)、東は小鯖(おさば)、西南は矢田(やた)の各村。山口宰判に属した。

貞和四年(一三四八)一〇月一七日の足利直義下知状(三浦家文書)に「右当庄内永野小高地領安芸蔵人三郎貞敏抑留初任検注之由、依訴申、可尋沙汰之旨、被下院宣訖」とあり、この永野が当地である。鎌倉・室町時代を通じ、仁保庄は上領(かみりよう)・下領(しもりよう)に分れていたが、下領が深野郷・永野郷の地であったらしい。永野郷には御堀村興隆(こうりゆう)寺の寺領があり、応永二七年(一四二〇)七月一二日付の興隆寺文書に、「防州吉敷郡永野郷内伍拾石地弘中民部丞知行分事、為氷上山興隆寺領御寄附訖、随而当社日御供并本堂仏性廻廊灯油事以此土貢、不退可被致其沙汰之旨、所被仰付当寺雑掌也」とある。


長野村
ながのむら

[現在地名]諫早市長野町

有喜(うき)村の北方、小川(おがわ)村の東方、本明(ほんみよう)川右岸に位置し、有明海に臨む。地内の円墳木秀(きしゆう)古墳は石槨が高さ二・六メートル、幅四メートルの平らな自然石を組合せたもので、勾玉・金環・直刀・馬具・須恵器などが出土したという(大正一四年発掘)。中世は伊佐早(いさはや)庄のうちとして永野村などとみえ、長野城が築かれていた。近世は諫早郷に属し、肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。慶長国絵図に「宇木ノ内 長野」とみえ、正保国絵図では長野村として高六七五石余。玄梁院代配分村付帳では地米高三九八石余。


長野村
ながのむら

[現在地名]稲沢市長野町

東は下津(おりづ)村に接し、村の北から東境へと大助(おおすけ)川が曲がりながら流れ、中央の万徳(まんとく)寺の周囲に人家が集中しており、南北二区に分れていた(天保村絵図、徇行記)。

古名を長沼(ながぬま)・久田(くた)と称し、弘安五年(一二八二)浄金剛(じようこんごう)院領としての千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に「中嶋郡北条河崎郷久田村一丁六反三百歩」とみえ、永徳二年(一三八二)覚禅抄奥書(万徳寺文書)に「中嶋郡久田郷内長沼村」とみえる。


長野村
ながのむら

[現在地名]田島町長野

田島村の北東、加藤谷(かとたに)川が阿賀川に合流する地に位置し、南に斎藤(さいとう)山(一二七八・三メートル)がそびえる。中世には児島(こじま)・大沢(おおさわ)などからなる散居村であったが、下野街道が整備される過程で田島宿と楢原(ならはら)宿(現下郷町)の間宿として宿駅形態を整えていったとみられる。阿賀川対岸の岩本(いわもと)村(現同上)へは下河原(しもがわら)にある渡しで渡河していた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高四〇九石余。


長野村
ながのむら

[現在地名]安富町長野

南流する安志(あんじ)川(現林田川)の両岸を占め、集落は右岸に立地する。中世は安志庄に含まれ、野(の)村と称された。現奈良県斑鳩(いかるが)町の法隆寺が所蔵する文明一一年(一四七九)八月一〇日の年紀銘をもつ食堂鰐口銘に「播州宍粟郡安志庄之内野村貴布禰社」とあり、この鰐口は安志庄野村所在の貴布禰(きぶね)神社につられていたものである。現在の安富町長野では林田(はやしだ)川支流となる安志川をのぶら河(ご)と俗称し、近世・近代の史料は安志川を野村川とする(旧宍粟郡役所文書など)。


長野村
ながのむら

[現在地名]直入町長湯(ながゆ) 長野

筒井(つつい)村の北、芹(せり)川上流域南岸に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高六四石余・畑高二四石余、朽網(くたみ)郷に属した。旧高旧領取調帳では高二三二石余。長野組の中心村で、大庄屋が居住。大庄屋の大塚家は文禄三年(一五九四)中川氏入封直後、朽網氏旧臣の利兵衛が千石庄屋(のち大庄屋)に任命され、以降代々継承した(地方温故集)。岡藩の小制札場が設けられていた(岡藩御覧帳細注)。文政八年(一八二五)の家数(頭百姓)三五・人数一四四(「切支丹御改踏絵踏申帳」戸伏家文書)。江戸時代後期、岡藩領の豪農百撰中に大庄屋直三郎・軍治・利藤次・角五郎・権兵衛の五名がみえる(「農家百人撰」北村文庫)。


長野村
ながのむら

[現在地名]小倉南区長野一―三丁目・長野本町(ながのほんまち)一―四丁目・長野東町(ながのひがしまち)・長野・舞(まい)ヶ丘(おか)一―六丁目・横代東町(よこしろひがしまち)二―三丁目

貫(ぬき)村の北、竹馬(ちくま)川流域に立地する。元和八年人畜改帳に永野村とみえ、御蔵納分の高八七四石余、給人七人分の高五五八石余の二筆で、家数一四一、人数三三一(うち惣庄屋一・百姓一九・名子二一・山ノ口一・坊主八・山伏三・社人一・鍛冶一)、牛三三・馬一八。宝永三年(一七〇六)の検地帳(企救郡誌)では長野村が田畠四七町二反余、上長野村が田畠五六町八反余。


長野村
ながのむら

[現在地名]岩国市大字長野

現岩国市域最南端の村で、南と西は由宇(ゆう)村(現玖珂郡由宇町)。長野はもと通津(つづ)郷の小名で、延宝八年(一六八〇)通津郷を通津村と長野村に分割してできた村である。小名に、長野尻(ながのじり)・棚田(たなだ)・四段田(したんだ)・兼丈(けんじよう)・八郎小路(はちろうしようじ)・山田(やまだ)・舞々(まいまい)・明王院(みようおういん)などがある。享保一一年(一七二六)の調査では、家数一四〇軒、人口五八八人、牛七三頭、馬二八頭(享保増補村記)。庄屋は通津村庄屋の兼務、村内に刀禰二人がいた。

延宝八年の検地で村高六九六石余、うち田方六二四石余、畑方七一石余であったが、その後田方が少し増加して、宝永元年(一七〇四)の再検では村高七一〇石余になった。しかし享保九年の村高は六二八石余で大幅に減少。


長野村
ながのむら

[現在地名]信楽町長野

勅旨(ちようし)村の南に位置し、山に囲まれる。東方は伊賀国境。村内を大戸(だいど)川が貫流し、主集落はその西方に開ける。中世は信楽庄に属した。建武四年(一三三七)四月二五日の山中道俊・同頼俊軍忠状案(山中文書)に「長野」とみえるのが早い。「後法興院記」応仁二年(一四六八)八月二二日条によれば、長野郷などの沙汰人百姓が乱を避けて当地に下向してきた近衛政家に酒を進上している。


長野村
ながのむら

[現在地名]基山町大字長野字長野・西長野(にしながの)・上野(うえんの)・長(なが)ノ原(はる)

主たる集落は現基山町の南東部平地にあるが、村域は奈良田(ならだ)村と入り組んで広く分散し、小名集落の久保田(くぼた)・山下(やました)(以上現字西長野)、上野・今町(いままち)は長崎街道が通る西部丘陵地に立地する。文禄四年(一五九五)の検地帳写(基養精細録)に「長野村」とある。「永野村」と書くものもある。西部丘陵地には弥生・古墳時代の遺跡があり、おもな集落は条里制の一条にあたる。


長野村
ながのむら

[現在地名]八女市長野

山内(やまうち)村の東にあり、中央部を星野(ほしの)川が西流する。久留米および豊後方面に至る山中(さんちゆう)街道が通る。星野村(現星野村)へ向かう道が通り、一里塚が設けられていた(在方諸覚書)。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「なかの村」とみえ、「深水村」(比定地未詳)と合せて高二五八石余。慶長七年(一六〇二)五月「高妻郡長野村」内の五一石余などが筑後国鋳物師大炊介子孫の永代召抱え分として平井忠三郎に与えられている(「田中吉政印判状」平井文書)。


長野村
ながのむら

[現在地名]松浦市志佐町(しさちよう) 長野免(ながのめん)

横辺田(よこべた)村の南西に位置し、志佐川が流れる。北西に高法知(たかぼうち)岳、南に刀(かたな)ノ越(こえ)がある。明応四年(一四九五)秋、肥前佐賀の龍造寺氏および大村氏の軍勢は、志佐純昌の直谷(なおや)城(現吉井町)を攻略、その帰路を梶木場(かじこば)(現同上)から上志佐(かみしさ)にとって刀ノ越で休息を取っていたところ、直谷城の残党が急襲、再び合戦に及び、多数の戦死者が出たという(「壺陽録」など)。千人(せんにん)塚という墳墓がある。江戸時代は平戸藩領で、志佐筋に属する。


長野村
ながのむら

[現在地名]津和野町長福(ながふく)

平野(ひらの)村の北、砥石(といし)山西麓の津和野川上流域に位置し、長野盆地の北部に集落がある。津和野城下から飯浦(いいのうら)(現益田市)方面へ至る道が通り、中世以来交通の要衝であったとみられる。奥(おく)ヶ野(の)に築かれた御嶽(みだけ)城の南西麓にあたり、土井(どい)・土井内(どいうち)・門田(かどだ)・市(いち)・紺屋(こんや)の地名が残る。宝永石見国郷村帳では高五八四石余。


長野村
ながのむら

[現在地名]和泉村長野

鷲鞍(わしくら)岳の東麓、九頭竜(くずりゆう)川の谷間に位置する。上流は野尻(のじり)村の枝村影路(かげろ)、下流は鷲(わし)村。枝村に越戸(おつと)があった(越前国名蹟考)。天正一二年(一五八四)四月一五日付の長勝(ちようしよう)寺(現大野市)への帰参連判状(長勝寺文書)に「長野」とみえる。また文禄五年(一五九六)一一月二〇日付の誓紙(同寺文書)に「おつと」の名がみえる。正保郷帳によれば田方九石余・畠方四石余。

寛文三年(一六六三)から同五年にかけて、本百姓と新百姓との間で争論が生じ、福井藩の命で割地をしている。


長野村
ながのむら

[現在地名]前原市長野

本(ほん)村の南、長野川上流部の山間に位置する。東は飯原(いいばる)村、西は枝村の川付(かわつき)村。南は長野峠を経て肥前国小城(おぎ)郡上無津呂山(かみむつろやま)村(現佐賀県富士町)に至る(地理全誌)。「和名抄」所載の怡土(いと)郡長野郷の遺称地とする説がある(続風土記)。中世には長野庄が成立。文禄四年(一五九五)一二月一日、小早川秀秋は長野村二千三一八石余などの代官に堀田初左衛門尉を任じている(「怡土郡蔵入目録」保井芳太郎氏所蔵文書)。正保郷帳では田二千六九石余・畠二七三石余。


長野村
ながのむら

[現在地名]椎葉村下福良(しもふくら)

若宮(わかみや)村の西、小崎(こざき)川を隔てた山腹に位置する。永野とも記す。下福良掛三九ヵ村の一つで、下福良組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として長野とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑八畝余(高七升余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)の下福浦村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)では「とふの尾山」に焼畑七枚・三反五畝六歩があり、その年貢米七升余・代銀四匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(相良家文書)では高四斗余。


長野村
ながのむら

[現在地名]都農町川北(かわきた)

岩山(いわやま)村の北に位置し、東流する心見(こころみ)川中流域左岸に立地する。野別府(のびゆう)川北郷に属した。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高二三三石余。近世中期以降開発が盛んに行われ、天保郷帳では高四九二石余。宝暦一〇年(一七六〇)川北郷のうち寺迫組と長野組が心見村清五郎へ名主支配を命じられ(本藩実録)、天明二年(一七八二)の郷分け以後も当村は心見名主支配であった(「野別府代官目安」本藩秘典)。


長野村
ながのむら

[現在地名]庄内町長野

雨乞(あまごい)岳(一〇七三・七メートル)の南東麓、葛原(かずらわら)村の北にある。貞治三年(一三六四)二月の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)に長野村、永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)に永野村とみえる。天正三年(一五七五)から同六年の間の九月二〇日阿南(あなん)庄長野村のうち和泉三貫分が田北六郎に預けられている(「大友義統知行預ケ状写」田北一六文書)。同六年には御主殿作の役負担が一七貫分賦課されている。江戸時代の領主の変遷は正徳二年(一七一二)まで龍原(たつはる)村に同じで、同年以降幕末まで幕府領(寛政一一年以降肥前島原藩預地)。


長野村
ながのむら

[現在地名]吉井町桜井(さくらい)

筑後川に合流する隈上(くまのうえ)川両岸に位置する。元禄国絵図によると本高は一四五石余、同絵図には長野村のうち向長野(むかいながの)村の記載がある。「在方諸覚書」では古高一九〇石・役高二四一石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二四四石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一〇町余・開田二町八反余・畑田二町余・畑二町一反余・居屋敷二反余。旧高旧領取調帳によると高二四五石余。寛文四年(一六六四)大石長野(おおいしながの)水道の長野堰(水門)が築かれた。


長野村
ながのむら

[現在地名]久美浜町字長野

佐濃谷(さのだに)川の支流長野川の最上流に位置し、東は中郡と境する。三方を山に囲まれ、口長野(くちながの)・奥長野(おくながの)の二集落に分れる。西は長野川下流の竹藤(たけふじ)村に通じる。

丹後国田数帳に「為延吉岡竹藤三ケ保 廿五町二段九十歩内」とみえる「為延保」を奥長野とする説があるが判然しない。慶長検地郷村帳に高一四〇・七石「長野村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で一九〇石余となった(天和元年宮津領村高帳)。


長野村
ながのむら

[現在地名]菊池市竜門(りゆうもん)

染土(そめつち)村の東、迫間(はざま)川沿いの山間にある小さな村。隈府(わいふ)町高札辻より約一里三一町。現在の竜門のほぼ東南を占めていた。天正一七年(一五八九)の検地帳に田二町四反七畝(うち下田一町二反五畝余)・畠二町五反八畝余(うち上畠一町五反二畝余)、分米五〇石余とある。近世は深川手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の深川手永手鑑には高六六石二斗余、田二町三反五畝余・畑四町一畝余、竈数一九・人数六八、牛馬三二、氏神天満宮とあり、産物に麻苧が記されている。肥後国中寺社御家人名附に造酒屋今右衛門の名がみえる。


長野村
ながのむら

[現在地名]綾部市睦寄(むつより)町 長野

上林(かんばやし)川上流域、右岸山麓の若狭街道沿いにある。東は山内(やまうち)村、南は上林川を隔てて志古田(しこだ)村。西は大町(おおまち)村であるが、村境の石(いし)ヶ鼻(はな)付近は険阻な峡谷をなす。

中世は上林庄の地。地名は天文年間(一五三二―五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「長野之左衛門母」とみえるのが早い。


長野村
ながのむら

[現在地名]津久見市中町(なかまち)、上青江(かみあおえ) 長野・栄町(さかえまち)

垣籠(かきごもり)村の東、青江川の下流右岸に位置し、東は道籠(どうごもり)村。江戸時代は臼杵藩領で、初め津久見村組(慶長一一年惣御高頭御帳)、のち道尾組に属した(「臼杵藩御会所日記」など)。村名の由来について「臼杵小鑑」は「高麗陣着到帳、玖珠郡衆の中に、長野太郎・長野伯耆守・長野弾正忠・長野内記允など見えたり。是等の人々此所に住しよりの名あるもしるべからず」と記す。


長野村
ながのむら

[現在地名]原町市長野

信田沢(しだざわ)村の東に位置し、北に枝郷北長野村がある。東は南新田(みなみにいだ)村・牛越(うしごえ)村。長埜・永野とも記す。明暦二年(一六五六)深野(ふこうの)村から分村して成立、寛文四年(一六六四)北長野村を分村(相馬藩政史)。天保郷帳には「古者 長野村・北長野村弐ケ村」と注記される。明暦二年の高六九九石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高四八九石余、ほかに北長野村四三八石余がみえる。なお元禄検地高は六二〇石余、ほかに新田一五石余がある(奥相志)。


長野村
ながのむら

[現在地名]曾爾村大字長野

曾爾川西岸、小長尾(こなご)村の上流に位置。慶長郷帳の村高三二五・七七石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領、元禄八年(一六九五)幕府領となる。元禄検地で村高は四六五・八一五石と大きく増石した。弘化二年(一八四五)の村方明細帳写によると反別四六町九反一二歩、山三五町八反三畝一〇歩で、愛宕(あたご)社と二寺があり、家数四〇、人数一七一である。耕地は「水損場旱損場」で「田畑共綿作一切無御座」とあり、「男ハ炭焼葛掘仕候、女ハ苧綿稼仕候」とみえる。


長野村
ながのむら

[現在地名]板柳町長野

東は柏木堰(かしわぎぜき)村(現南津軽郡藤崎町)、西は大田(おおだ)村、南は横沢(よこさわ)村、北は深味(ふかみ)村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎(いなか)郡の新田に一八〇・〇一石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に田方六〇町九反五畝九歩、畑方八町五反一畝二〇歩、田畑屋敷合せて六九町四反六畝二九歩、村高六三七・九〇五石、百姓五一人、郷蔵屋敷、漆木一六本と記す。


長野村
おさのむら

[現在地名]氷上町長野

北端を葛野(かどの)川が流れ、東は柿芝(かきしば)村、南は弘浪(こうろう)山。同山の高山(こうさん)寺(現真言宗大覚寺派。常楽に移転。)の門前集落として発達した。当地一帯は原野であったが、慶安四年(一六五一)播磨より来住した久右衛門(のちの采女氏)が開墾したと伝える(沼貫村誌)。元禄八年(一六九五)柏原藩領となり(柏原藩領知目録)、幕末に至る。


長野村
ながのむら

[現在地名]砥用町三和(みつわ) 長野・耳取(みみとり)・中原(なかばる)

東に北(きた)村、南に土喰(つちばみ)村、北に常海原(じようかいばる)村がある。慶長国絵図に村名が見える。砥用手永に属し、正保郷帳によると高一〇〇石三斗余、うち田方二一石五斗余・畠方七八石七斗余。「肥集録」には中原・小迫(こさこ)といった小村名がみえる。


長野村
ながのむら

[現在地名]朝日町長野

小(お)川右岸にあり、北と東は南保(なんぼ)村、西は二(ふた)ッ村、小川対岸は殿(との)村。南保村から分れて村立てしたと伝える(下新川郡史稿)。正保郷帳では高五五石余、田方三町九反余・畑方一反、新田高六八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一三八石、万治二年(一六五九)の新田高二石、免四ツ(三箇国高物成帳)。


長野村
ながのむら

[現在地名]福崎町高岡(たかおか)

神谷(こだに)村の北に位置し、七種(なぐさ)川流域に立地する。神西(じんさい)郡に属し、北は桜(さくら)村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方一二一石余・畑方一〇三石余、「旱損所・芝山有」と注記される。元禄郷帳では高九八石余と大幅に減少しているが、これはこの間に桜村を分村したためと思われる。


長野村
ながのむら

[現在地名]矢部町長原(ながはる)

北東は小原(こわら)村、北は下市(しもいち)村と接する。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「なかの」とみえ、貫高は六貫五〇〇文。慶長八年(一八〇三)当村の総高九九石四斗三升が長尾安右衛門に宛行われている(同年一二月九日「加藤清正黒印状」弥富文書)。慶長国絵図にも村名がみえる。


長野村
ながのむら

[現在地名]水俣市長野

水俣川右岸に位置し、西は陳内(じんない)村、北東は初野(はつの)村、東南は中鶴(なかづる)村、南は水俣川を隔てて出野(いでんの)村がある。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳に「水俣之内長野村」とみえ、屋敷数一四、男五三・女三五、牛四・馬一があげられるが、後に分村した出野村を含んだ数字と考えられる。


長野村
ながのむら

古代にみえる村名。現宇久町小浜郷(おばまごう)長野とされるが、定めがたい。「続日本紀」天平一二年(七四〇)一一月三日条に「松浦郡値嘉島長野村」とみえ、天平一二年九月に大宰府管内で兵一万余を集めて反乱を起こした藤原広嗣は値賀(ちか)島に敗走、そこから出航し、東風にのって四日後に耽羅島(済州島)の近くまで達したものの、風がやんだため一昼夜漂流したあと西風を受けて値賀島に戻され、「等保知駕島色都島」に着岸を余儀なくされたという(同書同年一〇月五日条)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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