日本歴史地名大系 「長野村」の解説
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
東北の
烏帽子岳山麓部に温泉で有名な
長野村
ながのむら
天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は「自是永の名先高五貫ト有」とし、五三筆八町二反八代(田分四町三反余・畠屋敷三町八反余)とあるが、そのすべてが「永野名 永の源兵衛扣」とある。面積の割に貫高評価が低いのは、半ば近くが畠屋敷で田分も下や下々の等級ばかりのためだろう。永野源兵衛の屋敷は「主土ゐ」として一反五代が記される。永野氏はこの村の開発名主として一円支配を保ちつつ、山田氏の時代から長宗我部氏の時代へと無難に対処してきたらしい。源兵衛は長宗我部氏に仕え忠勤を励んだ結果、
長野村
ながのむら
応永二六年(一四一九)八月南部政光が修理亮光経に与えた置文(南部家文書)に「山北之長野」とみえる。慶長七年(一六〇二)九月佐竹氏秋田入部に際し「北又七郎義簾を仙乏郡長野紫島城に」配置したとある(羽陰史略)。天正一八年(一五九〇)の太閤検地の際色部真長の記録の写と思われる「仙北御在城の節御支配、仙北領村付帳の写」(色部文書)に「なかの村」「きつねつか村」とあり、これは長野村と支郷狐塚村であろう。伝説によれば安倍氏一族がこの地域を支配し「先づ一番に仙北金沢洗か城、二番に長野八乙女城、三番に神宮寺楊の森鶴か城」(「安倍合戦の次第」中仙町郷土史資料)を築いたとある。
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
周桑平野の西南端に位置する。東は
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
「田野村誌」によると、字
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
- 埼玉県:行田市
- 長野村
行田町の東に続き、北は
長野村(善光寺町)
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
- 大阪府:河内長野市
- 長野村
寛永一一年(一六三四)より近江膳所藩領、延宝七年(一六七九)本多忠恒(西代藩)領、享保一七年(一七三二)忠恒の子忠統の伊勢
長野村
ながのむら
- 山口県:山口市
- 長野村
貞和四年(一三四八)一〇月一七日の足利直義下知状(三浦家文書)に「右当庄内永野小高地領安芸蔵人三郎貞敏抑留初任検注之由、依訴申、可尋沙汰之旨、被下院宣訖」とあり、この永野が当地である。鎌倉・室町時代を通じ、仁保庄は
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
- 愛知県:稲沢市
- 長野村
東は
古名を
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
- 山口県:岩国市
- 長野村
現岩国市域最南端の村で、南と西は
延宝八年の検地で村高六九六石余、うち田方六二四石余、畑方七一石余であったが、その後田方が少し増加して、宝永元年(一七〇四)の再検では村高七一〇石余になった。しかし享保九年の村高は六二八石余で大幅に減少。
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
- 福岡県:八女市
- 長野村
長野村
ながのむら
- 長崎県:松浦市
- 長野村
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
- 熊本県:菊池市
- 長野村
長野村
ながのむら
- 京都府:綾部市
- 長野村
中世は上林庄の地。地名は天文年間(一五三二―五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「長野之左衛門母」とみえるのが早い。
長野村
ながのむら
- 大分県:津久見市
- 長野村
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
おさのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
長野村
ながのむら
- 熊本県:水俣市
- 長野村
水俣川右岸に位置し、西は
長野村
ながのむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報