信濃川左岸の河岸段丘の南部一帯の呼称。狭義には伊勢平治の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
(1)平曲の曲名。《千寿》とも書く。《千手前(せんじゆのまえ)》とも称する。平物(ひらもの)。フシ物。源平の戦で捕虜になった平重衡(しげひら)が鎌倉へ護送されたので,頼朝が対面し,東大寺焼討ちの責任についてただす。重衡は一門の不運を嘆き,自分の処刑を急ぐよう願うが,奈良の寺院の意向も聞かねばというので許されない。重衡は狩野介宗茂(かののすけむねもち)に預けられ,手越(てごし)の宿(しゆく)の長(ちよう)の娘の千手前が世話をすることになる。雨の降る夜,千手は琵琶,箏(こと)を持って重衡の前に出た。宗茂も酒を勧める。千手の歌った〈羅綺(らき)の重衣(ちようい)たる……〉という朗詠は北野天神の御作で,歌えばその加護があるといわれていた(〈折リ声・サシ声〉)。しかし重衡が,もはやこの世の運命は決定していると言うので,〈十悪といへども猶(なお)引摂(いんじよう)す……〉の朗詠,〈極楽願はん人は……〉の今様を数回歌うと,重衡も杯を重ねた(〈中音(ちゆうおん)〉)。管絃の曲では,〈後生楽〉に通じる曲名の《五常楽(ごしようらく)》,〈往生の急〉に通じる《皇麞急(おうじようのきゆう)》が奏された。千手がさらに,〈一樹の陰に宿り……〉の白拍子を歌うと,重衡も〈ともし火暗うしては数行(すこう)虞氏が涙……〉という朗詠を歌う(〈三重(さんじゆう)〉)。この朗詠は,楚の項羽が軍に敗れ,妃の虞氏と嘆き合ったという故事の詩である(〈初重〉)。こうして人々は夜明けに退去したが,あとで聞くと,頼朝が夜通し立ち聞きして重衡の歌と琵琶に感じ入っていたという。のちに重衡はふたたび都に送られ,奈良で斬られたので,千手は尼になって信濃の善光寺に入り,重衡の後世(ごせ)を弔ったという。
(2)能の曲名。喜多流は千寿と書く。三番目物。鬘物(かつらもの)。作者不明。シテは千手前。狩野介宗茂(ワキ)に預けられた平重衡(ツレ)を千手前が訪れ,酒宴の席で朗詠などが歌われるという,平曲の筋を舞台化した能だが,歌い物の数を減らした代りに重衡の身の上を〈クセ〉で描き,千手の舞(〈序ノ舞〉)を添え,重衡が都へ再護送されるのを千手が見送るところで終わる。〈クセ〉の詞章の大部分は重衡の述懐であるのに,それを千手に舞わせるという演出に無理があるため,観世流にはこの部分を省く変型の演出も用いられる。
執筆者:横道 万里雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
能の曲目。三番目物。五流現行曲。喜多(きた)流は『千寿』と表記。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作。典拠は『平家物語』。一谷(いちのたに)で捕虜となった平重衡(しげひら)(ツレ)は、鎌倉へ送られ、明日知れぬ命を狩野介宗茂(かののすけむねもち)(ワキ)の館(やかた)に預けられている。朝敵ゆえに出家の望みも鎌倉幕府から拒否されている。源頼朝(よりとも)から派遣された千手の前(シテ)は、重衡をさまざまに慰めて舞を舞い、重衡も興にのって千手の琴に琵琶(びわ)をあわせるが、また勅命によって刑死の待つ奈良へと護送されていく。幽閉の貴公子と東国の美女の、はかない思いと別れを描く佳作。
[増田正造]
…おもな集落は信濃川の段丘面に分布し,盆地内では最大の米作地域となり,魚沼コシヒカリの産地として知られる。中心地の千手(せんじゆ)は近世には善光寺街道の馬継場で,馬市でも知られた。絹織物で有名な十日町市,小千谷市に隣接し,縮織の出機(でばた)地域でもあった。…
※「千手」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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