東塩小路村(読み)ひがししおこうじむら

日本歴史地名大系 「東塩小路村」の解説

東塩小路村
ひがししおこうじむら

[現在地名]下京区東塩小路町・東塩小路〈釜殿かまどの町・高倉たかくら町・向畑むかいはた町〉

北は七条通(旧七条大路)の南で町地に接し、南は御土居おどいを越えたところで紀伊きい東九条ひがしくじよう(現南区)に接する。東は愛宕おたぎ柳原やなぎはら村、西は西洞院にしのとういん川を境に接する。ほかに御幸町ごこまち通五条下ルに、来迎堂廻らいごうどうまわりと称する飛地を明治九年(一八七六)の地租改正まで有していた。享和二年(一八〇二)作成の城州葛野かどの郡東塩小路村惣絵図(東塩小路村文書)によれば、東洞院通の東、七条通から御土居の間に集落が形成されている。平安京の条坊では左京八条三坊の大部分を占め、更に東側一部が八条四坊西側へ突出している。

村名の由来について、「葛野郡各町村沿革調」に「古老ノ伝聞」として、嵯峨天皇の時代(九世紀)、源融の六条河原院かわらのいんに築かれた塩竈に海水を運ぶための道にあたっていたため、塩小路という名がつけられたと記す。保延三年(一一三七)九月二二日の平宗貞家地売券(東寺百合文書)に、地点標示として「在左京太宮西自塩小路北塩小路面」とあるから、道路名としては一二世紀前半には既に成立している。村落名としては、一五七三年(元亀四)五月二七日付のルイス・フロイス書簡に、信長によって焼かれた京都の村の一つとして、「figaxixonocoji」と表記される。なお「坊目誌」には、応仁の乱後「烏丸村」と称し、天正以来「東塩小路」と改めた旨の記事があるが典拠は明らかでない。

鎌倉時代には既に洛中における富裕な商業地帯となっていたことが、「明月記」文暦元年(一二三四)八月五日条の、「一昨日火事実説、烏丸西、油小路東、七条坊門南、八条坊門北、払地焼亡、土倉不員数商賈充満、海内之財貨只在其所云々」という記事や、「民経記」寛喜三年(一二三一)六月三日条の「夜半塩小路西洞院辺有炎上、□至町焼失云々、件町頗潤屋云々」という表現から推察できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報