東摩郡(読み)ひがしちくまぐん

日本歴史地名大系 「東摩郡」の解説

摩郡
ひがしちくまぐん

面積:四六二・五九平方キロ
麻績おみ村・坂井さかい村・坂北さかきた村・本城ほんじよう村・生坂いくさか村・四賀しが村・明科あかしな町・波田はた町・山形やまがた村・朝日あさひ

長野県の中央部松本平に位置する。東方は筑摩山脈の連峰がそびえ、主峰は鉢伏はちぶせ(一九二九メートル)である。その山地は北に延び西に曲ってひじり(一四四七メートル)に達して更級さらしな郡に接する。西方には北アルプスの前山があり、東筑摩郡の南部は木曾郡と接する。鉢盛はちもり(二四四六メートル)の北に延びた支脈の尾根と、乗鞍のりくら(三〇二六メートル)に源を発し東流するあずさ川によって南安曇みなみあずみ郡と境し、その下流では北安曇郡と接する。さい川が東筑摩郡の北西部を流れ、明科から下流は大渓谷地帯となる。東筑摩郡の東は冠着かむりき山(姨捨おばすて山、一二五二・二メートル)の線で更級郡に、保福寺ほうふくじ(一三四五メートル)三才山みさやま峠・美ヶ原うつくしがはらの線で小県ちいさがた郡と境する。また鉢伏山塩尻峠の線で諏訪郡岡谷市善知鳥うとう峠の線では上伊那郡に接する。

古代から近世の終りまでは筑摩つかま郡の名でよばれ、古代には、南から良田よしだ崇賀そが山家やまんべ辛犬からいぬ錦服にしごり大井おおいの六郷が置かれ、その中央部に信濃国府が置かれたと「和名抄」にみえる。良田・崇賀は現塩尻市、山家・辛犬・大井は現松本市、錦服は現東筑摩郡である。

〔原始〕

先土器時代の遺跡は松本市では島内しまうち地区の山田稲干原やまだいねほしばら中山なかやま地区の千石せんごく寿ことぶき地区の赤木山あかぎやま岡田おかだ地区の塩倉しおぐら今井いまい地区の岩垂原いわだれつぱら西原にしつぱら本郷ほんごう地区の三才山・渋池しぶいけ、塩尻市では広丘ひろおか地区の高出たかいで黒崖くろがけ・丘中学校敷地、塩尻地区のいけいり洗馬せば地区のあし片丘かたおか地区の小丸山こまるやま、東筑摩郡内では山形村の大池原おおいけつぱら、本城村の上手山わでやまなどである。遺物は同期の石器である黒曜石製の尖頭器・有舌尖頭器・ナイフ形石器・掻器・石刃などである。松本平周辺の東部・西部・南部の標高七〇〇メートル以上の丘陵台地のローム層地帯に分布する。

縄文時代早期の遺跡は塩尻市筑摩地ちくまち地区の勝弦かつつる峠の十五社平じゆうごしやだいら宗賀そうが地区の平出ひらいで野辺沢のべざわ、片丘地区の舅屋敷しゆうとやしき、松本市中山地区の大久保おおくぼ山、今井地区のコブシ畑、内田の五斗林うちだのごとばやし釈迦堂しやかんどう、山形村の上大池かみおおいけなどである。同期の土器は塩尻市片丘地区の中原なかつぱら俎原まないたつぱら竹の花たけのはな・小丸山・八幡原はちまんばら大林おおばやし富士塚ふじづかなどからも出土する。塩尻市南部の山間丘陵には堂屋敷どうやしき御墓堂おはかどう青木幅あおきはば三岳みたけ神社西・栃久保とちくぼなどの遺跡がある。前期の住居跡として調査されているものは舅屋敷第一号跡、山形村の唐沢からさわ遺跡第一号・同第四号遺跡、塩尻市岩垂いわだれ山の神やまのかみ遺跡などがある。

中期遺跡は東筑摩郡・松本市・塩尻市のほぼ全域に分布するが、総合的に調査されたのは塩尻市宗賀の平出遺跡で、ほかに朝日村の熊久保くまくぼ遺跡をはじめ、その後山形村のほら遺跡、波田村(現波田町)麻神おかみ遺跡・葦原あしはら遺跡、塩尻市の焼町やけまち遺跡・小丸山遺跡・山の神遺跡、本城村のコクサギ遺跡、明科町の小谷城遺跡などが調査された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報