日本歴史地名大系 「東泉村」の解説 東泉村ひがしいずみむら 栃木県:矢板市東泉村[現在地名]矢板市東泉上太田(かみおおた)村の東に位置し、中央部を内(うち)川が南流する。天正一九年(一五九一)岡本讃岐守正親が豊臣秀吉から泉一五郷を拝領し、泉城を築き松(まつ)ヶ嶺(みね)城から移動、当地は城下の町場を形成したと伝え、高城(たかじよう)・御屋敷(おやしき)・宿内(しゆくうち)・柳町(やなぎまち)・松並(まつなみ)などの字名が残る。慶安元年(一六四八)に村内五〇石が朱印地として鏡山(きようざん)寺に下され(「徳川家光朱印状」県立文書館蔵)、幕末まで続く。慶安郷帳では高四二八石余、田方三三九石余・畑方七九石余、幕府領。元禄元年(一六八八)旗本本多(旧高旧領取調帳では高二八九石余)に、同一〇年に旗本伊沢(同帳の高二三五石余)に分給され、以後、本多領・伊沢領・鏡山寺領で幕末に至る。 東泉村ひがしいずみむら 福岡県:久留米市旧山本郡地区東泉村[現在地名]久留米市山本町耳納(やまもとまちみのう)耳納山地西部北麓に位置する。屋敷地は山辺(やまべ)往還の南に東から当村・中泉村・西泉村の順に並ぶ。東和泉とも記す。本高は三六八石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高六〇〇石・役高五〇五石。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗七升、人数二九五、馬三一(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高五一八石。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報