日本歴史地名大系 「山本村」の解説
山本村
やまもとむら
- 兵庫県:宝塚市
- 山本村
元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では幕府領(尼崎藩建部政長預地)。寛永一九年平井村を除く山本・口谷・丸橋の一千石が旗本板倉領になり、平井村高二五九石余が村切された(元禄七年「山本・平井両村村切条件覚」乾家文書)。延享四年(一七四七)幕府領、文政一〇年(一八二七)三卿の一橋領となり幕末に至る(宝塚市史)。文禄検地では平井・山本両村合せて高一千二五九石余、田方二〇町三段余・畠屋敷方二〇町(前掲検地帳)。平井村を村切したことで正保郷帳は一千石。享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調によるとほかに新開高一三石余。
山本村
やまもとむら
元禄一一年(一六九八)の村明細帳(鯉渕廉夫文書)によれば、村高一千四六五石余、反別二一三町三反余、うち一九町四反余は貞享四年(一六八七)から元禄九年までの新田改高出しによって加えられた。
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
東は
古代は「和名抄」に記される山本郷の地とされる。当地域を南北に古山陰道が通り、和銅四年(七一一)に山本駅が設置された(続日本紀)。また「日本書紀」欽明天皇二六年五月条に「高麗人頭霧耶陛等、筑紫に投化て、山背国に置り、今の畝原・奈羅・山村の高麗人の先祖なり」とある
山本村
やまもとむら
- 長野県:飯田市
- 山本村
現飯田市の西端、
中世は
高鳥屋山の麓、または周囲の村に比して、山が多く、近いということから「山本」の地名が起こったといわれる(山本村誌)。慶長(一五九六―一六一五)の頃は山元とも書いた。
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
- 千葉県:館山市
- 山本村
山本村
やまもとむら
- 京都府:亀岡市
- 山本村
天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では高四七四・六石、戸数一二〇で、亀山藩領。農作は五穀のほか煙草を諸国に出した。
当村は保津とともに保津峡谷難所の入口にあたるため、筏流しの中継地として発展してきた。山本が中継地としての一端をいつ頃からになうようになったか不明であるが、筏との関係は天正一六年(一五八八)と推定されている七月八日付の秀吉朱印状(宇野家文書)に、「丹波いかたさしの事」として「拾五人 山もと村」とみえるのが早い。
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
射水丘陵の東側、
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
西方を
山本村
やまもとむら
- 兵庫県:豊岡市
- 山本村
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
- 新潟県:十日町市
- 山本村
十日町村の南に続く。
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
- 岐阜県:美濃加茂市
- 山本村
山本村
やまもとむら
- 栃木県:宇都宮市
- 山本村
北は
元禄一〇年の差出帳(五月女久五文書)では高一三五石、諸役勤は御伝馬銭八一八文、夫金は藩主江戸参勤の年は一分四八八文、在国の時は五四七文、山運上金一分三二一文、籾一石につき目籾四合ずつ納、米は六合摺、餅五合五勺摺納、百姓一一軒。
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
- 石川県:加賀市
- 山本村
山本村
やまもとむら
山本村
やまもとむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報