山本村(読み)やまもとむら

日本歴史地名大系 「山本村」の解説

山本村
やまもとむら

[現在地名]宝塚市山本中やまもとなか一―三丁目・山本西やまもとにし一―三丁目・山本東やまもとひがし一―三丁目・山本南やまもとみなみ一―三丁目・山本台やまもとだい一丁目・長尾町ながおちよう山本野里やまもとのざと一―三丁目・山本丸橋やまもとまるはし一―四丁目・平井ひらい五丁目・みなみひばりガおか三丁目・口谷東くちたにひがし一―三丁目・中筋なかすじ二丁目など

長尾ながお山の南に位置し、中筋村の東にあたる。川辺かわべ加茂かも(現川西市)から中山なかやま寺に向かう巡礼道がほぼ北端を東西に、南部を有馬ありま街道が東西に通る。古代川辺郡山本郷(和名抄)、中世山本庄の遺称地で、多田ただ庄の一部として山本村の村名もみえる。文禄三年(一五九四)舟越景直の検地は平井村と一村として行われた(同年九月吉日「山本村御検地帳」金岡家文書)。慶長国絵図には山本村と畠野村が描かれる。枝郷は平井村のほかに丸橋村・口谷村、寛永年間(一六二四―四四)に開発された野里村があった。

元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では幕府領(尼崎藩建部政長預地)。寛永一九年平井村を除く山本・口谷・丸橋の一千石が旗本板倉領になり、平井村高二五九石余が村切された(元禄七年「山本・平井両村村切条件覚」乾家文書)。延享四年(一七四七)幕府領、文政一〇年(一八二七)三卿の一橋領となり幕末に至る(宝塚市史)。文禄検地では平井・山本両村合せて高一千二五九石余、田方二〇町三段余・畠屋敷方二〇町(前掲検地帳)。平井村を村切したことで正保郷帳は一千石。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調によるとほかに新開高一三石余。

山本村
やまもとむら

[現在地名]益子町山本

八溝やみぞ山地から北西に延びる台地上にあり、中央を流れるぐみ川沿いに水田・畑地が広がる。北・東・南の三方は山地で囲まれ、北西方面に開ける。用水不足を補うためのとくヶ池や茸郷戸きのこごうど池がある。真岡もおか方面から常陸国岩瀬いわせ(現茨城県西茨城郡岩瀬町)方面への道が通る。北東は上大羽かみおおば村、西は前沢まえざわ村、南は尾無峠・かがみ峠などを境に常陸国門毛かどげ村・富谷とみや(現岩瀬町)。慶長九年(一六〇四)、伊奈忠次から「山本道場」(東光寺)に三石(「寺領証文」鯉渕廉夫文書)、「山本光明寺」に七石が与えられている(「寺領証文」同文書)。同一七年の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)には「田野ノ内山本」の光明こうみよう寺がみえる。慶安郷帳では田七一六石余・畑五五四石余。相模小田原藩領。ほかに光明寺領七石・薬師別当領五石・東光とうこう寺領五石とある。享保一五年(一七三〇)幕府領となり、延享三年(一七四六)三卿の一橋領、のち幕府領に復し、改革組合村では同領。当村は本郷ほんごうはら松本まつもとさかいの四坪に分れ、本郷以外は枝村として扱われることもあるが、年貢割付帳類では境坪のみが枝村として別にされている。

元禄一一年(一六九八)村明細帳(鯉渕廉夫文書)によれば、村高一千四六五石余、反別二一三町三反余、うち一九町四反余は貞享四年(一六八七)から元禄九年までの新田改高出しによって加えられた。

山本村
やまもとむら

[現在地名]君津市山本

萱野かやの(現木更津市)の南に位置する。西は小櫃おびつ川中流右岸の氾濫原に広く水田を開き、東は上総丘陵を背に集落を構える。集落を久留里くるり道が北から南に通り、西は同川を渡って下郡しもごおり(現同市)へ通じる。近世中期以降舟運が盛んになり、迎原むかいばら(向原)に新河岸が設けられた(吉田家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千一一石。元禄郷帳では高一千七二石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高一千一八八石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領(寛文朱印留)、貞享元年(一六八四)には上野前橋藩領(「酒井忠挙領知目録」酒井家文書)、延享三年(一七四六)の久留里藩領知目録(久留里藩制一班)に村名がみえ、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳、天保一一年(一八四〇)望陀郡戸口録、改革組合帳、旧高旧領取調帳も同藩領。

山本村
やまもとむら

[現在地名]田辺町大字三山木みやまき 山本

東は木津きづ川を挟んで玉水たまみず宿(現井手町)、南は江津えつつ、西は出垣内でがいと、北は飯岡いのおかの各村と接する。

古代は「和名抄」に記される山本郷の地とされる。当地域を南北に古山陰道が通り、和銅四年(七一一)に山本駅が設置された(続日本紀)。また「日本書紀」欽明天皇二六年五月条に「高麗人頭霧耶陛等、筑紫に投化て、山背国に置り、今の畝原・奈羅・山村の高麗人の先祖なり」とあるやま村を、「大日本地名辞書」は山本郷のこととする。「三代実録」貞観一二年(八七〇)七月二九日条は山本郷の山が陥没し小山が生じたという地異を記す。この場所は出垣内村境にある字桐山きりやまか、江津の字切山きりやまのいずれかに比定され、一説には飯岡をさすともいう。

山本村
やまもとむら

[現在地名]飯田市山本

現飯田市の西端、高鳥屋たかどや(一三九八メートル)の東南麓に位置する。北は大瀬木おおせぎ村・清内路せいないじ(現下伊那郡)、東はなか村・竹佐たけさ村、南は中関なかぜき(現下伊那郡阿智村)、西は駒場こまば(現阿智村)に接する。

中世は伊賀良いがら庄に属し、天正六年(一五七八)の上諏訪造宮帳に「山本郷」とみえ、同七年の上諏訪造宮帳にも「山本之郷」とある。

高鳥屋山の麓、または周囲の村に比して、山が多く、近いということから「山本」の地名が起こったといわれる(山本村誌)。慶長(一五九六―一六一五)の頃は山元とも書いた。

山本村
やまもとむら

[現在地名]五個荘町山本

箕作みつくり山北麓にあり、東は平坂ひらさか村、北は石塚いしづか村。石塚村との村境をほぼ東西に中山道が走る。治承四年(一一八〇)、近江・美濃を平定するため、湖東域で平知盛・資盛らの軍勢による活発な鎮圧行動が行われた。平氏軍により同年一二月一五日には甲賀入道・山下兵衛尉義経ら徒党一千余騎が追落され、翌一六日には「近江山下城」が攻撃されたが、同二四日頃になっても甲賀入道・山下義経らは同城に籠っていたと伝えられている(玉葉)。「近江国武勇之輩」の張本の一人山下義経が拠点としたこの「山下城」を、東浅井ひがしあざい湖北こほく町に比定する説もあるものの、当地域に設けられた城館と考えられる。元亨三年(一三二三)八月六日の官宣旨案(東京大学史料編纂所蔵長元至寛徳度改元勘文紙背文書)に山本郷とあり、建部たけべ(現大津市)の造営料に充てられた。

山本村
やまもとむら

[現在地名]館山市山本

安布里あぶり村・大網おおあみ村の東に位置し、集落は丘陵裾部に展開する。北は大作おおさく村。丘陵部の字みねには円墳、字青山あおやまには古代祭祀遺跡がある。慶長二年(一五九七)の安房国検地目録では高七五二石余(うち田五四六石余)、同一五年の里見家分限帳によると大家老山本清七の給知。正保郷帳では高六六七石余(うち田五五五石余)で北条藩領。ほかに地内金乗こんじよう院領高四石、同竜淵りゆうえん寺領高三石。両寺領を除いては享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では旗本三浦領、宝暦一二年(一七六二)には同田沼領(国分区有文書)

山本村
やまもとむら

[現在地名]亀岡市しの町山本

保津ほづ(大堰川)の南岸にあり、北西上流対岸の保津村とともに保津峡谷の入口にあたる。西は馬堀うまほり村・篠村、東は山城国(現京都市)と境をなす山地。集落は保津川に注ぐノ川沿いにある。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では高四七四・六石、戸数一二〇で、亀山藩領。農作は五穀のほか煙草を諸国に出した。

当村は保津とともに保津峡谷難所の入口にあたるため、筏流しの中継地として発展してきた。山本が中継地としての一端をいつ頃からになうようになったか不明であるが、筏との関係は天正一六年(一五八八)と推定されている七月八日付の秀吉朱印状(宇野家文書)に、「丹波いかたさしの事」として「拾五人 山もと村」とみえるのが早い。

山本村
やまもとむら

[現在地名]宇佐市山本

大塚おおつか村の南、駅館やつかん川の西岸に位置し、同川が地峡部から平野部に出る扇頂部にあたる。村の背後は丘陵地で、駅館川対岸東方は拝田はいた村。丘陵地帯には横穴が多くあり、切寄きりよせに二八基、石和田いしわだに四八基、鷹栖たかすに三基などを確認する。また地内には七世紀末頃建てられたとみられる虚空蔵こくぞう寺跡や同寺の瓦を焼いた瓦窯跡、一一世紀頃の作と考えられる仏像三体を安置する鷹栖観音堂(高栖)などがある。「宇佐託宣集」には「法蓮和尚者於山本、奉崇虚空蔵菩薩」とみえ、虚空蔵寺のことと考えられるが、同寺は天正年中(一五七三―九二)戦火に遭って焼亡したといい、現黄檗宗虚空蔵寺が同寺の寺基を継承したと伝える。

山本村
やまもとむら

[現在地名]根占町山本

川南かわみなみ村の南に位置し、東は横別府よこべつぷ村、西は海に面する。中世は禰寝ねじめ南俣みなみまたのうちにあって山本名ともみえ、北に隣接する光松みつまつ(光松村)と併記されることが多い。承元四年(一二一〇)五月日の大隅国在庁官人解(禰寝文書)に尼西念の得分として「禰寝南俣内山本村名田」がみえる。正応二年(一二八九)五月二八日の六波羅施行状(同文書)によると、山本小次郎清方・乙万丸と禰寝清親代の子息清治とが山本・光松両名をめぐって相論を行っている。

山本村
やまもとむら

[現在地名]鈴鹿市山本町

小岐須おぎす村の北、入道にゆうどうヶ岳(九〇六・一メートル)山麓にあり、村名もこれによる。伊勢国一宮椿つばき大神社の所在地として早くから開けた村といえる。南東三キロには山本新田がある。戦国時代ここに拠った山本刑部大夫は、三重郡浜田はまだ(現四日市市)城主田原氏の分れで、浜田殿ともいった。本能ほんのう寺の変後、彼の子息らは神戸信孝に従って岐阜に赴き、翌天正一一年(一五八三)刑部はみね(現亀山市)に籠城、のち岐阜で病死、この間に豊臣秀吉方の軍勢のため城を焼払われた(亀城兎園記)

山本村
やまもとむら

[現在地名]福光町山本

小山こやま村の北、明神みようじん川西側の山麓段丘上にある。元弘三年(一三三三)一二月一四日の石黒庄内広瀬郷山本村雑掌地頭和与状(仁和寺文書)広瀬ひろせ郷内山本村とあり、一分地頭は藤原定頼。同年領家方雑掌経泰と地頭との相論が和与となった結果、山本村の年貢三分の二が地頭請所となり、毎年七貫文を旱損・水亡にかかわらず翌年三月中に京進すること、未進・懈怠があった場合は所領の四分の三を領家方に渡すことなどが定められた。応永二八年(一四二一)一二月一一日広瀬郷領家方代官職を請負った小野道阿は、山本以下の村で新たに開発を行った際には年貢等を増進することを約している(「石黒庄内広瀬郷領家方代官職請文案」同文書)

山本村
やまもとむら

[現在地名]久留米市山本町耳納やまもとまちみのう

耳納山地北麓に位置し、西は浅井あさい村。山頂から山腹にかけて城ガ尾・御立竹山・植立松山・立野名が描かれる(上三郡絵図)。中世は一帯を山本郷と称した。本高は二八一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三六〇石・役高三六六石。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗二升、人数一七六、馬一二(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三七三石。

山本村
やまもとむら

[現在地名]富山市山本、射水郡小杉こすぎ町山本

射水丘陵の東側、呉羽山くれはやま丘陵につながる山間地にあり、東は西押川にしおしかわ村、北は土代どだい(現小杉町)、南は通称三熊さんのくま山とよばれる山地。村名は山麓の原野を開いて村立てしたことに由来するという。古墳時代から奈良・平安時代のものと推定される窯跡が残る。八尾やつお町方面への間道が通じていた。また古放生津ふるほうじようづ潟に注いでいた鍛治かじ川の上流に位置し、舟運にも恵まれた。

山本村
やまもとむら

[現在地名]唐津市山本

松浦川の唐津平坦地への出口の左岸に位置する。かつては松浦潟の海岸線にあたっており、中国(明)の「籌海図編」の「馬子頼まつら」の位置は山本にあたり、そのなごりとして字船原ふなばるの地名がある。

弥生時代の中尾なかお遺跡があり、金屋かなや・中尾・トウロより古墳時代の遺物が出土している。条里制のなごりとして、字三の坪の地名もある。

歴代鎮西志」は応安四年(一三七一)

<資料は省略されています>

という。「金屋」は山本村内の地で、熊野くまの神社がある。

慶長絵図に「高千八百十五石四斗五升 山本村」と記し、文化年中記録に畝数五二町五段九畝一〇歩とある。

山本村
やまもとむら

[現在地名]関川村山本

西方を霧出きりで(現鍬江沢川)が北流し、川沿いに胎内たいない(現北蒲原郡黒川村)方面への道が通る。北は土沢つちざわ村、南は幾地いくじ村、南西は鍬江くわえ(現黒川村)に接する。集落は道の両側に点在し、耕地は霧出川右岸に開ける。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「黒川分山本村」とみえ、本納一八石二斗一升・縄高四八石八斗三升五合、家二軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛保二年(一七四二)陸奥白河藩領となり、のち幕府領に復す。正保国絵図では高一二〇石余。万治二年(一六五九)の検地時には高一六九石三斗余・田畑一五町四畝余(「高反別取米書上帳控」平田家文書)

山本村
やまもとむら

[現在地名]豊岡市山本

船町ふなまち村の東に位置し、同村境の愛宕あたご山につる城跡がある。江戸時代の領主の変遷は駄坂ださか村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一八九石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。天明八年(一七八八)の巡見帳(三宅家文書)では家数二九・人数一一五、鎮守は貴船きふね大明神(現兵主神社)。元和五年(一六一九)鶴城跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として真言宗宝城ほうじよう寺を創建(明治四年廃寺)。宝暦年間には豊岡藩領時代に領主京極家の祈願所であったことを理由に藩と生野いくの代官所の両方に宗門改書を提出、地元の住職排斥の動きとからんで「両支配」問題を起こした(「口上之覚」古川家文書)

山本村
やまもとむら

[現在地名]国府町山本

荒城あらき川下流右岸、安峰あんぼう山麓にあり、南東は鶴巣つるす村、北西は上北かみきた(現古川町)。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳に村名は記載されないが、荒木あらき郷鶴巣村のなかに含まれた。元禄検地反歩帳によると吉城郷に属し、高一七〇石余、田一六町五反余・畑四町五反余。「飛騨国中案内」では免五割三分四厘七毛、家数一九(うち百姓一五・門屋三・地借一)。寛政元年(一七八九)の村明細帳によると田高一五九石余・畑高二二石余、うち新田高一一石余、反別田一七町四反余・畑四町六反余、家数二六、男五八・女六四、馬八。「斐太後風土記」では枝村和太わだがあり、村域縦七町二〇間・横四町一五間、家数一九・人数九〇余。

山本村
やまもとむら

[現在地名]広川町山本

ひろ村の南に位置し、西は海に面する。本村のほか小名池上いけのうえと新田小浦おうらからなる。池上は集落が二つに分れ、南原みなみばら北原きたばらとよぶ。小浦は湯浅ゆあさ湾に臨み、本村の北西一二町の所にある。慶長検地高目録によれば村高五六五石余、小物成一石四斗一升七合。寛永一〇年(一六三三)和田わだ村を割置。天保郷帳では六一〇石余。湯浅組に属し、家数六六、人数二九七(続風土記)。なお一八世紀後半に書かれたと推定される手鑑(飯沼家蔵)では山本村三六六石、池上村一六七石余と二村に分けて記されている。

山本村
やまもとむら

[現在地名]蟹田町山本

東は小国おぐに村、南は南沢みなみざわ村、西は大平おおだい村、北は山で根岸ねぎし(現平舘村)に接する。小国六ヵ村の一つで、貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高二七五・二八石、うち田方一三五・五三八石、畑方一三九・七四二石、田畑両作相半ばする。国日記享保七年(一七二二)四月一六日条に、伊勢神宮への献木の割当がみえ、林産が豊かであったことがわかる。元禄三年(一六九〇)の「平山日記」に村名がないが、享保一二年の「新田先年より村名此度改名ニ成分並村日記」(平山日記)に「後潟組之内小国新田三ケ村」として「下五山元村」とある。

山本村
やまもとむら

[現在地名]日高町山本

水上みのかみ村の北に位置し、東部は国府こくふ平野、西部は丘陵地。江戸時代ははじめ出石藩領、慶長一八年(一六一三)藩主小出吉英の移封に伴い和泉岸和田藩領、元和五年(一六一九)吉英の出石再封で出石藩領に復帰。寛文六年(一六六六)小出吉重の襲封に際し外孫英勝に一千石が分知され、当村は英勝の知行地となる(「寛政重修諸家譜」、慶長一八年「小出吉英所領目録」金井文書、「寛文朱印留」など)。旗本小出英勝家は当村に陣屋を置いたため山本小出氏と通称される。しかし文化一一年(一八一四)但馬に入った伊能忠敬が「測量日記」に「水上村、小出助四郎陣屋あり、山本村、小出助四郎陣屋あり、今は此所に不居、家番もなし、水上村に引移と云」と記しているので、この頃には水上村に代官所だけあったことが知られる。

山本村
やまもとむら

[現在地名]十日町市山本・山本町

十日町村の南に続く。川治かわじ川右岸にあり、下流は十日町村・高山たかやま村、上流は八箇はつか村。南の対岸は川治村の本村。善光寺道がほぼ南北に通じ、その両側に集落が並ぶ。正保国絵図に高一三九石余。天和三年郷帳では高一七〇石八斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では家数四三、男一〇七・女一〇〇。

山本村
やまもとむら

[現在地名]朝来町佐嚢さのう

羽淵はぶち村の北西方、神子畑みこばた川の左岸に位置し、佐嚢谷(神子畑川の流域)の入口を占める。東は口八代くちやしろ村、北西は土肥とひ村。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、高八二石余、宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高八五石余。地名の由来は「日下部系図」によれば鎌倉時代中期に佐中さなか庄下司山本弥五郎家長が当地に定住したことによるという。

山本村
やまもとむら

[現在地名]日野町山本

石原いしはら村の東方にあり、日野川支流出雲いずも川が南を西流する。北部の丘陵上には枝郷の山本新田があり、丘陵上の小字つきおかには須恵器窯跡があるが、詳しい時代などは不明。山本保の遺称地。徳川家康は慶長七年(一六〇二)一〇月二日、当村の高二八二石余を本多成重に与えているが(「徳川家康黒印状」東京大学史料編纂所蔵)、寛永一三年(一六三六)本多氏が尾張藩主徳川義直の家臣となったため同藩領となる。慶安二年書上では田二五八石余・畑屋敷二三石余。旧高旧領取調帳では高一七八石余となっているが、これは明治元年(一八六八)四月の大雨(中野共有文書)による出雲川の氾濫が影響したと考えられる。

山本村
やまもとむら

[現在地名]浦川原村山本

保倉ほくら川左岸に位置し、西は今熊いまぐま村、東は桜島さくらしま村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所窪田扱山本村 下」とあり、本納一〇二石七斗一合・縄高二一八石九斗三升八合、家一二軒・二八人。隣接して池が描かれる。正保国絵図では三〇五石余。天和三年郷帳では高二一六石四斗余、うち山高二石四斗・漆高一石四斗九升、反別田一二町三反余・畑屋敷四町二反余・山林八町で、漆木一七九本、家数二四。明和年間(一七六四―七二)と思われる山里蝋実穂村別帳(国立史料館蔵)では定納の山蝋実一升七合六勺・里蝋穂六貫一七六匁のほか、臨時納の里蝋穂四〇〇匁を吉木よしき(現新井市)の蝋点所へ納める。

山本村
やまもとむら

[現在地名]美濃加茂市下米田町山本しもよねだちようやまもと

為岡ためおか村の東、信友のぶとも村の北にあり村の西半は田地、東半は平山で民戸もその洞にある。延文元年(一三五六)七月一〇日の近衛道嗣(か)御教書(大徳寺文書)に「蜂屋庄内太田・山本両郷」とある。諏訪神社の永禄一二年(一五六九)の棟札に「米田庄南方願主肥田長寿丸大宝院敬白」とあり、これは肥田玄蕃允の幼名とされる。玄蕃允は土岐氏の一族で米田城(現加茂郡川辺町)城主として三千貫を領した。金山かねやま(現可児郡兼山町)の森武蔵守と度々合戦し、天正一〇年(一五八二)加治田かじた(現加茂郡富加町)で病死した(新撰美濃志)

山本村
やまもとむら

[現在地名]宇都宮市山本町

北は長岡ながおか村、東は岩曾いわぞ村、西は戸祭とまつり村に接する丘陵の山間に散在する山村。東部低地を道が南北に走り、その東の川沿いに水田が若干みられる。家中系図(奥平家文書)の奥平綱正の慶長七年(一六〇二)の所領のうちに山本村がある。以後近世を通じて宇都宮藩領。慶安郷帳に田方八七石余・畑方二五石余とある。元禄九年(一六九六)宇都宮宿大助郷一七ヵ村の一つとなる(「宇都宮宿助郷帳」上野虎四郎文書)

元禄一〇年の差出帳(五月女久五文書)では高一三五石、諸役勤は御伝馬銭八一八文、夫金は藩主江戸参勤の年は一分四八八文、在国の時は五四七文、山運上金一分三二一文、籾一石につき目籾四合ずつ納、米は六合摺、餅五合五勺摺納、百姓一一軒。

山本村
やまもとむら

[現在地名]南淡町灘山本なだやまもと

諭鶴羽ゆづるは山系の谷間を南東へ下る長田ながた川を隔て南西は城方じようほ村。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録にみえる「なだ」一〇三石六斗のうちに含まれ、正保国絵図に下灘しもなだ一二ヵ村の一として村名がみえる。享保元年(一七一六)の両国郷村高辻帳(蜂須賀家文書)では高一一石余。天保郷帳では高五三石余。

山本村
やまもとむら

[現在地名]輪島市山本町

中段ちゆうだ村の南、鳳至ふげし川下流西岸の平地・丘陵に立地。正保郷帳に村名がみえ、高三一四石余、田方一九町四反余・畑方一町五反、新田高二六石余、田方一町七反余・畑方五畝余。承応三年(一六五四)の村御印の高三二七石余、免六ツ一歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三七六石、免六ツ一歩、小物成は山役一九〇匁・苦竹役六匁(三箇国高物成帳)

山本村
やまもとむら

[現在地名]小倉南区山本

高津尾たかつお村の西、福智ふくち山の東麓に位置する。元和八年人畜改帳に山本村とみえ、高四七五石余、家数一〇八、人数二三二(うち百姓一三・名子三二)、牛三一・馬一八。郷村高帳では高五〇一石余、うち新田高三七石余。幕末の各村覚書では本高四六四石余、田二八町五反余・畠七町九反余、物成二九二石余、竈数六三・家数九八・人数二六〇、牛三三・馬一八、西大野にしおおの八幡宮、聖泉寺(現廃寺)など。

山本村
やまもとむら

[現在地名]橿原市山本町

畝傍山北麓の村。康保四年(九六七)の尊勝院根本所領員数(東大寺文書)の高市郡「山本庄」は当村付近と推定され、東大寺尊勝そんしよう院領であった。一方、一乗院実信御教書(天理図書館所蔵)によれば、興福寺一乗院領山本庄もあった。

山本村
やまもとむら

[現在地名]小千谷市山本

北は小千谷村、西は谷内やち村・なか村、南東は片貝かたかい村。山本山の北麓にあたり、集落は信濃川左岸沿いにある。正保国絵図に高二四三石余。天和三年郷帳では高二八〇石余。

山本村
やまもとむら

[現在地名]加賀市山本町

松山まつやま村の東、那谷なた川右岸にあり、現在住民はなく地籍名のみ。正保郷帳によると高六七石余、田方三町四反余・畑方七反余、物成高二四石余。「江沼志稿」では高七八石余、山役四匁余、家数三・人数一三、田地は松山村の者との混作とある。

山本村
やまもとむら

[現在地名]椎田町山本

椎田村・臼田うすだ村の南に位置し、極楽寺ごくらくじ川と真如寺しんによじ川に挟まれた平坦地に立地する。元和八年人畜改帳では家数六・人数一五(うち百姓二・名子一)、牛二・馬一。

山本村
やまもとむら

[現在地名]千代田村山本

山本山の東麓にあり、北は上佐谷かみさや村、南は下佐谷村。今泉いまいずみ(現土浦市)からの分村と伝え、江戸時代は土浦藩領で元禄郷帳の村高は七〇石余。

山本村
やまもとむら

[現在地名]柏崎市山本

鯖石さばいし川と別山べつやま川の合流点北岸に位置する。近世の支配は春日かすが村と同じ。正保国絵図に高一三六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報