泉村(読み)いずみむら

日本歴史地名大系 「泉村」の解説

泉村
いずみむら

[現在地名]沼南町泉

鷲野谷わしのや村の南東、手賀てが沼の南岸にあり、南は金山かなやま落の谷津に接する台地上を占める。南西は金山村、東は上柳戸かみやなど村。のち当村地先の手賀沼が開発され、泉村新田が成立する。

〔中世〕

中世の泉村は村内に金山や上柳戸を含み、相馬岡田氏の根本所領の一であった。正和四年(一三一五)八月七日、相馬岡田氏の祖、相馬胤顕の後家尼妙悟は胤顕の遺領として一期の間知行してきた「ミなミさうまのうち、いつミのむら」を子息胤盛に譲与している(「尼妙悟譲状」相馬岡田文書、以下断りのない限り同文書)。胤顕は弘安八年(一二八五)病没しているが(相馬岡田系図)、泉村もまた胤顕が父胤村から相続した所領であったと思われる。なお妙悟から胤盛への相続の際、「いつミ□うち、かなやまに二郎太郎かさいけ一けん、のた一ちやう」は次男孫六胤兼に割譲されている。胤盛死後の元応二年(一三二〇)三月、後家尼専照は泉村を惣領胤康に譲与したが、弟長胤・又つるにも村内の田畠在家が割譲され(同月八日専照譲状)、長胤は元弘三年(一三三三)一二月、その安堵を陸奥国府に申請している(相馬長胤申状案)。なお建武二年(一三三五)一一月二〇日、相馬胤治は「いつミのむらうち、せい太郎・まこ太郎かたさいけ」を養子某に譲与しているが(相馬胤治譲状)、胤治は胤康・長胤の弟であり(相馬岡田系図)、前出「又つる」は胤治の可能性が高い。また胤康は相馬泉五郎を号していた(同系図)

元徳三年(一三三一)九月、胤康は「いつミのむら、かなやま、かミやなと、ふなつ」を嫡子胤家に譲与、その際、村内「むしなうち田五反小」を女房に、「六郎入道か田八反小、くりはらまこた郎か田四反三百ふ」を次男孫鶴に、さらに「つしうち田四反半」を女子にそれぞれ割譲し、公事は田数に応じて負担することとした。


泉村
しみずむら

[現在地名]敦賀市かなさき町・みなと町・栄新さかえしん町・あけぼの

敦賀湾奥に位置し、西は敦賀両浜りようはま町、南は舞崎まいざき村、東はひがし浦の田結たい浦。東浦へは村の東北部にある臨海りんかい院の前を通り、天筒てづつ・金ヶ崎の中間のやや谷まった所を抜けて至る。この山越路を七曲ななまがりといい(寛政末期の「敦賀町絵図」)、また東浦道ともよばれた。

応仁二年(一四六八)三月四日付海運・太田景家畠地寄進状(永厳寺文書)に「泉寺」(当地の金前寺をさす)とみえるのが初見。「敦賀志」は当村の成立を「此村ハもと湯山のふもとに在しが、村地を田となして、持分のしほ浜へ移り出住居せりと云、永禄前後の事成へし」と伝え、さらに「永厳寺のしミづハ山足ニ在、甚清冷にして涌出る則一小河をなせり、近辺の数十家是を日用とす、しミづ村の名も此水よりおこる成へし」と地名由来を記す。永厳ようごん寺の泉(清水)は当村中を北流して目倉めくら川となり敦賀港に注ぐが、「敦賀志」は「御蔵の有しほとりを流し川にて、ミくら川の訛也とそ」と記す。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図は清水しみず浦とし、村高五七二・八石余をあげ、正保郷帳は泉浦とする。高六三九・三石余、うち田方が大部分で五八四・四石余。


泉村
いずみむら

[現在地名]上対馬町泉

西泊にしどまり村の北にある。長い岬のした崎と無人の聖地志古しこ島に囲まれた波静かな浦が広がる。「津島紀略」では伊都美と訓じ、古くは清凝(志古里)と称したとある。シコはシカ(志賀)とともに対馬に多い地名で、海神である場合が多い。海岸に近い在所の山際には弥生時代前期の遺跡があり、有柄式磨製石剣が出土。「海東諸国紀」に「時古里浦二十余戸」とあるのが当地とされ(津島紀略)、同書の対馬島之図による位置からも間違いない。永正一一年(一五一四)六月、宗氏の派遣した四郎右衛門尉や柚谷方らが朝鮮王朝から帰還、「しこり」に到着、歳遣船二五艘の厳守と、被虜人の返還を要求されている(朝鮮送使国次之書契覚)。天文八年(一五三九)から同二二年までと推定される五月五日の宗晴康書状(豊崎郷給人等判物写)に「豊いつミの浦」「泉ゆミ浦」とみえ、地内に社領、立石氏・中原氏らの寄合領、給地・百姓地があった。泉・とよの一帯には宗氏の給人で、足利尊氏に従って九州に来た武蔵国出身の洲河氏の所領があり、天文八年島主宗将盛が豊に隠居したとき、洲河氏の一族で泉浦の生れの娘が側室になり、その四男三女のうち茂尚・義純・昭景(義智)の三人がのち島主になった(洲河家文書)


泉村
いずみむら

[現在地名]久井町泉

和草わそう村の北西にあり、北は世羅郡田打とうち村・重永しげなが(現世羅町)、西は同郡上徳良かみとくら(現賀茂郡大和町)に接し、御調郡北西端に位置する。北西部のほかは丘陵性の山地で囲まれ、時則ときのり谷・則宗のりむね谷・うしろ谷・福永ふくなが谷・大峠おおたお谷・上草かみそう谷などの谷々に発する御調川支流の小川が、南西から北東方向に標高三八〇メートル前後の低地部を展開させ、西部の近森ちかもり谷・西光寺さいこうじ谷などに発する小川は、椋梨むくなし川の支流徳良川へ合流する。東部の丘陵に北の奥きたのおく古墳(二基)、中央部で和草村と接する丘陵に森光もりみつ古墳(二基)、西部の丘陵にかけひら古墳・横座よこざ古墳(二基)などがある。

観応二年(一三五一)二月一五日の足利尊氏下文(三吉鼓文書)、鼓家系図(「広島県文化財調査報告書」所収)によると、三吉秀清の子覚弁は、観応二年足利尊氏から波佐竹四郎二郎跡の泉村地頭職を勲功の賞として宛行われている。


泉村
いずみむら

面積:二六六・七三平方キロ

八代郡の東部に位置し、東は宮崎県東臼杵ひがしうすき郡、西は東陽とうよう村・下益城しもましき小川おがわ町、南は球磨郡五木いつき村・水上みずかみ村、北は上益城かみましき矢部やべ町および下益城郡砥用ともち町・中央ちゆうおう町に接する広大な村。東部は九州山脈の高峰が連なり、河川は深渓をつくり、秘境といわれる五家荘ごかのしよう一帯を形成している。全村山地で集落はわずかの緩斜面に散在する。西南地区は川の上流を挟んで河岸段丘や中腹部の台地に集落が散在し、おもに農林業が営まれている。東西約二七キロ・南北約一七キロの長方形をなし、県内では矢部町に次ぐ広大な山村で、保口ほくち(一二八一・一メートル)笹越ささごし峠があって分水嶺をなしている。東側は北より南下する川辺かわべ川が球磨川の上流水源をなし、一方この分水嶺を氷川が西流して八代海に注ぐ。


泉村
いずみむら

[現在地名]福島市泉

森合もりあい村の北、まつ川右岸の低位沖積段丘上に位置。西は南沢又みなみさわまた村、北は北沢又村。松川扇状地の扇端に位置し、村名も清水が湧出することに由来するという(信達一統志)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫大仏しのぶだいぶつ方のうちとして「いつミ」とみえ、段銭は七貫二三〇文。天正一四年(一五八六)三月二五日の伊達政宗のものと推定される充行状(伊達家文書)によれば、佐藤孫壱郎に「いつミの内、かいもち田、本年貢壱貫文」などが与えられているが、当地にあたるものか。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七四九石余。近世初期の邑鑑によると免一ツ三分、家数一二(役家五、肝煎一、諸職人・脇家六)、人数四四、役木として桑・楮がある。米沢藩領時代の古高一千二九二石余、幕府検地による新高一千一〇五石余(古高新高帳)


泉村
いずみむら

[現在地名]金沢市泉一―三丁目・泉本町いずみほんまち一―七丁目

西泉にしいずみ村の東に位置し、東から南にかけて一部城下に接する。南部を北陸街道が通る。地名は当地が伏見ふしみ川下流の自噴井地帯にあったことに由来するといわれ(金沢古噴志)、往時の村域は広大で周辺の増泉ますいずみ村・西泉村・米泉よないずみ村などを含んでいたという。また当村の東から南に広がる野地が泉野で、同所を開いて泉野村・泉野出いずみので村・地黄煎じおうせん村などの諸村、町など城下南西部、犀川左岸の諸町が誕生したという(「加賀志徴」など)。作食米を置く作食蔵が置かれ(改作所旧記)、元文年間(一七三六―四一)頃には村内に刑場が設けられている(金沢古蹟志)

「尊卑分脈」(藤原時長孫)に加賀斎藤系武士団富樫氏の庶流として泉四郎高家の名がみえ、当時一帯を開発領とし、苗字の地とした在地領主と思われる。同書では高家は「平家物語」や「源平盛衰記」に散見する富樫次郎家経の弟とされるが、富樫系図(尊経閣文庫)には高家の名が載らず、泉氏は家重―家時―忠家―家利―家保―女子と相続している。


泉村
いずみむら

[現在地名]栃尾市泉

刈谷田かりやだ川左岸の東谷ひがしだに道筋に集落が並ぶ。道沿いに南は赤谷あかたに村、北は宮沢みやざわ村。東の対岸には大川戸おおかわど村・菅畠すがばたけ村、西の背後の分水嶺で荷頃にごろ村と接する。刈谷田川からは瑞麟寺江ずいりんじえ用水を引き水田を潤す。集落は当初、道の下手の下泉しもいずみ、上手の上泉の山裾につくられた。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に飯沼遠江守分と飯沼弾正左衛門尉分に各々「泉」とみえ、前者は代官五郎右衛門、後者は塚田右京亮の給地である。明応年間(一四九二―一五〇一)の国衙之日記(「古文書集」所収文書)に「百四十文 いつミ殿」とみえる者は当地とかかわりをもつ住人であろう。


泉村
いずみむら

[現在地名]岩間町泉

愛宕あたご山の南東に位置し、北は岩間上郷いわまかみごう。村の西部は難台なんだい山・愛宕山などの山々に連なる山地。筑波潤朝軍忠状(諸家文書纂)に「宍戸庄内於泉城」とあり、中世は宍戸ししど庄の内にあり、宍戸氏の分家岩間氏の支配にあった。文禄元年(一五九二)に宍戸氏が滅亡した後、佐竹氏領となったが、慶長七年(一六〇二)宍戸藩秋田氏領となる。正保二年(一六四五)に秋田氏が陸奥三春みはる(現福島県田村郡)に移封ののち土浦藩領となる。


泉村
いずみむら

[現在地名]水口町泉・さつきがおか

酒人さこうど村の北、野洲やす(横田川)の右岸にあり、近世は東海道に沿って東西に集落が発達。集落の南西、野洲川が浅瀬となる所に横田よこた川渡が設けられた。中世後期から近世にかけて当地より上流域を甲賀上郡(上甲賀)、下流域を甲賀下郡(下甲賀)と称することがあった。中世は柏木かしわぎ御厨のうち酒人郷に属した。応安七年(一三七四)一一月九日の山中浄俊譲状(山中文書)に「泉村観音堂院」とみえ、代々山中氏に相伝されている。慶長五年(一六〇〇)幕府領、天和二年(一六八二)水口藩領となる。慶長七年の検地帳(泉区有文書、以下同文書は省略)によれば田六八町四反余・畑六町四反余(うち屋敷一町七反余)で高一千一六八石余。


泉村
いずみむら

[現在地名]秋田市泉・保戸野原ほどのはらの町・同八丁はつちよう・同金砂かなさ町・同さくら

久保田くぼた城下より一四町北。あさひ川(仁別にべつ川)右岸、広々とした田地を有し、集落は泉山南麓に位置する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に泉郷八三二石四升二合とあり、文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に泉郷一千二三石余と記される。肥沃な土壌をもち、泉堰などの水利灌漑の恩恵も受ける豊かな村である。天正年間泉山に古館があり、泉玄蕃入道源斎の居館であったという(羽陰史略)。泉玄蕃は、秋田実季の湊攻めに豊巻備中守らとともに登場する(奥羽永慶軍記)から、泉郷一帯を支配した土豪と考えられる。


泉村
いずみむら

[現在地名]米子市泉

尾高おだか村の北・西にあり、ほぼ南北に日野往来が走る。永禄五年(一五六二)三月一日の尼子義久袖判同氏奉行人連署書状(閥閲録)に「泉山普請之事」、同六年七月二一日の毛利元就書状(閥閲録)に「泉表」とみえる。泉山は尾高城をさし、泉は近世の尾高村と当村を含む地域の呼称であろう。現在大山寺道路が東西に通じる谷は泉谷と称され、尾高城搦手への出入口の谷であり、古くは尾高城とその東方の丘陵一帯を泉と称したと考えられる。

近世には尾高村枝郷で、泉原いずみはら村ともよばれた(「伯耆志」など)


泉村
いずみむら

[現在地名]氷見市泉・中尾なかお

上庄かみしよう川中流南岸に位置し、東は大野新おおのしん村、西は上田うわだ村。南西部に竹里ちくり山がある。集落は往易いきやす横山よこやま中泉なかいずみはし上出かみで中出なかで浦出うらでがある。元和六年(一六二〇)の新開畠用水普請申付状(鎌仲家文書)に泉村が記され、これ以前に立村していた。元和二年大野新村で上庄川を堰止めて大野用水を開設しようとする大規模な開墾事業が始まり、用水は泉村を通るため、その水利権を受けることになった。


泉村
いずみむら

[現在地名]熱海市泉

東は相模国足柄下あしがらしも土肥門川どいもんがわ(現神奈川県湯河原町)、北は同宮上みやかみ(現同上)に接する。元亀元年(一五七〇)一二月一〇日の今川氏真判物(保善院文書)に「泉之郷」がみえる。江戸時代は相模国宮上村の飛地で、相模小田原藩領(増訂豆州志稿)。元禄郷帳では宮上村の高二六二石余。伊豆国伊豆山権現領と相模国小田原藩領の間で国境争いが起こり、元禄一三年(一七〇〇)幕府は門川・七尾岩戸ななおいわと日金ひがね地蔵・役行者えんのぎようじや見通しまでの線を伊豆国と相模国の国境とし、千歳ちとせ川の川南を権現領、川北を小田原藩領とする裁決を下した。ただし小田原藩領百姓開墾地(泉・稲村)についてはこれまでどおり小田原藩領に年貢を納め、石材切出しは伊豆山権現に山手を出して切出しするよう定めた(「豆相国境相論裁許状写」保善院文書)


泉村
いずみむら

[現在地名]塩谷町泉

飯岡いいおか村の南東に位置し、まつ川が中央部を、東部を高野こうや堀が南流する。村名は北部の姉岡あねおかより湧出する清水にちなむという。和泉とも記した。今宮祭祀録(西導寺蔵)によると、今宮いまみや神社(現氏家町)に社家役として泉之村は廻楼東分二間を勤仕、また同社祭礼頭役を永禄九年(一五六六)より天正一二年(一五八四)にかけ、泉郷の大和田左馬助などが勤めている。宇都宮氏旧臣姓名書には泉村の和気姓一名・船山姓一名がみえる。


泉村
いずみむら

[現在地名]立山町泉

白岩しらいわ川と栃津とちづ川の合流地点に位置し、南は寺田極楽寺てらだごくらくじ村・若宮わかみや村。村名は湧水地域にあたることに由来するという。早くから開発が進んだ地域で、古代の東大寺領おおやぶ庄の中心部にあたるとする説がある。正保郷帳では高六〇二石、田方四〇町余、畑方一反余、新田高一二八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七四二石、免四ツ六歩、小物成は野役三匁・鮭役三五匁、鮎役二匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天明五年(一七八五)には田六一一石余・三三町六反余、畑屋敷三〇石・二町四反、同元年の洪水による荒地高一〇七石余、家数四〇(うち頭振六)、馬一三(「石割村弥助組村鑑帳」杉木家文書)


泉村
いずみむら

[現在地名]筑波町泉

桜川東岸に所在。北は小泉こいずみ村。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「泉村」とあり、佐竹義宣蔵入地で村高七三七・〇八石。江戸時代は山根やまね八ヵ村の一つで、領主は神郡かんごおり村と同じであったが、元禄八年(一六九五)筑波山つくばさん神社領、同一一年に土浦藩領。土浦藩西郷組大全帳によれば慶安四年(一六五一)に領主井上氏の検地があり、村高七三八・一八二石、田三六町七反二六歩、畑・屋敷三九町六畝二八歩、田・畑・屋敷の新開分九・五五八石。村内には天台宗弥勒みろく院、真言宗の愛光山無量むりよう東光とうこう院・慶竜けいりゆう寺、大日だいにち堂・阿弥陀堂・薬師堂・六大ろくだい明神(六社神社)・熊野宮(二社)・天神宮・稲荷宮があった。


泉村
いずみむら

[現在地名]弥彦村上泉かみいずみ

弥彦山の東麓にあり、北は金池原かないけはら新田(現岩室村)川が東を北流し、南東方にかつては楊枝ようじ潟が広がっていた。慶安三年(一六五〇)の検地帳(泉区有文書)によれば高一八二石三斗余、上田五町四反九歩・中田三町九反・下田二町一反五畝余、上畑二町七反一畝余・中畑二反六畝余・下畑六反五畝余で屋敷一五筆。そのほか源右衛門請の千石せんごく新田、下田九反七畝余が記される。与板藩領に属し、元禄一五年(一七〇二)幕府領、幕末には与板藩領。天明元年(一七八一)の新田検地帳、同五年の切添検地帳(同文書)があり、周辺の開発が進められたことをうかがわせる。


泉村
いずみむら

[現在地名]長井市泉

九野本くのもと村の南東、北流する最上川左岸にあり、東流する福田ふくだ川が当地で最上川に注ぐ。和泉とも記した(上杉領村目録)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「仁十貫文 いつミ」とみえる。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、遠藤筑後が「下長井いつミ」の内に居屋敷、「四郎さゑもん在け」「うきやう在け」「とうはん在け」「えちせん在け」「かミやち在け」「かハらきり田千かり」・谷地屋敷切田二〇〇刈・薬師堂田切田八〇〇刈・羽黒田六〇〇刈などが与えられ、泉の山川を含む総成敗権が認められた。


泉村
いずみむら

[現在地名]原町市泉

東流する新田にいだ川が太平洋に注ぐ河口の北岸に位置し、対岸は上渋佐かみしぶさ村・下渋佐村、西は高平たかひら村、北に枝郷北泉村がある。「奥相志」に「海岸は絶壁、泉崎といひ又は大磯といふ」とある。天保郷帳には「古者 泉村・北泉村弐ケ村」と注記される。正保郷帳では田方五二一石余・畑方二二〇石余。明暦二年(一六五六)の高八三八石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高六〇〇石余、ほかに北泉村五八三石余がみえる。


泉村
いずみむら

[現在地名]仁淀村泉

大植おおうえ村の北、鳥形とりがた山東北麓にあり、「土佐州郡志」に「東限長者村刑部藪峯、西限鳥形岩神峠、南限長者村谷、北限在家山唐岩、其土黒」と記す。中世には別符山べふやま五名のうちの西森にしもり名に含まれ、天正一七年(一五八九)の別符山西森名地検帳に名内の小村として泉村がみえ、「イツミヤシキ」四反余を中心として小集落があった。


泉村
いずみむら

[現在地名]下館市泉

大谷おおや川右岸に位置し、北は石塔いしとう村。和泉いずみ村とも記す。中世には伊佐いさ城の支城上館が置かれたといわれる(新編常陸国誌)。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となり、江戸時代は寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の在番時代を除き、下館藩領。元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高二五八・三三二石とあり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には鎮守稲荷明神、家数一四、馬一一とある。


泉村
いずみむら

[現在地名]いわき市泉町

釜戸かまど川下流域にあり、東は滝尻たきじり村、南は下川しもがわ村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)以降泉藩領。泉藩の藩庁が置かれ、城下町の発展につれ、当村にかみ町が、滝尻村に仲間ちゆうげん町・下町・よこ町が広がった。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高四四七石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)に泉之村とみえ、高六〇三石余。正保郷帳では田方四五五石余・畑方一四八石余。元禄郷帳では高六〇七石余。


泉村
いずみむら

[現在地名]六日町泉

下原しもはら村の西、北西は魚野うおの川対岸の奥村おくむら新田、西は枝村の泉新田、南は新堀にいぼり新田。枝村に新田がある。正保国絵図に村名がみえ、高一五二石余。延宝九年(一六八一)の村明細帳(上村正輝氏蔵)では田六町一反余・畑九町余。秣は新堀村・新堀新田に入会い、薪は山口やまぐち村山で刈る。魚野川では鮭・鱒・山女の漁を行う。家数一四のうち本百姓六・新足役家四・名子役家三・庄屋一、男五三・女四〇、馬八。子新田は田二町九反余・畑三町六反余、猟師一人・網つかい四人がおり、鮭三匹分を銀納している。家数は新足役家二・名子役家一、男一〇・女一二、馬一。


泉村
いずみむら

[現在地名]吉川町泉

大出口おおでぐち川に沿い、北西は赤沢あかさわ村、南東は後生寺ごしようじ村に接する。赤沢村境に泉村古城跡があり、城主・年代は不詳だが、当村ではじようとよばれたという。正保国絵図に高二八五石余とある。天和三年郷帳によれば高三〇九石六斗余。明和年間(一七六四―七二)のものと思われる山里蝋実穂村別帳(国立史料館蔵)では、山蝋実五升六合八勺七才・里蝋穂八貫五五二匁五分を納める。天明六年(一七八六)の水元山林絵図面并取替状(同館蔵)によると、当時は幕府領出雲崎いずもざき代官所支配。


泉村
いずみむら

[現在地名]篠山市泉

篠山城下の東方、篠山川右岸に位置する。大江匡房の「江帥集」に「大嘗会主基方和歌丹波国承保元年于時為美作守御屏風六帖四尺十八首」として「いづみのむらの人、いへにきくの花さかりに」と題して「しらぎくのいづみのむらにすむ人はくろかみながらとしをこそふれ」と詠まれている。承安二年(一一七二)と推定される僧某譲状案(九条家文書)に「泉村」とみえ、多紀たき庄内であった。地内に源義経が丹波国を通過する際に休息したという南賀なんが寺の跡や、七堂伽藍跡と称される地がある。南東のこう山に中世城館が築かれていたという。


泉村
いずみむら

[現在地名]氷見市上泉かみいずみ

東は乱橋みだれはし村、南は上田子かみたこ村、東と西の低丘陵に挟まれて平地がある。正保郷帳の高二七一石余、田方一四町二反余・畑方三町九反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印に田子泉たこいずみ村とあり、草高三二七石・免六ツ七歩、小物成は山役六匁(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の百姓一三・頭振六(「高免等書上帳」折橋家文書)。天保四年(一八三三)には上泉村とあり、家数三三(「家数調理帳」同文書)


泉村
いずみむら

[現在地名]君津市泉

六手むて村の東に位置し、北側を小糸こいと川が西流する。正応三年(一二九〇)六月二三日の関東下知状(相馬岡田文書)に「周東郡 泉村」とみえ、文永九年(一二七二)二月一〇日周東幸綱が女子の鶴若(平氏)に譲渡した泉村内の田地が正応三年安堵されている。なお永禄三年(一五六〇)一〇月一四日の北条家朱印状写(下総旧事)によれば、泉之郷など八ヵ所が村上民部大輔の求めにより守護不入とされているが、当地であるか確定できない。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に和泉村とみえ、高五九一石。


泉村
いずみむら

[現在地名]大宮町泉

久慈川の右岸にあり、北は宇留野うるの村。村の東部は久慈川の低地で西部は台地をなす。「新編常陸国誌」によると文政六年(一八二三)に泉村と改称されるまでは前小屋まえごや村と称した。妙徳寺過去帳(水戸妙徳寺蔵)に天文八年(一五三九)三月一八日「部垂前小屋落城」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「前小屋村」とあり、天保郷帳に「泉村」とみえる。

寛文三年(一六六三)の鎮守開基帳(彰考館蔵)春日明神がみえ、大同二年(八〇七)の勧請という。


泉村
いずみむら

[現在地名]牧村泉

飯田いいだ川支流の樫谷かしだに川の源流部にあり、北は神谷かみや村、南は今清水いましみず村、西は樫谷村。地名は樫谷川の源にあたることから生れたと思われる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所宇津郷扱泉村 中」とあり、本納五石五升・縄高一七石六升八合、家二軒・七人。正保国絵図では高一九石余。天和三年郷帳では高四六石一斗余、うち山高二石九斗八升・漆高二石一斗・青苧高一石四斗一升九合、反別田二町余・畑屋敷五町四反余・山林一〇町八反余・青苧畑一反五畝余、漆木二一〇本、家数九。


泉村
いずみむら

天文二〇年(一五五一)三月一八日の山城官兵衛田地寄進状(清水寺文書)によると、官兵衛なる者が住吉西佐々倉すみよしにしささくら名内の田地二段を清水きよみず(現社町)へ寄進したが、その所在地は「泉村之西小谷」とある。同名は多可たか篠倉ささくら村佐々倉氏の在地領主名ないしは庄園領主からの給田と考えられる。


泉村
いずみむら

[現在地名]南勢町泉

神津佐こんさ川と並行して流れる泉川の中・下流域にある。東は神津佐村、西はしよ浦。北は標高一九八・九メートルの山を隔てて切原きりはら村。泉川河口正面には七日なのか島が望まれる。「神鳳鈔」に度会郡「泉御薗」とある故地との説もあるが、この地域が伊勢国に属するのは近代のことであるので疑問。


泉村
いずみむら

[現在地名]龍ケ崎市泉町

小野おの川右岸の台地上にあり、東は上大塚かみおおつか村、南は貝原塚かいはらづか村。「新編常陸国誌」によれば、戦国期に東条氏の一族東条英重が泉城を築いて支配したが、のち城主は土岐氏の一族東条重定に替わり、重定は小田氏治に滅ぼされる。元禄郷帳の村高は三二二石余。天明二年(一七八二)には天領で、文化元年(一八〇四)の牛久助郷一揆には名主・組頭などの村役人も参加し、処罰されている。


泉村
いずみむら

[現在地名]彦根市日夏町ひなつちよう

安田やすだ村の南、荒神こうじん山の東裾に位置し、朝鮮人街道が通る。慶長高辻帳に村名がみえ高五一八石余、うち二四石余は小物成。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で六ツ六分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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