日本歴史地名大系 「泉村」の解説
泉村
いずみむら
〔中世〕
中世の泉村は村内に金山や上柳戸を含み、相馬岡田氏の根本所領の一であった。正和四年(一三一五)八月七日、相馬岡田氏の祖、相馬胤顕の後家尼妙悟は胤顕の遺領として一期の間知行してきた「ミなミさうまのうち、いつミのむら」を子息胤盛に譲与している(「尼妙悟譲状」相馬岡田文書、以下断りのない限り同文書)。胤顕は弘安八年(一二八五)病没しているが(相馬岡田系図)、泉村もまた胤顕が父胤村から相続した所領であったと思われる。なお妙悟から胤盛への相続の際、「いつミ□うち、かなやまに二郎太郎かさいけ一けん、のた一ちやう」は次男孫六胤兼に割譲されている。胤盛死後の元応二年(一三二〇)三月、後家尼専照は泉村を惣領胤康に譲与したが、弟長胤・又つるにも村内の田畠在家が割譲され(同月八日専照譲状)、長胤は元弘三年(一三三三)一二月、その安堵を陸奥国府に申請している(相馬長胤申状案)。なお建武二年(一三三五)一一月二〇日、相馬胤治は「いつミのむらうち、せい太郎・まこ太郎かたさいけ」を養子某に譲与しているが(相馬胤治譲状)、胤治は胤康・長胤の弟であり(相馬岡田系図)、前出「又つる」は胤治の可能性が高い。また胤康は相馬泉五郎を号していた(同系図)。
元徳三年(一三三一)九月、胤康は「いつミのむら、かなやま、かミやなと、ふなつ」を嫡子胤家に譲与、その際、村内「むしなうち田五反小」を女房に、「六郎入道か田八反小、くりはらまこた郎か田四反三百ふ」を次男孫鶴に、さらに「つしうち田四反半」を女子にそれぞれ割譲し、公事は田数に応じて負担することとした。
泉村
しみずむら
- 福井県:敦賀市
- 泉村
敦賀湾奥に位置し、西は敦賀
応仁二年(一四六八)三月四日付海運・太田景家畠地寄進状(永厳寺文書)に「泉寺」(当地の金前寺をさす)とみえるのが初見。「敦賀志」は当村の成立を「此村ハもと湯山のふもとに在しが、村地を田となして、持分のしほ浜へ移り出住居せりと云、永禄前後の事成へし」と伝え、さらに「永厳寺のしミづハ山足ニ在、甚清冷にして涌出る則一小河をなせり、近辺の数十家是を日用とす、しミづ村の名も此水よりおこる成へし」と地名由来を記す。
慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図は
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
観応二年(一三五一)二月一五日の足利尊氏下文(三吉鼓文書)、鼓家系図(「広島県文化財調査報告書」所収)によると、三吉秀清の子覚弁は、観応二年足利尊氏から波佐竹四郎二郎跡の泉村地頭職を勲功の賞として宛行われている。
泉村
いずみむら
- 熊本県:八代郡
- 泉村
八代郡の東部に位置し、東は宮崎県
泉村
いずみむら
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七四九石余。近世初期の邑鑑によると免一ツ三分、家数一二(役家五、肝煎一、諸職人・脇家六)、人数四四、役木として桑・楮がある。米沢藩領時代の古高一千二九二石余、幕府検地による新高一千一〇五石余(古高新高帳)。
泉村
いずみむら
「尊卑分脈」(藤原時長孫)に加賀斎藤系武士団富樫氏の庶流として泉四郎高家の名がみえ、当時一帯を開発領とし、苗字の地とした在地領主と思われる。同書では高家は「平家物語」や「源平盛衰記」に散見する富樫次郎家経の弟とされるが、富樫系図(尊経閣文庫)には高家の名が載らず、泉氏は家重―家時―忠家―家利―家保―女子と相続している。
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
- 鳥取県:米子市
- 泉村
近世には尾高村枝郷で、
泉村
いずみむら
- 富山県:氷見市
- 泉村
泉村
いずみむら
- 静岡県:熱海市
- 泉村
東は相模国
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
桜川東岸に所在。北は
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
- 茨城県:下館市
- 泉村
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
- 富山県:氷見市
- 泉村
東は
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
- 兵庫県:加西市
- 泉村
天文二〇年(一五五一)三月一八日の山城官兵衛田地寄進状(清水寺文書)によると、官兵衛なる者が
泉村
いずみむら
泉村
いずみむら
- 茨城県:龍ケ崎市
- 泉村
泉村
いずみむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報