日本歴史地名大系 「東神楽村」の解説
東神楽村
ひがしかぐらむら
[現在地名]上川郡東神楽町北一条西 一―四丁目・北一条東 一―二丁目・北二条西 三―四丁目・北二条東 二丁目・北三条東 二丁目・字栄岡 ・字志比内 ・東一線 ・東二線 ・東三線 ・東四線 ・東五線 ・東六線 ・ひじり野北一条 一―五丁目・ひじり野北二条 一―四丁目・ひじり野南一条 一―四丁目・ひじり野南二条 一―四丁目・ひじり野南三条 一―四丁目・南二線 ・南三線 ・南四線 ・南五線 ・南一三号 ・南一条西 一―四丁目・南一条東 一―二丁目・南二条西 一丁目・南二条東 一―二丁目・南三条東 一丁目・南一番通 ・字八千代ヶ岡基線 ・三号 ・四号 ・五号 ・六号 ・七号 ・八号 ・九号 ・一〇号 ・一一号 ・一二号 ・一三号 ・一四号 ・一五号 ・一六号 ・一七号 ・一八号 ・一九号 ・二〇号 ・二一号 ・二二号 ・二三号 ・二四号 ・二五号 ・二六号 ・二七号 、旭川市旭神町
昭和一八年(一九四三)から同四〇年まで存続した上川郡の村。昭和一八年四月、上川郡神楽村から分村して一級町村東神楽村として成立。「丁巳日誌」(再石狩日誌)にみえる「フシコチユクベツ」はポン川にあたるとみられ、「川巾弐間計(中略)夷人小屋一軒有。昔しは多く有し由なり(中略)家主イソテクアイノ妻アリコレと二人住す。然るに此者は上サツホロの帳面に附たるもまたおかし」と記される。明治二〇年(一八八七)の道庁殖民課の福原鉄之輔らによる上川原野殖民地撰定では、当村域は「フシコ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報