神楽村(読み)かぐらむら

日本歴史地名大系 「神楽村」の解説

神楽村
かぐらむら

[現在地名]旭川神楽一条かぐらいちじよう七―一二丁目・神楽二条かぐらにじよう二―一二丁目・神楽三条かぐらさんじよう二―一二丁目・神楽四条かぐらよじよう一―一四丁目・神楽五条かぐらごじよう一―一四丁目・神楽六条かぐらろくじよう一―一四丁目・神楽七条かぐらななじよう七―一四丁目・神楽岡公園かぐらおかこうえん神楽岡一条かぐらおかいちじよう四―七丁目・神楽岡二条かぐらおかにじよう四―七丁目・神楽岡三条かぐらおかさんじよう四―七丁目・神楽岡四条かぐらおかよじよう四―七丁目・神楽岡五条かぐらおかごじよう四―七丁目・神楽岡六条かぐらおかろくじよう三―七丁目・神楽岡七条かぐらおかななじよう四―七丁目・神楽岡八条かぐらおかはちじよう一―七丁目・神楽岡九条かぐらおかくじよう一―七丁目・神楽岡十条かぐらおかじゆうじよう一―九丁目・神楽岡十一条かぐらおかじゆういちじよう一―九丁目・神楽岡十二条かぐらおかじゆうにじよう一―九丁目・神楽岡十三条かぐらおかじゆうさんじよう三―九丁目・神楽岡十四条かぐらおかじゆうよじよう三―八丁目・神楽岡十五条かぐらおかじゆうごじよう三―五丁目・神楽岡十六条かぐらおかじゆうろくじよう三―四丁目・緑が丘東一条みどりがおかひがしいちじよう一―二丁目・緑が丘東二条みどりがおかひがしにじよう一丁目・同三―四丁目・緑が丘東三条みどりがおかひがしさんじよう一―三丁目・緑が丘東四条みどりがおかひがしよじよう一―三丁目・緑が丘東五条みどりがおかひがしごじよう一―三丁目・緑が丘南一条みどりがおかみなみいちじよう一―二丁目・緑が丘南二条みどりがおかみなみにじよう一―二丁目・緑が丘南三条みどりがおかみなみさんじよう一―二丁目・緑が丘南四条みどりがおかみなみよじよう一―二丁目・緑が丘南五条みどりがおかみなみごじよう一―二丁目・緑が丘一条みどりがおかいちじよう緑が丘二条みどりがおかにじよう緑が丘三条みどりがおかさんじよう緑が丘四条みどりがおかよじよう緑が丘五条みどりがおかごじよう旭神町きよくしんちよう旭神一条きよくしんいちじよう三―五丁目・旭神二条きよくしんにじよう一―五丁目・旭神三条きよくしんさんじよう一―五丁目・西御料一条にしごりよういちじよう一―二丁目・西御料二条にしごりようにじよう一―二丁目・西御料三条にしごりようさんじよう一―二丁目・西御料四条にしごりようよじよう一―二丁目・西御料五条にしごりようごじよう一―二丁目・西神楽一線にしかぐらいつせん西神楽二線にしかぐらにせん西神楽三線にしかぐらさんせん西神楽四線にしかぐらよんせん西神楽五線にしかぐらごせん西神楽北一条にしかぐらきたいちじよう西神楽北二条にしかぐらきたにじよう西神楽南一条にしかぐらみなみいちじよう西神楽南二条にしかぐらみなみにじよう西神楽南にしかぐらみなみ新開しんかいなど、上川郡美瑛びえい大町おおまち一丁目など、東神楽ひがしかぐら町ひじり野北一条のきたいちじようなど

明治二五年(一八九二)から同三三年まで存続した村。

神楽村
かぐらむら

明治三三年(一九〇〇)から昭和一八年(一九四三)まで存続した村。明治三三年六月神楽村より美瑛びえい村が割かれて新たに神楽村が成立。同三四年九月旭川村から神楽村に神楽村神居かむい村戸長役場を移転(市町村沿革台帳)。同三五年西御料地の水田が二五〇町に達する。同三七年三月辺別べべつ(現西神楽)に郵便局が開局。同三八年東御料地に無集配三等郵便局開局。同四〇年西御料地に日本飛水車工場を設立。同年村内の新聞購読部数は七三部(以上「旭川市史」)。同四〇年一〇月神楽村西御料地土功組合、同四一年三月神楽村東御料地土功組合設立(北海道土功組合史)

神楽村
じんらくむら

[現在地名]大和高田市大字神楽

高田村の北部に隣接する。「経覚私要鈔」に文安四年(一四四七)一〇月一九日、布施氏が高田に押寄せ、「深楽」の堂塔を焼いたことがみえ、深楽じんらくは当村のことであろう。寛永郷帳に「秦楽村」と記す。神楽の東北方の大字秦庄はたのしよう(磯城郡田原本町)秦楽じんらく寺があり、秦河勝の居住地と伝承する。

神楽村
かぐらむら

昭和一八年(一九四三)から同二九年まで存続した村。昭和一八年四月神楽村が割かれて東神楽村分立、新たに神楽村が成立(市町村沿革台帳)。同二〇年二月北海道緊急開拓者入植地として国有林一千一五〇町を貸付ける。同二二年三月帝室林野局出張所が廃止され、旭川営林局を設置

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報