県の三大河川の一つで、鳥取県境
「和気絹」の
右の解釈もなお明白でない。
旭川下流東岸には、明治以前に灌漑以外の目的でつけられたわが国でも数少ない人工河川の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
北海道のほぼ中央に位置する市。上川(かみかわ)総合振興局所在地。1922年(大正11)市制施行。1955年(昭和30)神居(かむい)、江丹別(えたんべつ)の2村、1961年永山町、1963年東旭川町、1968年神楽(かぐら)町、1971年東鷹栖(ひがしたかす)町を編入。上川盆地の大部分を占め、石狩(いしかり)川、牛朱別(うししゅべつ)川、忠別(ちゅうべつ)川、美瑛(びえい)川など盆地を流れる主要河川は、旭川市街付近で石狩川1本に合流する。市域の東半部は大部分が沖積地で、市街南部に神楽岡、北部に近文(ちかぶみ)台の台地がある。西半部は主として古生層からなる山地で、石狩川が山地を横断して神居古潭(こたん)の急流をつくっている。JR函館(はこだて)本線、宗谷(そうや)本線、石北(せきほく)本線、富良野(ふらの)線が分岐し、国道12号、39号、40号、237号、452号の幹線道路も集中、道央自動車道旭川鷹栖・旭川北インターチェンジもあり、道北の交通の中心である。南部には旭川空港があり、東京などと連絡する。
1891年(明治24)永山に、翌1892年東旭川に屯田兵村が設置され、1893年に設けられた当麻(とうま)町の兵村とともに、上川盆地開拓の先駆となった。旭川の旧市街は盆地一帯の中心地として計画された。1900年(明治33)以来第七師団が置かれ、軍都としての色彩が強かったが、第二次世界大戦後は行政機関、文化施設が集中する道北の中心である。商工業も発達し、道内では札幌に次ぐ人口を有する。
永山、東旭川、神楽地区は、北海道としては良質多収を誇る米作地帯で、市町村別産米量の全国1位を占めたことも多かった。工業は製材、木工品、食品、酒造などが盛んで、電子、製紙、印刷、酒精の大工場もあり、旭川工業団地や旭川リサーチパークも造成された。中心商店街平和通は、1972年(昭和47)全国で初めて車両の交通を廃して、街路に買物公園をつくった。西部の嵐山(あらしやま)にはアイヌの生活を記録する「アイヌ文化の森・伝承のコタン」や野草園があり、また近文アイヌ集落は、1894年(明治27)上川盆地一帯のアイヌに居住地を指定したものであった。このほか文化施設に、市立博物館、道立旭川美術館、旭山動物園、川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館、井上靖記念館(1993年開館)、三浦綾子記念文学館(1998年開館)などがある。旧旭川偕行社(きゅうあさひかわかいこうしゃ)(旧陸軍将校の親睦(しんぼく)団体)の建物は国指定重要文化財で、内部は中原悌二郎(ていじろう)記念旭川市彫刻美術館。面積747.66平方キロメートル、人口32万9306(2020)。
[岡本次郎]
『『旭川80年のあゆみ』(1970・旭川市)』
岡山県三大河川の一つ。蒜山(ひるぜん)高原に源を発し、多くの支流をあわせつつ県中央部を南下し、岡山市を通過して児島(こじま)湾に注ぐ。一級河川。延長142キロメートル。流域面積1810平方キロメートル。中国山地と吉備(きび)高原の間では勝山、久世(くせ)、落合の諸盆地を形成し、吉備高原では深い谷を刻み、下流では岡山平野を形成する。上流部で長期間砂鉄採取が行われたため、下流に大量の土砂が堆積(たいせき)し、近世以降、広大な干拓地が造成された。近世初期に落合から、のちには美作(みまさか)高田(現、勝山)から岡山まで高瀬舟が通じ、物資輸送に重要な役割を果たした。当時の川湊(みなと)には、勝山、旦土(たんど)、西川、福渡(ふくわたり)、金川があり、木材の筏(いかだ)流しも行われた。岡山平野では流路は幾度か変遷し、岡山市北区の県営総合グランド内の津島遺跡のように初期稲作の跡もある。岡山に城下町が形成されると、河道は固定され、中州(なかす)には特別名勝の後楽園が造営された。1654年(承応3)に大洪水があり、熊沢蕃山(くまざわばんざん)の案により津田永忠が1669~1670年(寛文9~10)に百間川(ひゃっけんがわ)を建設した。これは、わが国でも初期の放水路で、岡山の市街地の上流で荒手堤を越えて分流し、操(みさお)山東側から南流して児島湾に注ぐ長さ12.9キロメートル、幅200~300メートルの水路である。
現在では旭川の水は灌漑(かんがい)、工業および都市の用水、電力資源として用いられており、中流には県営旭川ダム、上流には中国電力湯原ダムがある。
[由比浜省吾]
岡山県のほぼ中央を南北に流れる川で,県の三大河川の一つ。鳥取県境の蒜山(ひるぜん)高原に源を発し,鉄山(かなやま),新庄,誕生寺,宇甘(うかい)など大小132の支流を合わせて県中央部を南下し,岡山市を通過して児島湾に注ぐ。幹川流路延長142km。全流域面積1800km2。中国山地と吉備高原の間に勝山,久世,落合の諸盆地を形成し,吉備高原横断部分ではV字谷を作り,岡山市北区玉柏(たまがし)付近からは岡山平野を形成している。他の諸河川とともに古くから児島湾に大量の土砂を堆積してきたため,近世以降に広大な干拓地が造成されることになった。江戸初期に落合から岡山まで,のちには少しさかのぼって美作高田(勝山町)から高瀬舟が通じ,物資輸送に重要な役割を果たした。当時の川港としては勝山,旦土(たんど),西川,福渡(ふくわたり),金川などがあり,木材のいかだ流しにも旭川が用いられた。岡山平野では流路が幾度か変遷した形跡があるが,岡山に城下町が形成され,宇喜多秀家の代に天守閣の下を流れるよう変更されてからは固定した。また1654年(承応3)の洪水の際熊沢蕃山の献策により津田永忠が69年(寛文9)から翌年にかけて放水路を建設した。これは百間川と呼ばれ,岡山市中区の中島と竹田の間で旭川から荒手堤を越えて分流して南東流し,操山東側から南下して沖新田南端で児島湾に注ぐ(長さ12.9km,幅200~300m)。今日では旭川は灌漑,工業,都市の用水および電力資源として用いられ,中流に県営旭川ダム,上流には中国電力湯原ダムがある。JR姫新(きしん)線および津山線の一部がこの谷に沿って通じる。
執筆者:由比浜 省吾
北海道中央部,上川盆地西半部を占める市。1922年市制。人口34万7095(2010)。1890年村設置の際,道庁は〈あさひかわ〉,国は〈あさひがわ〉と告示し,国鉄時代の駅名は後者が使用されていた。なお,この地名は忠別川(アイヌ語のchiw-pet=波・川)をchup-pet(日・川)と誤解したことに発するという説がある。91年永山に,翌92年東旭川に設置された屯田兵村は92年設置の当麻兵村とともに盆地開拓の先駆を担い,牛朱別川と忠別川の間に施された市街区画は,盆地一円の行政・商業の中心を置くプランであった。1900年石狩川北岸に第7師団が設置され,軍都の色彩を濃くした。現在は函館本線,宗谷本線,石北本線,富良野線の分岐点にあたり,道央の中心都市に発展し,戦後一貫して高い人口増加率を維持,道内では札幌に次ぐ人口をもつ。古くから製材・木工工業が盛んで,家具製造には定評があり,酒造地としても知られ,パルプ,酒造の大工場があり,内陸工業都市として発展している。旭川駅から北に延びる中心商店街は72年全国に先駆けて恒久的歩行者天国を造成したもので,平和通買物公園と呼ばれる。旭川空港は旭川の南東に隣接する上川支庁東神楽町にあるが,市が管理している。道央自動車道の旭川北インターチェンジがある。
執筆者:岡本 次郎
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…これは単に気温が低いことに起因するだけでなく,ブラキストン線の通る津軽海峡が動物区上の境界となっていることなど,氷期の海面低下とかかわる古地理学上の理由なども加わっている。 年平均気温は平地部で5~8℃,東京との差は7~10℃に及び,最低気温は内陸盆地では-30℃くらいで,旭川では-41.0℃(1902)を記録したことがある。根雪期間は12月から3月に及び,土壌凍結は積雪の少ない東部でとくに著しく最大数十cmに達し,オホーツク海岸や根室海峡では流氷の接岸もみられる。…
…〈しかたのしょう〉とも読む。旭川河口付近の肥沃な沖積平野を占め,早くから荘園化していたらしく,817年(弘仁8)藤原冬嗣は興福寺南円堂法華会料72石余に当荘地子をあて,900年(昌泰3)には長講会料に当荘地子米50石をあて,また藤原氏の氏神大原野神社の二季祭饗にも986年(寛和2)以前から当荘の年貢米があてられていた。986年備前守藤原理兼は当荘下司下野守貞と争い,数百の兵を集めて荘内に乱入し下司らの居宅ほか300余軒を破却放火して家財を奪った。…
※「旭川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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