日本歴史地名大系 「東長岡村」の解説 東長岡村ひがしながおかむら 岩手県:紫波郡紫波町東長岡村[現在地名]紫波町東長岡北上川に流入する天王(てんのう)川流域の平坦地と、その東方に連なる山間丘陵地を占め、東西に長い。南は西長岡村・山屋(やまや)村、東は大萱生(おおがゆ)村(現都南村)、西は北上川を隔て土橋(つちはし)村(現矢巾町)、北は栃内(とちない)村。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に東長岡村とみえ、蔵入高五七〇石余、七ヵ年平均の免三ツ五分八厘三毛、東西に分村している。元禄十郡郷帳では長岡村として高付される。元文三年(一七三八)の給人書上によると桐田小十郎・大槌豊之進・佐羽内守之進の知行地があった。「邦内郷村志」では東長岡村の蔵分二一四石余・給分三五〇石余、家数三四。享和三年(一八〇三)の仮名付帳によれば家数六〇、うち本村一九、枝村の細工田(さいくでん)一二・林崎(はやしざき)六・大平(おおだいら)二・常川(つねかわ)一八・天王(てんのう)三。 東長岡村ひがしながおかむら 群馬県:太田市東長岡村[現在地名]太田市東長岡・熊野町(くまのちよう)安良岡(やすらおか)村の南、金山(かなやま)丘陵南東の台地上に位置し、西は新田(につた)郡太田町、南は同郡内(うち)ヶ島(しま)村、東は石原(いしはら)村など。休泊(きゆうはく)堀が東境を南流し、日光例幣使街道が南西から北東に村内を通る。寛文郷帳では館林藩領、田方九一九石余・畑方四六五石余。「封内経界図誌」では高一千四五七石余(うち新田高七〇石余)、田六六町九反余・畑六四町八反余で家数一一九・人数四九八、馬三七。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by