長岡村(読み)ながおかむら

日本歴史地名大系 「長岡村」の解説

長岡村
ながおかむら

[現在地名]伊豆長岡町長岡

狩野かの川中流の西岸に位置し、北は古奈こな村・墹之上ままのうえ村。西浦にしうら路が通る。天文七年(一五三八)三月九日、北条氏は伊豆国内の革作職人の所在と人数を確認し、「なか岡」の九郎衛門に、公用の皮を仕上げて無沙汰なく納入すること、他の被官となることや不入の在所に移転することの禁止などを伝えている(「北条家朱印状」宮本文書)。当地には五人の革作職人がおり、九郎衛門が伊豆国の革作二一人を統括していた。のちの史料には触口の孫九郎や(天正六年七月二〇日「北条家朱印状」同文書)、ほかに七郎右衛門(弘治四年二月二七日「北条家朱印状」同文書など)もみえる。当地の革作職人は毛皮・燻皮・板目皮を加工していた(永禄一〇年一一月二一日「北条氏康朱印状」・天正一三年七月二五日「北条家朱印状」同文書)。永禄九年(一五六六)閏八月六日には西浦重洲おもす(現沼津市)の百姓五郎左衛門・善九郎が当地に逃込んでいる(「北条氏康朱印状」土屋文書)。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(渡辺文書)によれば田中たなか郷に含まれていた。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]峰山町字長岡

竹野川の左岸、網野街道久美浜街道に挟まれた地にある。村の北を鱒留ますどめ川が東流し竹野川に注ぐ。集落の西南は磯砂いさなご山系の丘陵に囲まれ、東は竹野川の沖積地が開ける。

長岡はもと長尾ながおといった(丹哥府志)というが不詳。中世末の丹後国御檀家帳には「長岡之里」と出る。江戸時代に入り慶長検地郷村帳に高九九一・三三石「長岡村」とみえる。峯山藩領。峯山明細記によれば反歩は九七町九反五畝一〇歩(田八六町五反二四歩、畑一一町四反三畝六歩)、戸口は一四二軒、五八〇人(男二八二人、女二九八人)

枝村に金田きんだ姫御前ひめごぜ・あてびがあり、姫御前の三軒の屋敷地は善王寺ぜんのうじ(現大宮町)地内にあったため、屋敷年貢米二石を善王寺村に支払っていた(峯山明細記)


長岡村
ながおかむら

[現在地名]岩沼市長岡

高館たかだて丘陵から東へ延びる長岡丘陵沿いにあり、北は小川おがわ村、南は三色吉みいろよし村と接する。低い丘陵が東の平野部に長く張出していることから地名が生じたと思われる。長岡丘陵部には遺跡が多く、縄文時代の上根崎かみねざき遺跡・長岡遺跡だい長塚ちようづか古墳(円墳)塚越つかごし新明塚しんめいづか古墳(前方後円墳)などが知られる。

永正一七年(一五二〇)四月二日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に「名取長岡郷」とみえ、佐藤孫右衛門に今村治部少輔よりの買地である同郷内の年貢三貫二〇〇文の「つほの内半在家」、年貢一貫五〇〇文の「一宮在家一宇」が安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「なかをか」の段銭は五貫八〇〇文とある。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]箕輪町大字東箕輪ひがしみのわ 長岡

天竜川の東、一之沢いちのさわ川を北の境とする段丘上の村で東南は山地。

初見は天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳で、「一八百八拾七石八斗九升四合 長岡」とある。成立年代は不詳であるが南北朝時代の高僧大歇勇健(一三八六年没)の正眼智鑑禅師年譜に、

<資料は省略されています>

とある。

山麓から段丘台地上は水利に恵まれず、畑作地帯で、江戸時代には雑穀や野菜のほか葉煙草・麻・藍などの特殊作物の産地であった。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]古川市長岡

江合えあい川北方の水田地帯、栗原郡に属し、東は荒谷あらや村、南は桜目さくらのめ村、北は川熊かわくま村に接する。こけ谷地やち遺跡からは石包丁が出土し、早くから稲作が行われていた。三輪田みわだ遺跡は安養寺あんようじ廃寺付近にあり、奈良・平安時代の土師器・須恵器を伴う竪穴住居群が発見されている。「続日本紀」宝亀一一年(七八〇)二月一一日条に「陸奥国言、去正月廿六日、賊入長岡焼百姓家」とある。この長岡は、近世の長岡村を中心とした長岡郡をさしていると思われる。同書延暦八年(七八九)八月三〇日条に「牡鹿、小田、新田、長岡、志田、玉造、富田、色麻、賀美、黒川等一十箇郡」は賊と居を接しているため、免税期限を延長するとある。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]四街道市長岡

栗山くりやま村の東、小名木おなぎ川左岸に位置。川沿いに水田が広がり、集落のある台地上に山林・畑などがある。慶長七年(一六〇二)の地引水帳並畑帳(井岡家文書)によれば、検地役人は嘉藤作兵衛・服部吉兵衛・佐汰(佐瀬)惣十・中山善太郎・伊藤太郎作で、反別八町二反余、うち上田一町一反余・中田二町余・下田三町五反余、上畑一反余・中畑四反余・下畑八反余、屋敷一反余。名請人として長楽ちようらく(現在不明)の名もみえる。同一九年の東金御成街道作帳では栗山村と二村で高六二〇石、道普請一一町を割当てられている。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]山東町長岡

万願寺まんがんじ村の西に位置し、村内を天野あまの川が南西流する。古代の坂田郡長岡郷(和名抄)の遺称地で、中世は長岡庄が成立。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)に「長岡内長岡村」とみえ、豊臣秀吉の直轄領で高一千二八二石余。寛永石高帳では高一千二八六石余、彦根藩領(幕末に至る)柏原かしわばら宿に助郷高一三一石で出役(柏原区有文書)。享保一一年(一七二六)新田開発のために志賀谷しがや堂谷どうだに本郷ほんごう三ヵ村の用水井である於方おかた井より勝手に取水したため、志賀谷村から訴えられ取水を中止したが、宝暦一一年(一七六一)武装した当村百姓多数が同井口番人を襲撃し、井水を導水するという事件があった。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]津市長岡町

渋見しぶみ村の西、安濃あのう郡北部丘陵の南裾にある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「長岡之郷」、慶安郷帳(明大刑博蔵)には「長岡村」と記す。集落の裏山にきみぐち古墳などの数基の古墳がある。「神鳳鈔」安西あんさい郡に「長岡御厨七丁六段小、三石、六九十二月」とあり、「外宮神領目録」には「長岡御厨二斗三度御祭勤之」、「外宮神領給人引付」(神宮文庫蔵)には「長岡御厨二斗三度御祭二斗例勤之」および「長岡御園道陸寺口入称念々」とある。

慶長一三年(一六〇八)以降津藩領。宝永二年(一七〇五)以降久居藩領となる(藤影記)。慶安郷帳の高五六二・二三石、慶安元年(一六四八)平高は六八八・八五二石で、寄人足は三八人が課せられていた(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)


長岡村
ながおかむら

[現在地名]山田町長岡

府馬ふま村の西、下総台地東部の丘陵上に位置する。永禄一三年(一五七〇)一一月一四日の伝法灌頂請定(徳星寺文書)に「長岡普門院」とみえ、小見徳星おみとくしよう寺末寺の普門ふもん院があった。天正一九年(一五九一)の検地帳(小出家文書)には「香取之郡府馬領長岡之郷」とみえ、高六九六石余・反別一一九町八反余が打出された。寛文九年(一六六九)旗本稲生氏、元禄一一年(一六九八)には旗本中山氏が当村の内で知行地を与えられたとみられ(寛政重修諸家譜)、同一三年頃の下総国各村級分でも同じ旗本二氏領で、この相給のまま幕末に至る(旧高旧領取調帳など)


長岡村
ながおかむら

[現在地名]坂戸市長岡

北浅羽きたあさば村の南にあり、西方を越辺おつぺ川が北流する。小田原衆所領役帳に他国衆原上総介の所領として、入西につさいの長岡六貫三八七文がある。近世には入間いるま郡入西領に属した(風土記稿)。田園簿では田八〇石余・畑四四石余、旗本竹島領。その後幕府領を経て宝暦一二年(一七六二)から寛政七年(一七九五)まで三卿の清水領となったらしく、化政期には幕府領(「風土記稿」など)


長岡村
ながおかむら

[現在地名]真壁町長岡

加波かば山西麓にあり、北は下小幡しもこばた村。中世は真壁氏が支配し、弘安大田文に「長岡十五丁二段六十歩」とあり、貞和三年(一三四七)の僧某請文(真壁長岡文書小解)

<資料は省略されています>

とある。真壁氏本宗の当家大系図(真壁博氏蔵)の真壁朝幹の註記に永享一一年(一四三九)として庶子家とおぼしき長岡但馬守の名がみられる。慶長二年(一五九七)に麦田の検地が行われ、真壁郡麦田検地帳(彰考館蔵)には「長岡村(中略)合四畝四歩、右之麦四斗壱升三合、此内三ケ二引、残而壱斗三升七合御定納」とある。同一一年浅野氏領、元和八年(一六二二)笠間藩領となり、元禄一〇年(一六九七)の長岡村差出帳(長岡家文書)に高六四九・三石、田高四一八・九二六石、畑高二二七・五九石、無地高二・七八四石、本高六三五・六〇九石(慶安三年検地)、新開三・三〇二石(万治三年検地)、新開六・八五二石(寛文一三年検地)、新開〇・七五三石(延宝五年検地)、反別は六二町八反二五歩(田三一丁七反九畝一三歩・畑三一町一畝一二歩)、総人数四二五(男二一九・女二〇六)、本百姓八三軒(三六七人)・水呑二〇軒(五八人)とある。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]象潟町長岡

鳥海山麓、西にし山(うしろ山)の西に位置し、赤石あかいし川が流れる。北は大竹おおたけ(現金浦町)大飯郷だいはんごう村、東は横岡よこおか村、南は小滝こたき村、西は塩越しおこし村に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、仁賀保にかほ郷の一村として村名がある。

慶長七年最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年仁賀保挙誠領となり、高は二二三石九升二合であった(「仁賀保総高改」渡辺文書)。寛永元年(一六二四)仁賀保家の分知に際し、長男良俊(七千石家)領となったが、同八年、天領となり庄内しようない(現山形県)酒井氏の預領となる。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]太田市西長岡にしながおか

天良てんら村の北、八王子はちおうじ丘陵の南西麓にあり、村の中央部を岡登おかのぼり用水(谷津川)が南東流する。西は藪塚やぶづか(現新田郡藪塚本町)、東は菅塩すがしお村、北は山田郡下広沢しもひろさわ(現桐生市)。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)によると、新田につた庄内の郷として「いしゝおの郷 田五町九反 畠二丁八反廿たい 在家十一う」とみえ、右の目録を注進した享徳四年(一四五五)の在家注文(同文書)には「なかおか」と傍注があり、当地は古く石塩の郷とよばれた。一五世紀半ばのものと思われる岩松持国知行分注文(同文書)には「ゆら長岡郷」とみえ、持国の知行地であった。金山かなやま城落城の後、新田領は小田原北条氏の支城領となり、天正一四年(一五八六)七月二四日には高山遠江守・宇津木氏久がそれぞれ長岡郷内の九六貫九六文・九一貫七〇〇文の地を宛行われている(「北条家朱印状」高山満雄氏所蔵文書など)


長岡村
ながおかむら

[現在地名]宇都宮市長岡町

北は川原谷かわらや村、南は山本やまもと村、西は戸祭とまつり村に接する山間を縫う山村。天正一三年(一五八五)二月四日の宇都宮国綱寄進状(華光院文書)に「長岡之郷」とみえ、以天(宇都宮広綱)の番田料として当郷分斗足のうち五貫文を華光かこう院へ寄付している。元和六年(一六二〇)の検地帳(石川雅一文書)では上田五町八反余・中田六町四反余・下田一三町六反余・下々田二町余、上畑八反余・中畑八町二反余・下々畑三町六反余とある。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]榛東村長岡

山子田やまこだ村の北に位置し、北は上野田かみのだ(現吉岡村)、東は北下きたしも(現同上)。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では高五七〇石余、田方三一町一反余・畑方三四町一反余で高崎藩領。元禄郷帳では旗本長谷川領などの三給。安政二年(一八五五)の渋川村組合村柄書上帳(堀口文書)では元禄郷帳と同様に旗本の三給、家数六七で人数は男一一六・女一二一、馬一五とあり、農間に男は山稼、女は苧機稼を行っているとみえる。明治一〇年(一八七七)頃の家数一三〇(うち社一・寺一)・人数六六八、牡馬三〇。おもな物産には繭一〇〇石などがあった(郡村誌)


長岡村
ながおかむら

[現在地名]南陽市長岡

赤湯あかゆ村の南、米沢街道に沿い、丸い小丘三つが並ぶ麓に位置する。丘の西側に稲荷森いなりもり古墳がある。丘陵上に正和二年(一三一三)頃、伊達氏家臣湯野目肥前が居城したと伝える城跡があり空堀が残る。天正一三年(一五八五)の北条段銭帳によると、小やなかハ五郎衛門がなかをかあわの左馬助分二千三〇〇刈役五七五文、今村日向守がなかをか一千五〇〇刈役三七五文を納めている。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高四〇一石余、免一ツ七分、家数一八(うち役家五・肝煎一)、人数九五、役木として漆をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は上。上杉領村目録によると高六七九石余、本免二ツ五分。反別は田三九町九反余・畑九町五反余(安永八年改)、家数二二・人数一一八、馬一六。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]秋田市下新城長岡しもしんじようながおか

笠岡かさおか村の北一〇町、東は青崎あおざき村、西は中野なかの村と境する。集落の北方は緩い丘陵地と沼沢地である。

文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に長岡村の名がある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には長岡新田村二六四石と記すが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤新田出」とあり、絵図の新田は誤りとみられる。

寛永八年(一六三一)一一月、長岡村の地頭であった向帯刀(重政)に新墾地開墾の許可が与えられた。「梅津政景日記」寛永八年一一月一〇日条に「新城ノ内長岡村太はり谷地新開之事、本田之さハリに不罷成候ハヽ、鍬先次第ニ可被仰付候、付、鍬下の外よしかやにかまひ不申様ニ御申付尤ニ候」とあり、新田開発に積極的な藩の姿勢がうかがわれる。


長岡村
なおかむら

[現在地名]上越市長岡

小泉こいずみ村の南東に位置する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「高梨分此外弐方分長岡村 上」とみえ、本納五〇石六斗八升五合・縄高二九八石六斗一合・家一八軒・六二人。正保国絵図によると高二八四石余。天和三年郷帳では三一三石二斗余、うち野高二斗六升一合。宝暦三年(一七五三)村明細帳(平野家文書)によれば、田二一町四反余・畑七町六反余、家数二四、うち本百姓一〇・水呑一四、人数一五八、馬六。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]茨城町長岡

涸沼前ひぬままえ川の左岸に位置し、東は植農うえの(上野)村。年未詳の江戸重通書状写(石川氏文書)に「上野長岡」とみえる。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に上野長岡村一一六〇・九石とある。「新編常陸国誌」によれば、もと上野村と一つであったが正保年間(一六四四―四八)以後二村に分れ、天保年間(一八三〇―四四)に植農村を合した。水戸藩領となって元禄郷帳に長岡村とあり村高六六七・三〇八石だが、天保一三年の検地では合村して田畠一四〇町余、分米一千一五六石余(新編常陸国誌)となっている。


長岡村
ながおかむら

[現在地名]八日市場市長岡・長丘ながおか

大浦おおうら村の西に位置し、北は借当かりあて川を挟んで香取郡飯高いいだか村。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属し、在地領主は千葉氏族の椎名氏。神代本千葉系図は千葉常繁(常重)の庶子である椎名胤光の子息に四郎時胤を載せ、その庶子に長岡五郎行胤をあげ又五郎胤貞に継いでいる。同氏の居城である長岡城は白尾しらおに遺構が残る。同氏支流には荒野(高野)・井戸野・大浦の諸氏がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android