日本歴史地名大系 「長岡村」の解説
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
竹野川の左岸、網野街道と久美浜街道に挟まれた地にある。村の北を
長岡はもと
枝村に
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 宮城県:古川市
- 長岡村
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
慶長一三年(一六〇八)以降津藩領。宝永二年(一七〇五)以降久居藩領となる(藤影記)。慶安郷帳の高五六二・二三石、慶安元年(一六四八)平高は六八八・八五二石で、寄人足は三八人が課せられていた(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)。
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 埼玉県:坂戸市
- 長岡村
長岡村
ながおかむら
とある。真壁氏本宗の当家大系図(真壁博氏蔵)の真壁朝幹の註記に永享一一年(一四三九)として庶子家とおぼしき長岡但馬守の名がみられる。慶長二年(一五九七)に麦田の検地が行われ、真壁郡麦田検地帳(彰考館蔵)には「長岡村(中略)合四畝四歩、右之麦四斗壱升三合、此内三ケ二引、残而壱斗三升七合御定納」とある。同一一年浅野氏領、元和八年(一六二二)笠間藩領となり、元禄一〇年(一六九七)の長岡村差出帳(長岡家文書)に高六四九・三石、田高四一八・九二六石、畑高二二七・五九石、無地高二・七八四石、本高六三五・六〇九石(慶安三年検地)、新開三・三〇二石(万治三年検地)、新開六・八五二石(寛文一三年検地)、新開〇・七五三石(延宝五年検地)、反別は六二町八反二五歩(田三一丁七反九畝一三歩・畑三一町一畝一二歩)、総人数四二五(男二一九・女二〇六)、本百姓八三軒(三六七人)・水呑二〇軒(五八人)とある。
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 群馬県:太田市
- 長岡村
長岡村
ながおかむら
- 栃木県:宇都宮市
- 長岡村
北は
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 山形県:南陽市
- 長岡村
長岡村
ながおかむら
文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に長岡村の名がある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には長岡新田村二六四石と記すが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤而新田出」とあり、絵図の新田は誤りとみられる。
寛永八年(一六三一)一一月、長岡村の地頭であった向帯刀(重政)に新墾地開墾の許可が与えられた。「梅津政景日記」寛永八年一一月一〇日条に「新城ノ内長岡村太はり谷地新開之事、本田之さハリに不罷成候ハヽ、鍬先次第ニ可被仰付候、付、鍬下の外よしかやにかまひ不申様ニ御申付尤ニ候」とあり、新田開発に積極的な藩の姿勢がうかがわれる。
長岡村
なおかむら
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 千葉県:八日市場市
- 長岡村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報