日本歴史地名大系 「長岡村」の解説
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
竹野川の左岸、網野街道と久美浜街道に挟まれた地にある。村の北を
長岡はもと
枝村に
長岡村
ながおかむら
- 宮城県:岩沼市
- 長岡村
永正一七年(一五二〇)四月二日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に「名取長岡郷」とみえ、佐藤孫右衛門に今村治部少輔よりの買地である同郷内の年貢三貫二〇〇文の「つほの内半在家」、年貢一貫五〇〇文の「一宮在家一宇」が安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「なかをか」の段銭は五貫八〇〇文とある。
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
慶長一三年(一六〇八)以降津藩領。宝永二年(一七〇五)以降久居藩領となる(藤影記)。慶安郷帳の高五六二・二三石、慶安元年(一六四八)平高は六八八・八五二石で、寄人足は三八人が課せられていた(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)。
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 埼玉県:坂戸市
- 長岡村
長岡村
ながおかむら
とある。真壁氏本宗の当家大系図(真壁博氏蔵)の真壁朝幹の註記に永享一一年(一四三九)として庶子家とおぼしき長岡但馬守の名がみられる。慶長二年(一五九七)に麦田の検地が行われ、真壁郡麦田検地帳(彰考館蔵)には「長岡村(中略)合四畝四歩、右之麦四斗壱升三合、此内三ケ二引、残而壱斗三升七合御定納」とある。同一一年浅野氏領、元和八年(一六二二)笠間藩領となり、元禄一〇年(一六九七)の長岡村差出帳(長岡家文書)に高六四九・三石、田高四一八・九二六石、畑高二二七・五九石、無地高二・七八四石、本高六三五・六〇九石(慶安三年検地)、新開三・三〇二石(万治三年検地)、新開六・八五二石(寛文一三年検地)、新開〇・七五三石(延宝五年検地)、反別は六二町八反二五歩(田三一丁七反九畝一三歩・畑三一町一畝一二歩)、総人数四二五(男二一九・女二〇六)、本百姓八三軒(三六七人)・水呑二〇軒(五八人)とある。
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 群馬県:太田市
- 長岡村
長岡村
ながおかむら
- 栃木県:宇都宮市
- 長岡村
北は
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 山形県:南陽市
- 長岡村
長岡村
ながおかむら
文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に長岡村の名がある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には長岡新田村二六四石と記すが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤而新田出」とあり、絵図の新田は誤りとみられる。
寛永八年(一六三一)一一月、長岡村の地頭であった向帯刀(重政)に新墾地開墾の許可が与えられた。「梅津政景日記」寛永八年一一月一〇日条に「新城ノ内長岡村太はり谷地新開之事、本田之さハリに不罷成候ハヽ、鍬先次第ニ可被仰付候、付、鍬下の外よしかやにかまひ不申様ニ御申付尤ニ候」とあり、新田開発に積極的な藩の姿勢がうかがわれる。
長岡村
なおかむら
長岡村
ながおかむら
長岡村
ながおかむら
- 千葉県:八日市場市
- 長岡村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報