松平康隆(読み)まつだいらやすたか

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松平康隆」の意味・わかりやすい解説

松平康隆
まつだいらやすたか

[生]1930.1.22. 東京
[没]2011.12.31. 東京
バレーボール選手,監督。慶應義塾大学主将を務め,日本鋼管入社後 1954年から 1960年まで日本代表選手(当時 9人制)。1961年日ソスポーツ交流の第1号としてソビエト連邦コーチ留学し,6人制バレーボールを学んだ。帰国後,1964年東京オリンピック競技大会で男子チームのコーチを務めた。このときは銅メダルに終わったが,1965年に全日本男子監督に就任。「世界制覇 8年計画」を立て,大古誠司森田淳悟ら身長 1m90cm以上の長身選手を集めて大型化をはかるとともに,「Aクイック」「Bクイック」「一人時間差(→時間差攻撃)」など,速攻主体の日本式コンビネーションバレー確立に力を注いだ。その結果,1968年のメキシコシティー・オリンピック競技大会では銀メダル,1972年のミュンヘン・オリンピック競技大会では金メダルを取り世界の頂点に立った。その後日本バレーボール協会会長,アジアバレーボール連盟会長,国際バレーボール連盟 FIVB第1副会長などを務め,1998年にアジア初のバレーボール殿堂入り。2000年には FIVBから 20世紀男子最優秀監督に選ばれた。日本バレーボール協会名誉会長。アジアバレーボール連盟終身名誉会長。

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百科事典マイペディア 「松平康隆」の意味・わかりやすい解説

松平康隆【まつだいらやすたか】

全日本男子バレーボールチーム監督。東京都出身。慶応義塾大学法学部卒業。学生時代にはバレーボール部の主将を務め,1951年に全日本9人制選手権大会(天皇杯)で優勝。大学卒業後,日本鋼管(現,JFEホールディングス)に入社し,バレーボール選手として活躍した。6人制バレーを学ぶためのソ連留学や全日本男子コーチを経て,1965年に全日本男子監督となる。1968年のメキシコオリンピックでは銀メダル,1972年のミュンヘンオリンピックではセッターの猫田(ねこだ)勝敏,〈ビッグ3〉と呼ばれた大古(おおこ)誠司・森田淳悟・横田忠義らを擁して男子初の金メダルを獲得した。アジアバレーボール連盟会長,日本バレーボール協会会長,日本オリンピック委員会副会長兼理事,国際バレーボール連盟副会長などを歴任。監督としていわゆる速攻・移動・時間差などといった新しい攻撃パターンを築いた一方,バレーボールブームを盛り上げるためのPR活動にも熱心で,自ら企画・立案したテレビアニメ番組《ミュンヘンへの道》が人気を博したことでも知られる。こうした行動から〈スポーツ界のアイディアマン〉と呼ばれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平康隆」の解説

松平康隆 まつだいら-やすたか

1930-2011 昭和後期-平成時代のバレーボール指導者。
昭和5年1月22日生まれ。慶大では9人制バレーの選手。日本鋼管入社後,ソ連に留学し6人制をまなぶ。全日本男子チームのコーチとして39年東京五輪で銅メダル。40年監督となり,多彩なコンビ攻撃をあみだし,43年メキシコ五輪で銀,47年ミュンヘン五輪で金メダル。日本バレーボール協会会長,JOC強化本部長をつとめた。平成23年12月31日死去。81歳。東京出身。

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