板崎郷
いたがさきごう
鎌倉期より室町期にみえる郷村名で、当町域の一迫川右岸(南岸)の一帯に比定される。中世の文献によれば、相論となった刈敷郷とは南北に境するとあり、「刈敷村安永風土記」や明治期の字調書による刈敷村域は一迫川右岸から、一迫・二迫・三迫三河川の合流河川の同じく右岸沿いに長く延びている。このことから当郷は刈敷郷の南か、のちの刈敷村域の南部に位置したとも考えられる。
文永二年(一二六五)九月二三日の沙弥為蓮譲状(朽木文書)によれば「陸奥国栗原一迫内板崎郷地頭職」が、狩野為蓮(為時)より四女佐々木御前(藤原文殊)に譲られている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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