菩薩の一。サンスクリット語マンジュシュリーMañjuśrīの音訳〈文殊師利〉の略称。〈妙吉祥〉と意訳する。もと実在した人らしく,《文殊師利般涅槃経》にその伝が述べられている。般若思想に関係が深く,大乗諸経典に菩薩の上位者として登場する。普賢(ふげん)と組み合わされ,普賢が行(ぎよう)を象徴し,白象に乗るのに対し,文殊は知を象徴し,獅子に乗る。《華厳経》に文殊の住処は東北方にあるという文句があり,中国の五台山にあてる説が生まれた。
執筆者:定方 晟
すでに白鳳時代の法隆寺金堂壁画には,《維摩経(ゆいまぎよう)》所説により,智恵第一の菩薩である文殊が維摩と法論する場面が描かれているが,日本仏教で文殊信仰が興隆するのは,平安時代に入ってからである。中国では唐後期から山西省五台山に生身の文殊が住んでいるという信仰が盛んであり,838年(承和5)入唐した天台僧円仁は,この信仰に強い影響をうけて帰国し,861年(貞観3)比叡山に文殊楼を営み騎獅文殊像を安置した。密教修法の文殊八字法を初めて伝えたのも円仁で,12世紀に入ると文殊八字法は台密・東密を問わず息災法や安鎮法(鎮宅法)として重んじられるようになった。9世紀以後の文殊信仰のもう一つの大きな流れは,文殊会の発達である。文殊会とは,文殊が貧窮孤独の衆生に身を変えて,文殊を礼拝供養する行者の前に現れるとの《文殊般若経》の所説により,貧病者に布施する法会で,828年(天長5)太政官は諸国に対し毎年7月公費をもって行うよう命じた。文殊会は初め僧正勤操(ごんそう)と元興寺僧泰善の私的な催しであったが,これ以後公的法会となったという。10世紀の《延喜式》には文殊会料にあてる諸国の正税出挙稲数が規定されており,また《三宝絵詞》によると,京都では貴族社会の年中行事として,東寺と西寺に乞者を集めて盛大に行われていた。これら文殊会は律令国家の没落とともに衰退したが,13世紀には真言律宗によって再興された。鎌倉新仏教の進出に対し,律僧教団による旧仏教の再興を目ざす西大寺叡尊は,諸国を周遊し,貧病者救済の徹底した慈悲行を実践したが,その門弟忍性(にんしよう)は,深く文殊に帰依し,1240年(仁治1)額安寺西辺宿で文殊像供養の際,非人に布施を行った。この忍性の影響によって,西大寺教団は以後各地で文殊像供養と大規模な非人布施を実行した。
執筆者:速水 侑
釈迦の脇侍として普賢菩薩とともに三尊をなし,通例獅子の背に乗る姿で表される。智恵第一とされた文殊は,大乗経典中では,しばしば問答の際の対告衆として登場する。なかでも《維摩経》においては,維摩を見舞い問答することを説き,それを表した〈維摩変〉がある。敦煌壁画に多くの作例があり,日本では711年(和銅4)の法隆寺五重塔の塑造群像中に見いだされる。また〈華厳経入法界品〉においては,善財童子に南方遊行の指南を与える文殊が説かれており,東大寺に伝来した《善財童子絵巻》や《善財童子歴参図》中に認められる。さらに中国五台山がその住所とされて信仰を集めた文殊は,五尊形式の独特の像が五台山文殊として行われた。円仁によって日本にもたらされて延暦寺に文殊楼が建立され,以後五尊形式の文殊が広く制作された。なかでは快慶作安倍文殊院像,西大寺像が有名である。渡海の情景を描いた五尊形式の文殊があり,渡海文殊として絵画では醍醐寺本がよく知られる。一方,密教においては真言の数によって一字,五字,六字,八字の文殊があり,また髻(けい)の数によって一髻,五髻の文殊がある。胎蔵曼荼羅中台八葉院・文殊院などに見いだされる。このほか《金剛頂文殊儀軌》に説く像や,特殊な像として敦煌に見られる千臂千鉢文殊像がある。
執筆者:百橋 明穂
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