一迫(読み)いちはさま

日本歴史地名大系 「一迫」の解説

一迫
いちはさま

鎌倉期より近世にわたってみえる広域地名で、一迫川流域およびその本流迫川右岸の一帯を称した。現花山はなやま村・一迫町栗駒くりこま町・築館つきだて町・志波姫しわひめ町・若柳わかやなぎ町、玉造たまつくり鳴子なるこ町に及ぶ。迫は山や丘陵に挟まれた地の意で、栗駒山に発する一迫川・二迫にのはさま川・三迫さんのはさま川のそれぞれの流域およびこれらを集める迫川流域にわたる地域を一迫・二迫・三迫と称した。

「吾妻鏡」文治五年(一一八九)八月二一日条に、源頼朝軍が藤原泰衡を追って平泉に向かったが、泰衡の郎従が「栗原三迫等要害」で防衛線を引いていたとあり、一迫・二迫の名もすでにあったものと考えられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一迫」の意味・わかりやすい解説

一迫
いちはさま

宮城県北部、栗原郡(くりはらぐん)にあった旧町名(一迫町(ちょう))。現在は栗原市の中南部を占める地域。旧一迫町は、1923年(大正12)町制施行。1955年(昭和30)金田村、長崎村、姫松村(一部)と合併。2005年(平成17)築館(つきだて)、若柳(わかやなぎ)、栗駒(くりこま)、高清水(たかしみず)、瀬峰(せみね)、鶯沢(うぐいすざわ)、金成(かんなり)、志波姫(しわひめ)の8町および花山村(はなやまむら)と合併して市制施行し、栗原市となった。一迫川とその支流長崎川流域に水田が広がる。国道398号、457号が通じる。室町時代末には大崎氏の支配下にあった。江戸時代末には伊達(だて)家の重臣白河、上遠野(かどおの)、遠藤の各氏が居住し、真坂(まさか)、川口には宿場が置かれていた。縄文晩期の山王囲遺跡(さんのうがこいいせき)は国の史跡で、周辺は史跡公園として整備されている。鹿踊(ししおどり)は県指定の無形民俗文化財。

[後藤雄二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一迫」の意味・わかりやすい解説

一迫
いちはさま

宮城県北部,栗原市南西部の旧町域。一迫川と長崎川の流域に広がる。 1923年町制。 1955年金田村,長崎村の2村および姫松村の一部と合体。 2005年築館町,若柳町,栗駒町,高清水町,瀬峰町,鶯沢町,金成町,志波姫町,花山村と合体して栗原市となった。中心地区の真坂は一迫川の谷口地区で,流域の商業の中心地。登米街道および羽後街道の交差点でもあり,仙台藩時代には交通の要地であった。主産業は米作を中心とした農業。一迫川と長崎川の合流点付近に山王囲遺跡 (国指定史跡) がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「一迫」の意味・わかりやすい解説

一迫 (いちはさま)

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