柳川平助(読み)ヤナガワ ヘイスケ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「柳川平助」の解説

柳川 平助
ヤナガワ ヘイスケ


肩書
法相

旧名・旧姓
旧姓=楠木

生年月日
明治12年10月2日

出身地
佐賀県

学歴
陸士〔明治33年〕卒 陸大〔明治45年〕卒

経歴
騎兵第13連隊付となり、明治37年日露戦争に従軍。大正4年陸大教官、7年北京陸大教官、9年国際連盟に派遣。12年騎兵第12連隊長、14年参謀本部課長、昭和2年騎兵第1旅団長となり第1次山東出兵に参加。4年騎兵学校長、6年中将。7年陸軍次官、9年第1師団長、10年台湾軍司令官、11年予備役。12年日中戦争召集、第10軍司令官となり、杭州上陸作戦を指揮。13年興亜院総務長官、15年第2次近衛文麿内閣司法相、16年第3次近衛内閣国務相、のち大政翼賛会副総裁を歴任著書に「日本心―覆面将軍柳川助清談」。

没年月日
昭和20年1月22日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「柳川平助」の解説

柳川 平助
ヤナガワ ヘイスケ

明治〜昭和期の陸軍中将 司法相。



生年
明治12(1879)年10月2日

没年
昭和20(1945)年1月22日

出身地
佐賀県

旧姓(旧名)
楠木

学歴〔年〕
陸士〔明治33年〕卒,陸大〔明治45年〕卒

経歴
騎兵第13連隊付となり、明治37年日露戦争に従軍。大正4年陸大教官、7年北京陸大教官、9年国際連盟に派遣。12年騎兵第12連隊長、14年参謀本部課長、昭和2年騎兵第1旅団長となり第1次山東出兵に参加。4年騎兵学校長、6年中将。7年陸軍次官、9年第1師団長、10年台湾軍司令官、11年予備役。12年日中戦争で召集、第10軍司令官となり、杭州上陸作戦を指揮。13年興亜院総務長官、15年第2次近衛文麿内閣司法相、16年第3次近衛内閣国務相、のち大政翼賛会副総裁を歴任。著書に「日本心―覆面将軍柳川助清談」。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳川平助」の解説

柳川平助 やながわ-へいすけ

1879-1945 明治-昭和時代前期の軍人
明治12年10月2日生まれ。騎兵第一旅団長などをへて,昭和7年陸軍次官。のち第一師団長,台湾軍司令官をつとめる。陸軍中将。第2・第3次近衛内閣の法相,国務相。大政翼賛会副総裁。昭和20年1月22日死去。67歳。長崎県出身。陸軍大学校卒。旧姓は楠木。

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367日誕生日大事典 「柳川平助」の解説

柳川 平助 (やながわ へいすけ)

生年月日:1879年10月2日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人。中将
1945年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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