1937~45年に日本と中国の間で起きた戦争。旧日本軍は31年、奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖で線路を爆破し、それを口実に軍事行動を起こした。32年、かいらいの「満州国」を中国東北部に建国。37年に北京郊外の盧溝橋近くで銃撃を受けたとして全面戦争に突入した。中国は旧日本軍の戦死者(40万人以上)をはるかに上回る甚大な犠牲を払った。
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1937年(昭和12)7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まり、1945年8月日本の降伏で終わった、日本と中国との全面戦争。日中十五年戦争という場合は、1931年9月の満州事変を起点とする。中国では一般に抗日戦争とよぶが、第二次中日戦争という言い方もある。
日中戦争は、第二次世界大戦の東アジアにおける導火線であり、一貫してこの大戦の重要部分を占めた。
[安井三吉]
1937年7月7日の盧溝橋事件が発火点であるが、当初「北支事変」と称したように、日本にとり局地的解決の機会は何度もあった。しかし、一撃で中国を降伏させる、あるいは、「膺懲(ようちょう)」のために増派せよという拡大論が政府、軍部、マスコミをリードし、ずるずると全面戦争へと進んでいった。杉山元(はじめ)陸相などは「1か月ぐらいでかたづく」といっていたが、それは中国の抗戦力を完全に見誤るものであった。日本は7月11日の「華北派兵声明」に基づき、朝鮮、満州から送り込んでいた部隊に加え、同月末さらに日本から増派した3個師団をもって北平(ペイピン)(北京(ペキン))、天津(てんしん)一帯を一挙に制圧した。即時抗戦を主張する中国共産党に対し、なお和平に賭(か)けていた国民党政府の蒋介石(しょうかいせき)も、ついに29日、「最後の関頭」(和平が絶望的となり、抗戦の避けられない事態)に至ったことを表明した。8月9日、大山中尉事件(海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が上海(シャンハイ)の虹橋(こうきょう/ホンチャオ)飛行場付近で中国の保安隊に射殺された事件)が起こるや、日本は上海一帯にも続々と部隊を投入、13日ついに交戦状態に突入、上海事変(第二次)を起こすに至った。
[安井三吉]
8月14日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌15日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。日本も同日、上海派遣軍を編成する一方、戦争宣言ともいうべき「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表、ついに全面戦争へと踏み切り、9月2日には「北支事変」の呼称を「支那(しな)事変」と改めた。
他方、ソ連は8月21日国民政府と「中ソ不可侵条約」を結び、武器・弾薬の援助に乗り出すが、米・英の日本に対する態度は、この時点ではきわめて宥和(ゆうわ)的なものであった。この間、国共間の合作態勢は急速に進み、8月、華北の紅軍は国民革命軍の八路(はちろ)軍に改編され、前線に出動した(華中の紅軍は10月新四軍に改編)。9月陝甘寧(陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)・寧夏(ねいか))辺区労農政府も陝甘寧辺区政府と改称、同月下旬中国共産党は第二次国共合作と抗日民族統一戦線の成立を宣言した。「蒙疆(もうきょう)」(察哈爾(チャハル)・綏遠(すいえん)地方)に入った関東軍は、大きな抵抗も受けず、8月末張家口(ちょうかこう)、9月大同、10月綏遠、包頭(パオトウ)を占領、11月張家口に傀儡(かいらい)組織蒙疆連合委員会を組織した。華北では、8月31日北支那方面軍が編成され、平型関(へいけいかん)で敗北したものの、9月保定(ほてい)、11月太原(たいげん)、12月済南(さいなん)と占領地を拡大、同月、北平に傀儡政権中華民国臨時政府をつくった。華中では、中国側の激しい抵抗を受け、11月上海を占領したときには、日本軍の戦死傷者は4万に達していた。同月7日中支那方面軍が編成され、12月南京(ナンキン)を占領した。このとき日本軍は大虐殺事件を引き起こした。この事件で「二十万を下らない中国軍民の犠牲者が生じた」(洞富雄(ほらとみお)著『決定版南京大虐殺』)との説もある。この事件は国際世論の厳しい批判を招き、中国の抗戦意識を一段と高めるものとなった。国民政府は11月すでに首都を南京から重慶(じゅうけい)に移しており、南京占領によって中国を屈服させるという日本の当初の企図は実現しなかった。しかし南京占領、臨時政府の成立をみた日本は、1938年1月、ドイツの駐華大使トラウトマンを仲介にして進めていた和平工作を打ち切り、同16日「爾後(じご)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」という同政府「抹殺」の第一次近衛(このえ)声明を発表するなどして、交渉による解決の道を自ら閉ざした。2月には中支那派遣軍が編成され、3月南京に傀儡政権中華民国維新政府を樹立した。「戦面不拡大」の方針とは裏腹に、同月台児荘(たいじそう)で敗北するや、5月徐州(じょしゅう)、10月武漢(ぶかん)、広州(こうしゅう)をも攻略、戦線を揚子江(ようすこう)中流、華南にまで拡大した。
[安井三吉]
1年余の間に日本軍は、中国の主要都市と交通路のほとんどを占領したが、それはいわば「点と線」の支配にすぎず、広大な農村や四川(しせん)省などの奥地は支配できなかった。戦線は延び切り、これ以上大規模な作戦を展開する力は乏しくなっていた。そこで日本軍は占領地確保に重点を置き、兵力漸減の方向を打ち出すが、その実行は困難であった。他方中国側にも、全面的反攻に出るだけの力はまだ形成されていなかった。こうして軍事的均衡に至り、戦争は持久戦となった。
1938年11月、日本は国民政府否認を改め、「東亜新秩序」形成を提唱する第二次近衛声明を発表した。軍事的解決の見通しがたたない以上、日本には政治工作によって戦争収束を図るしか道はなくなっていた。すでに日本は、臨時政府、維新政府などを軍の力でつくりあげていたが、これらの政府に加わった者は中国人の支持を得られるような人物ではなかった。そこで、国民党親日派の大物汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から「脱出」させ、1940年3月南京に「中華民国国民政府」を樹立させた。これに先行して、1939年9月「軍事及び政治工作を統轄し、汪政権樹立工作、他方での重慶工作を促進するため」(防衛研修所戦史室著『北支の治安戦1』)支那派遣軍総司令部が設置されている。汪は、国民党の旗を掲げ、三民主義を信奉、孫文(そんぶん)の継承をうたったが、日本の傀儡政権であることに変わりなく、中国人は彼らを「漢奸(かんかん)」(民族の裏切り者)とさげすみ、その打倒をねらった。日本は汪政権と1940年11月「日華基本条約」なるものを結び、戦争解決を企図したが、この政権は中国の国民を代表し実力をもつ政権ではなかったから、それはまったくの徒労に終わった。
[安井三吉]
中国共産党は1940年の百団大戦などを例外とし、主として遊撃戦術を駆使して日本軍と戦いつつ、解放区を建設、拡大していった。解放区は抗日民族統一戦線の模範地域とすることが目ざされた。農民を主体としたひとりひとりの民衆の立ち上がりが、中国の抗戦力の奥深い源泉であった。日本軍は、正規軍との戦いのほか、このような広範な人々と対決しなければならなかった。解放区は、1941年から翌年にかけて、殺し尽くす(殺光)、焼き尽くす(焼光)、奪い尽くす(搶光(そうこう))の三光政策を伴った日本軍の激しい攻撃と国民党軍の締め付けにより、一時大幅な縮小を余儀なくされた。しかし、解放区は1945年春には、全部で19、面積約100万平方キロメートル、人口約1億を擁するまでに発展した。この間、毛沢東(もうたくとう)の「新民主主義論」(1940年1月)の発表などがあり、解放区では、中国共産党の物的・人的な基盤が形成されていった。
[安井三吉]
比較的順調だった国共関係にも、武漢喪失(1938年10月)前後からさまざまな矛盾、対立が表面化する。国民党に対する日本の政治工作に加え、解放区拡大など中国共産党の勢力拡大に国民党が危惧(きぐ)を抱き始めたためである。1939年以降国民党は、中国共産党の活動に対する制限を強め、武力弾圧すら惹起(じゃっき)した。その最大の事件は1941年1月の皖南(かんなん)事件(安徽(あんき)省南部で国民党軍が新四軍を襲撃した事件)であった。このときは、中国共産党が国民参政会への出席を一時拒否するなど国共関係は著しく悪化したが、かつてのような全面内戦の状態に戻ることはなかった。
[安井三吉]
日中戦争の泥沼からの脱出を、日本は「南進」に求めた。ヨーロッパにおけるドイツ軍の電撃的勝利は、このような方向に弾みを与えた。1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。このときすでに日本は、中国との戦いで戦死者約18万、戦傷病者約43万を出していた。
太平洋戦争の初戦における勝利は華々しかったが、早くも1942年6月、ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うという大敗北を喫した。米・英との戦端を開くや日本は、中国戦線から兵力の一部を引き抜いて南方へ転出させなければならなくなり、中国に対する軍事的勝利の可能性はいよいよ遠のいていった。日本は、中国の豊富な資源を米・英との戦いに動員し、中国を「大東亜戦争」の兵站(へいたん)基地化した。一方、日米交渉の最後の焦点が、日本軍の中国からの全面撤収にあった(ハル・ノート)ように、開戦前後から米・英は中国支持を明確化し、ビルマ・ルートなどの援蒋ルートを通じて国民政府に対する軍事援助を本格化させた。
[安井三吉]
揚子江中流の要衝宜昌(ぎしょう)への攻撃、重慶・成都(せいと)への空爆(1940)、華北での中原(ちゅうげん)会戦(1941)、華中での長沙(ちょうさ)作戦(1941~1942)、浙贛(せっかん)作戦(1942)、そして大陸打通(だつう)作戦(1944)など、日本はなお幾度かの大規模な作戦を試みたものの、ついに中国を屈服させることはできなかった。それは、長期にわたった中国の人々の抗戦を基礎に、ソ連・米・英の援助、さらに解放区・国民党地区での日本人の反戦運動、朝鮮人の抗日闘争などの国際的支援があったからである。そして1945年8月、アメリカの2発の原爆投下、ソ連・モンゴル軍の参戦により、日本はついに降伏した。降伏文書の調印は9月2日行われたが、中国では翌3日を「抗日戦争勝利記念日」としている。支那派遣軍は9月9日南京で、第10軍は10月25日台北でそれぞれ中国軍に投降した(関東軍は極東ソ連軍に投降)。こうして中国の日本軍約200万はすべて降伏した。中国(満州・台湾を含む)に展開した日本軍の戦死者は約54万人に達した。「満州国」と南京の「中華民国」は、日本降伏とともに崩壊した。植民地台湾、澎湖(ほうこ)列島、租借地関東州はすべて中国に返還された。中国に渡った約200万の一般日本人も、そのほとんどが帰国することになった(ソ連の対日参戦後、満州において、戦闘、襲撃、病気、飢餓、自殺などにより亡くなった日本人は約18万人である)。こうして、1894~1895年(明治27~28)の日清(にっしん)戦争以来の中国に対する侵略と植民地支配の歴史に終止符が打たれたのである。
[安井三吉]
勝利した中国も、1000万の生命を奪われ、500億ドルもの物的損害を被った(沈鈞儒(しんきんじゅ)「関於戦争罪犯的検挙和懲罰」1951年9月)、といわれる。約4万もの中国人が労働力不足を補うために強制的に日本に連行された。台湾では、日本語使用の強要、姓名の日本式化(改姓名)など皇民化政策が進められ、何万という人々が「大東亜戦争」に日本兵として動員された。「満州国」でも、「五族協和・王道楽土」の掛け声の下で、中国人に対する民族的抑圧と差別が行われた。関東軍「七三一」石井特殊部隊による生体実験などはその代表的な一例であった。
中国革命により、台湾に逃れた蒋介石政権との間に、日本は1952年(昭和27)4月「日華平和条約」を結んだが、日本と中華人民共和国との間に「戦争状態の終結」が宣せられるのは、1972年9月29日の「日中共同声明」においてであった。戦闘が終わって27年もの後のことである。
[安井三吉]
『日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道3・4』(1962、1963・朝日新聞社)』▽『臼井勝美著『日中戦争』(1967・中公新書)』▽『歴史学研究会編『太平洋戦争史』全6巻(1971~1973・青木書店)』▽『秦郁彦著『日中戦争史』(1972・河出書房新社)』▽『伊藤隆著『十五年戦争』(『日本の歴史30』1976・小学館)』▽『藤原彰著『太平洋戦争史論』(1982・青木書店)』▽『藤原彰著『日中全面戦争』(『昭和の歴史5』1982・小学館)』▽『江口圭一著『十五年戦争の開幕』(『昭和の歴史4』1982・小学館)』▽『木坂順一郎著『太平洋戦争』(『昭和の歴史7』1982・小学館)』▽『島田俊彦・稲葉正夫・臼井勝美他編『現代史資料 日中戦争1~5』全5巻(2004・みすず書房)』
1937年(昭和12)から45年までおもに中国大陸で戦われた日本と中国との全面戦争で,太平洋戦争が起こるとその一環となった。その結果,明治以来の日本の植民地帝国が崩壊したばかりでなく,東アジアの情勢も大きな変革をとげた。
日本は1931年以来武力によって中国を大規模に侵食し,そこを足場に中国の独占をめざす政策を推し進めた。まず満州事変を起こして〈満州国〉をつくり東北4省を日本の支配下におき,ついで35年には長城線の南の華北5省を第2の〈満州国〉にしようと華北工作を開始した。おりからヨーロッパではナチス・ドイツとファシズム・イタリアとが対外侵略を始めたが36年末には日独防共協定が結ばれ,ファシズム諸国の提携がすすんだ。華北とくに内蒙古は対ソ戦のための重要地点でもあった。蔣介石を中心とした中国国民政府は,まず共産軍を掃討したあと日本に当たるという〈安内攘外〉策をとり,日本の侵略に対して妥協的だったが,中国共産党は抗日統一戦線を提唱し,民衆の間にも内戦停止・一致抗日を求める運動が広がった。これに対して日本は日中提携・満州国承認・共同防共の広田三原則を中国に押しつけようとしたが,中国では国民政府による国内統一の進展と抗日救国運動の高揚を背景に36年末,西安事件を機として内戦停止が実現した。日本でも中国政策の再検討が叫ばれ,林銑十郎内閣の佐藤尚武外相は国民政府による中国統一を認める方向で国交改善を図り,陸軍でも参謀本部の石原莞爾(かんじ)作戦部長らは生産力拡充のため戦争を避け日中経済提携をすすめようとした。だが他方で中国統一の進展に危機感をつのらせ強硬外交を主張する動きも関東軍を中心に有力だった。
1937年7月7日夜に蘆溝橋事件が起こると,局地的解決を図ろうとする不拡大派とこの機に一撃を与えて中国を屈伏させようとする拡大派とが対立したが,近衛文麿内閣は華北派兵を声明して後者の道を選んだ。7月末には日本軍は華北で総攻撃を開始した。8月に戦火が上海に飛ぶと近衛内閣は中国に対する全面戦争に踏み切り,〈北支事変〉を〈支那事変〉と改称した。南京爆撃や中国沿岸の封鎖も開始された。しかし宣戦布告はなされなかった。アメリカからの武器・軍需品の輸入に支障が生ずるのを恐れたのである。8月末には北支那方面軍(司令官寺内寿一)が編成され,おもに鉄道沿いに南下したが,山西省への進撃では,平型関などで民衆を動員した中国軍に苦杯をなめさせられた。上海では中国軍がクリークを利用した堅固な陣地によって頑強に抗戦し,日本軍は甚大な損害を出し,11月に柳川平助兵団が杭州湾に上陸してようやく中国軍を後退させた。日本軍はこれを急追撃して12月13日に省都南京を占領したが,南京大虐殺事件を引き起こして世界の非難を浴びた。
この間に中国の提訴で,国際連盟総会は日本の中国都市爆撃非難の決議と,日本の行動が中国に関する九ヵ国条約と不戦条約への違反だとする決議とを採択した。11月にはブリュッセルで九ヵ国条約国会議が開かれたが,実効ある対策はとられず,中国を失望させた。ソ連だけがいちはやく中ソ不可侵条約を結んで中国を援助した。トラウトマン中国駐在ドイツ大使の仲介で和平交渉も始まったが,南京が陥落すると日本の要求はふくれあがった。中国の回答が遅れると近衛内閣は交渉を打ち切り,〈爾後国民政府を対手とせず〉と声明した。占領地には日本軍の指導で蒙疆連合委員会(1937年11月22日蒙古連盟,察南,晋北の自治政府が連合して成立),華北の中華民国臨時政府(1937年12月14日王克敏を行政委員長として成立),華中に中華民国維新政府(1938年3月28日梁鴻志(りようこうし)を行政院長として南京に成立)がつくられたが,旧軍閥時代の政治家を中心とする傀儡政権にすぎなかった。中国はまもなく活発な抗戦に出て,1938年4月には山東省南部の台児荘で日本軍を後退させて大勝利を宣伝した。日本軍は南北から徐州作戦を開始し,5月には徐州を占領したが,兵力の不足から対ソ作戦用師団の転用を余儀なくされ,中国軍の包囲には失敗した。
日中戦争が起こるとすぐ政府は各界に〈挙国一致〉の協力を求め,国民精神総動員運動(1937年9月9日内閣訓令)を発足させた。1937年9月の第72臨時議会では臨時軍事費特別会計が設置され,年間予算とほぼ同額の戦費が計上され,軍需工業動員法が発動され,輸出入品等臨時措置法等が制定された。すでに国際収支が悪化し重要物資の輸入が制限されたため〈物の予算〉が必要となり,38年1月には物資動員計画が発足した。同年の第73通常議会では国家総動員法が成立し,政府は議会の同意なしに広範な経済統制を行う権限を握った。だがまもなく軍需拡大や輸出減退のため日本は経済危機に直面した。5,6月には近衛内閣は大改造を行い,新任の宇垣一成外相,池田成彬蔵・商相(兼任),板垣征四郎陸相を加えた5相会議を発足させ,日中戦争の年内解決をめざした。経済統制が強化され,輸入物資はすべて軍需と輸出用に振り向けられ,民需向け綿製品は姿を消し,鉄材の使用制限から2年後のオリンピックと万国博も中止された。宇垣外相は国民政府行政院長孔祥煕(こうしようき)との和平工作を開始したが失敗に終わり,興亜院(対華中央機関)の新設に反対して9月末辞職した。大規模な漢口作戦も実施され,10月には日本軍は武漢三鎮を占領し,ミュンヘン会談などでイギリス,フランスが苦境に立ったのに乗じて広東も占領した。中国は主要開港地を奪われて苦境に立ったが首都を重慶に移して抗戦を続けた。
日本軍の進攻作戦は限界に達し,日本は80万の大軍を釘付けにされたまま長期戦の泥沼に引き込まれた。日本軍は点と線,つまり都市と鉄道とを握っただけで,その後方では中国共産党の指導で解放区が拡大し,戦況は年を追って不利となった。11月には近衛内閣はこの戦争の目的は東亜新秩序建設にあるとして中国にも協力を求める声明を出し,12月に日本軍の防共駐屯等の国交調整方針を示したいわゆる近衛声明を発表した。国民党副総理汪兆銘はこれに呼応して重慶を脱出し対日和平を提唱した。しかしこれに呼応する軍閥もなく,国民政府を切り崩せなかった汪一派に対する日本の態度は冷たかった。日本は占領地の経済的独占を図り,三井,三菱,住友等の大財閥にも出資させて北支那開発,中支那振興の二大国策会社を11月に設立し,交通・鉱山等重要事業を握った。イギリス,アメリカが日本の行動は門戸開放・機会均等を約した九ヵ国条約違反だと抗議し,揚子江の開放を要求したが,有田八郎外相は,事変前の観念や原則は現在の事態には適用できないと突き放した。
39年に入るとドイツがチェコスロバキアを解体し,大戦の危機が迫った。日本では日独伊三国同盟をめぐる支配層内部の対立が続いた。日本軍が占領地支配の障害になるとして天津英仏租界を封鎖してイギリスに圧力をかけると,アメリカは7月に日米通商航海条約の廃棄を通告した。つづくノモンハン事件,独ソ不可侵条約で日本が国際的に孤立するなかで9月にヨーロッパで第2次大戦が起こると,阿部信行内閣は〈欧州戦に介入せず支那事変解決に邁進(まいしん)する〉と声明した。陸軍は日中戦争を迅速に処理して大戦の拡大に対応しようと支那派遣軍総司令部(総司令官西尾寿造,総参謀長板垣征四郎)を新設。日本軍は抗戦中国への補給路遮断のため南寧作戦を実施したが,中国軍は冬季反攻に出て日本軍を苦しめた。
日本の経済危機も深刻化した。1939年夏は日照りと労働力不足とで電力不足,石炭不足に見舞われ産業活動は低下した。凶作が引き金で米不足が起こり,生活必需品の不足が広がった。これに第2次大戦による輸入困難も加わってインフレは増進した。社会不安は激化し,40年1月には阿部内閣は退陣に追い込まれた。2月には衆議院で斎藤隆夫代議士が歴代内閣の戦争方針を批判し,憤慨した軍部の圧力で〈聖戦〉冒瀆(ぼうとく)だとして除名されたが,この事件は国民の間の日中戦争批判や厭戦(えんせん)気分の高まりを示した(反軍演説問題)。
1940年5月にドイツが電撃戦を開始してめざましい成功を収めると,日本ではこれに呼応する武力南進論が高まった。まずイギリス,フランスの苦境につけこんで中国への補給路封鎖を要求し,北部フランス領インドシナに軍事監視団を駐留させ,イギリスには向こう3ヵ月間ビルマ・ルートを閉鎖させた。日本軍は重慶爆撃を強化して国民政府を屈伏させようとし,国民政府も動揺した。だが第2次近衛内閣が9月に日独伊三国同盟を結び,3月に成立した汪政権と11月に日華基本条約を結びこれを承認すると,アメリカ,イギリスは中国援助に積極的にのりだし,中国を含めた連合国の結束は強化された。日本は日中戦争によってアメリカ,イギリスとの対立を深め,枢軸国と連合国との世界的対立へと引き込まれたのである。この夏に八路軍は百団大戦を行い日本軍に打撃を与えたが,他方で国共対立も激化し,日本軍は41年7月から残虐な三光政策を用いて解放区の根拠地の封鎖と掃討を推進した。
1941年4月には日米交渉が極秘で開始されたが,6月の独ソ開戦ののち日本軍の南部仏印進駐,アメリカ,イギリス,オランダ3国の日本資産凍結と対日石油輸出禁止,と情勢は緊迫した。近衛首相は中国からの部分的撤兵による切抜けを図ったが,東条英機陸相は強硬に反対して政変となり,東条内閣が成立した。11月にアメリカは日本に〈満州国〉を含む全中国からの撤兵を求めるハル・ノートを手交し,日本はこれを拒否して太平洋戦争に突入した。中国も12月9日に日独伊3国に宣戦を布告した。日本軍は直ちに中国の外国租界と香港を占領し,重慶攻撃も計画したが,ガダルカナル戦の悪化で中止された。43年1月には汪政権と租界還付,治外法権撤廃を約し,汪政権はアメリカ,イギリスに宣戦した。アメリカ,イギリス両国も中国と特権撤廃の新条約を結んだ。中国はようやく不平等条約の打破に成功したのである。11月には蔣介石主席はF.ローズベルト・アメリカ大統領,チャーチル・イギリス首相とカイロ会談を行い,台湾・澎湖島の中国返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏をめざすカイロ宣言を発表した。
マリアナ敗戦で1944年7月に東条内閣は倒れ,小磯国昭内閣が成立すると,最高戦争指導会議は〈満州国〉の存立だけを条件に中国と和平する方針を決めた。おりから中国では国民政府軍の戦意が急激に低下し,アメリカ,イギリスはそのてこ入れもあってB29の中国配備をすすめた。日本軍は4月から京漢,粤漢両線打通の大作戦を開始し,11月には広西省の桂林,柳州をも占領した。しかし,B29は四川省の成都に進出し,6月にはサイパン島上陸に呼応して北九州爆撃を開始したのである。その後アメリカ軍は太平洋方面からの日本攻撃を強化し,中国のB29もマリアナ基地に移った。だが中国でも45年に入ると新編成の中国軍はアメリカ空軍の援護をうけて反撃力を強め,4月からの日本軍の芷江(しこう)(湖南省南西部)作戦はみじめな失敗に終わった。日本軍はアメリカ軍の上陸と対ソ戦に備えて兵力の上海,武漢,北京付近への集中と,満州への移動とを開始した。7月26日にはポツダムでトルーマン,チャーチルと蔣介石による米英中共同宣言が発表され,日本に降伏を呼びかけた。鈴木貫太郎首相が黙殺と談話すると,アメリカ軍は8月6日に原子爆弾を広島に投下し,8日にはソ連が日本に宣戦して9日から満州への進撃を開始した。日本政府は14日にポツダム宣言を受諾して降伏し,日中戦争を含めて太平洋戦争は日本の敗北で終りを告げた。
8月15日に蔣介石は〈怨みに報ゆるに怨みを以てするなかれ〉と日本人民への寛容を説いた。これに先立って延安の朱徳総司令は八路軍と新四軍に近辺の日本軍の武装解除を命令したが,蔣介石は日本軍に国民政府軍の到着を待ち,それまで所在地の秩序維持にあたるよう命令したため,しばらく局地的な軍事行動が続いた。連合国最高司令部は東北を除く中国,台湾と北緯16°以北のフランス領インドシナの日本軍は蔣介石に降伏することを指令し,アメリカ軍は南西の奥地にある国民政府軍の空輸にあたった。9月9日には岡村寧次支那派遣軍総司令官が南京で降伏文書に調印した。当時の支那派遣軍の総兵力は105万人に達していた。日中戦争による日本軍の死者は41万人,戦傷病者は92万人であるが,中国のうけた被害ははるかに甚大で,軍人の死者130余万,戦傷病者約300万人,民間人の死傷者は約2000万人にのぼる。8年余にわたる中国の抗戦は,日本帝国主義に大打撃を与え,日本を敗北させ東アジアを解放するうえで最も重要な役割を担った。
1949年10月の中華人民共和国の成立後の51年9月にはサンフランシスコ対日平和会議が開かれ,対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が調印された。日本はこれによって台湾,澎湖島に対する一切の権利と中国におけるすべての特殊権益とを放棄したが,中華人民共和国も台湾の国民政府も会議には招かれなかった。52年4月に吉田茂内閣は台湾の国民政府と日華平和条約を結んだが,72年9月には田中角栄首相が訪中して日中国交正常化の共同声明に調印し,日本政府は日華平和条約は終了したと発表した。翌年1月には大使が交換され,78年8月に日中平和友好条約が調印された。
→抗日戦争 →太平洋戦争
執筆者:今井 清一
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1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件に端を発し,45年まで8年間続いた日本と中国の全面戦争。関東軍にはかねてから満州(中国東北部)に隣接した中国北部を親日独立政権支配下にくみこむ意図があった。長城以南進出の地歩を築いた塘沽(タンクー)協定,北支自治工作につながる梅津・何応欽(かおうきん)協定などはその現れである。国民政府が失地満州の回復と華北の中央化をはかると,関東軍・天津軍は冀東(きとう)防共自治委員会を設置し,軍事力を背景に権益保持をはかった。こうしたなかで,天津軍豊台(ほうだい)分遣隊と宋哲元率いる第29軍の一部とが盧溝橋で衝突した。7月11日,日本政府は事件不拡大・局地解決の方針を決定し,満州・朝鮮・内地から派兵できる態勢を整えた。この決定は政府内の不拡大論と拡大論の対立を反映したものであった。同日,政府は事件を北支事変と呼称する旨を発表し,7月27日には内地3個師団の動員実施を決定して,ここに日中両軍の衝突は全面戦争へと発展した。戦線の上海への拡大に応じて,9月2日支那事変と改称。中国は中ソ不可侵条約の締結,中国共産党軍の八路軍編入などで全面抗戦の態勢を整え,日本も,内閣参議制・企画院・大本営などの諸機構を整備した。しかし,12月12日のパネー号・レディバード号両事件は英米の疑惑をまねき,翌日の南京入城の際の南京虐殺事件では強い国際的非難を浴びた。首都陥落後も国民政府の抗戦姿勢は衰えず,ドイツを介したトラウトマン和平工作も失敗したため,日本は38年1月16日「国民政府を対手とせず」と声明し,以降は占領諸地域に傀儡(かいらい)政権を樹立する方針に転換した。38年中には南北作戦連結のための徐州作戦,国民政府の拠点攻略のための武漢作戦,補給路遮断のための広東作戦などが展開されたが,39年からは持久態勢に移行。日独伊三国同盟と南進は太平洋戦争に至る重大な要因であるが,日米交渉での最大の争点は中国からの撤兵問題であった。撤兵に同意しない軍部の反対で交渉は決裂し,太平洋戦争に突入した。中国全土を戦禍にまきこんだ戦争は,45年8月15日のポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏,9月2日の降伏文書署名によって終結した。支那事変の名称は戦後日華事変と改められたが,のち日中戦争の名称が定着してきた。
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1937年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件から45年8月の日本の敗戦まで,日中間で戦われた戦争。中国では中日戦争,抗日戦争などという。日本ではかつて戦争当初を北支事変,上海事変以後を支那事変と称し,41年12月以後は大東亜戦争の一部としていた。戦争として規定していないが,日中戦争と呼ぶのが適当であろう。満洲事変以来の日本の対中侵略はしだいに中国人の抵抗を強め,盧溝橋事件を引き起こした。日本軍は華北から兵火を華中,華南へと拡大したが,国民政府を屈服させることができなかった。その間,共産党軍は国民党軍の放棄した地域に進出していった。38年武漢作戦から太平洋戦争が始まるまでは,戦局はほとんど膠着し,長期化の様相を示した。共産党は解放区を確立,拡大していき,国民党は対日作戦より共産党対策を重視し,しばしば共産党軍との武力衝突を起こした。一方,国民党の一部は日本側に降って南京政府を樹立した。太平洋戦争勃発後,情勢は著しく変化した。一時苦境に陥った共産党は延安整風運動によって強化され,国共関係は好転のきざしがなかった。しかし,日本軍の占領地の経済,政治は混乱し,連合国の中国大陸利用作戦も進んだ。日本は大陸打通(だつう)作戦を行って戦局の挽回を図ったがついに成功せず,敗戦を迎えることとなった。
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…1937‐45年の日中戦争を中国ではこう呼ぶ。たんなる2国間の戦争としてではなく,民族革命戦争として中国革命の過程に位置づけられている。…
※「日中戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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