柳田館跡(読み)やなぎだたてあと

日本歴史地名大系 「柳田館跡」の解説

柳田館跡
やなぎだたてあと

[現在地名]紫波町片寄

片寄かたよせの北西部、奥羽山脈に連なる丘陵東端(標高二一八メートル、比高五八メートル)に位置。眼下滝名たきな川流域はもとより紫波地方全域が一望のもとに広がる。吉兵衛きちべえ館・今崎いまさき城・片寄城・中野なかの館とも称される。室町時代には斯波氏の家臣片寄吉兵衛の居館と伝え、戦国時代末期には南部氏の重臣中野修理亮康実(高田吉兵衛ともいう)の居館といわれる。康実は天正一六年(一五八八)の南部信直による斯波氏攻略において、最大の功労者とされ、「郷村古実見聞記」に「紫波没落後、信直公中野修理へ被仰けるは、今度之働き偏に汝か大功也とて、片寄村にて三千石を給る」とあり、当館を本城として郡山こおりやま(高水寺城の後身)の初代城代を勤めたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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