片寄村
かたよせむら
[現在地名]紫波町片寄
滝名川中流右岸に広がる広大な平坦地と、西方の一部山間地を占める。東は犬淵村、西は土館村と稗貫郡大瀬川村(現石鳥谷町)、南は同郡好地村(現同上)・大瀬川村、北は土館村。天正一六年(一五八八)南部信直は高水寺城に拠る斯波詮直を攻略したが、中野修理亮康実はその時の功績を認められて当村に三千石の所領を与えられ(「奥南旧指録」など)、柳田館(片寄城)を築いたとされる。文禄五年(一五九六)六月四日の南部信直書状(国統大年譜)に「かたよせ 乙部へ番越候」とあり、伝馬の制が整えられていた。正保国絵図に村名がみえ、高一千七五石余。寛文四年(一六六四)盛岡藩領より八戸藩領となる。同一二年および正徳三年(一七一三)に地内の糠塚、南片寄・石倉・荒谷に切支丹禁制ならびに捨馬禁止などの高札が立てられている(八戸藩史料)。
片寄村
かたよせむら
[現在地名]額田町片寄
男川右岸の河岸段丘上に集落が立地し、作手道が通る。東は淡淵村、西は樫野山村、北は柿平村・平針村と各々山で接し、南は男川で対岸の滝尻村・細野村と境する。永徳二年(一三八二)の天恩寺宛寄進状(永源寺蔵)に「参河国額田郡内片寄郷」とある。天恩寺寄進前は源信氏所領であった。戦国末期は作手領主奥平氏の勢力圏に入った。
天正一八年(一五九〇)に吉田(現豊橋市)城主池田輝政領になる。同一九年に「当寺領片寄郷山林共」とある安堵状(国立公文書館蔵)が天恩寺宛に池田輝政より出された。片寄郷七九石余と石高が判明するのは文禄四年(一五九五)天恩寺潔堂宛の池田照政安堵状(同館蔵)で、次のようにある。
<資料は省略されています>
片寄郷の検地は天正一七年に石橋彦八郎ほか三名の奉行により三州額田郡片寄天恩寺領御縄打水帳(天恩寺蔵)三冊が作成されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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