梨原村(読み)なしはるむら

日本歴史地名大系 「梨原村」の解説

梨原村
なしはるむら

[現在地名]朝地町梨小なしこ 梨原

志屋しや村の北、七瀬ななせ川支流梨原川上流域にあり、北部をせり川が北東へ流れる。肥後往還が北東から南西に通る。正保郷帳に村名がみえ、田高一四石余・畑高一一五石余、一万田いちまんだ郷に属した。旧高旧領取調帳では高一四一石余。安永七年(一七七八)には梨原組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)岡藩の小制札場が置かれていた(岡藩御覧帳細注)。寛政三年(一七九一)には岡藩祈祷所願成がんじよう(現竹田市)領一七二石のうち八石余が当村内にあった(「組々免村継郡付庄屋村横目名面帳」三重町立図書館蔵)


梨原村
なしがはらむら

備前との国境船坂ふなさか峠の北西麓に位置する。近世船坂村と安室宿やすむろしゆく村の惣名を梨原村と称した(伊能忠敬測量日記)。「枕草子」二四二段に「駅は梨原。望月の駅。山の駅は、あはれなりしことを聞きおきたり」とみえるが、この梨原を野磨やま駅南隣の当地と考える説がある。元弘三年(一三三三)二月、挙兵した赤松円心(則村)苔縄こけなわ城を出て山陽道・美作道を塞いで山里やまのさとと梨原の間に陣をとったという(「太平記」巻七)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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