日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡藩」の意味・わかりやすい解説
岡藩
おかはん
江戸時代、豊後(ぶんご)国竹田(大分県竹田市)地方を領有した藩。外様(とざま)大名。7万440石。大友吉統(よしむね)の豊後除国の翌年、1594年(文禄3)に中川秀成(ひでなり)が入封し、岡村に城館を置いたことにより成立。城下は竹田村に配置。秀成のあと久盛、久清、久恒(ひさつね)、久通(ひさみち)、久忠、久慶(ひさよし)、久貞、久持、久貴(ひさたか)、久教(ひさのり)、久昭、久成と13代280年にわたり在封、明治維新に至る。1871年(明治4)7月岡県、同年11月大分県に編入。領地は大野、直入(なおり)、大分の3郡にまたがり、丘陵地の畑作中心で大豆が特産品。また、領内尾平(おびら)、木浦(きうら)両鉱山は銀、錫(すず)、鉛などを産出し、1637年(寛永14)から2年間城下町竹田の古(ふる)町に幕府の許可により銭座を設置している。18世紀末には、財政窮乏打開のために御勝手方横山甚助(じんすけ)を中心に積極的増税を目ざす「新法」が実施された。しかし、1811年(文化8)12月、領民はその全廃を求め、打毀(うちこわし)を伴う一揆(いっき)を展開。これが翌年にかけて豊後一円、豊前(ぶぜん)にまで波及し「広域闘争」の典型といわれる岡藩文化大一揆となった。文教面では、1726年(享保11)に輔仁(ほじん)堂を開設、それが1776年(安永5)には拡張され由学館となり、のち武館としての経武館も設立された。この両館は1868年(明治1)に統合され修道館(しゅうどうかん)となった。1787年(天明7)に設置された医学校博済館の教授として唐橋(からはし)世済(君山)が招かれ、その門下に日本南画の開祖田能村竹田(たのむらちくでん)など、多くの人材が輩出した。
[豊田寛三]