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脇屋義助 わきやよしすけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

脇屋義助
わきやよしすけ

[生]徳治2(1307).上野
[没]興国3=康永1(1342).5. 伊予
南北朝時代の武将。新田義貞の弟。上野新田郡脇屋を本拠とし,脇屋を名のった。刑部卿,右衛門佐,右馬権頭,治部大輔を歴任,従五位下に叙した。義貞の鎌倉攻めに参加し,建武新政では武者所寄人,駿河守に任じられた。建武2 (1335) 年末,足利尊氏がそむくと,義助は義貞に従って入京し,箱根,兵庫などに転戦。さらに越前金ヶ崎城で奮戦。延元3=暦応1 (38) 年に越前藤島で義貞戦死後は諸所で敗れて吉野に逃れ,興国1=暦応3 (40) 年には伊予に下り,土居,得能氏らを指揮して一時は勢いをふるったが病死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

脇屋義助 わきや-よしすけ

1301-1342 鎌倉-南北朝時代の武将。
正安(しょうあん)3年生まれ。新田朝氏(ともうじ)の子。上野(こうずけ)(群馬県)新田郡脇屋を本拠とし脇屋を名のった。兄の新田義貞と北条氏を攻め鎌倉幕府をたおす。足利尊氏が建武(けんむ)政府に反旗をひるがえすと,南朝方として各地でたたかった。南朝方を統率するため伊予(いよ)(愛媛県)にわたったが,康永元=興国3年6月5日病死。42歳。通称は二郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

脇屋義助

没年:康永1/興国3.6.5(1342.7.8)
生年:正安3(1301)
鎌倉・南北朝時代の武将。新田義貞の弟,朝氏の子。新田荘脇屋(群馬県太田市)に住み,脇屋次郎と称す。右衛門佐,刑部卿。正慶2/元弘3(1333)年,兄義貞と共に鎌倉の北条氏を攻めてこれを滅ぼし,その功績により建武政府から駿河国司に任ぜられる。建武2(1335)年に足利尊氏が背くと義貞と共にこれと戦い,いったん勝利するが結局敗れて共に越前に赴く。暦応1/延元3(1338)年に義貞が戦死したのちも力戦して越前を掌握するが,その後足利方に敗れて吉野に入り,さらに懐良親王を奉じて伊予に入ったが同地で病死した。

(山田邦明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

わきやよしすけ【脇屋義助】

1307‐42(徳治2‐興国3∥康永1)
南北朝期の武将。新田義貞の弟。上野国新田郡脇屋を本拠とした。1333年(元弘3)義貞に従って武名をあげ,建武政府下で越前守護・左馬権頭。武者所に属して軍事にたずさわる。南北朝期,義貞とともに南軍の主力として足利軍と戦い,36年(延元1∥建武3)北国に南軍の拠点を築くべく恒良親王らと越前金崎城に入ったが失敗,40年美濃を経て吉野へ帰還した。【森 茂暁】

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大辞林 第三版の解説

わきやよしすけ【脇屋義助】

1307~1342) 南北朝時代の武将。新田義貞の弟。建武新政府の武者所寄人。足利尊氏の離反後義貞に従い各地に転戦、義貞死後も南朝方として活躍した。伊予に没。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

脇屋義助
わきやよしすけ
(1306―1342)

南北朝時代の武将。新田朝氏(にったともうじ)の子。義貞(よしさだ)の弟。二郎と称す。上野(こうずけ)国新田郡脇屋(群馬県太田市)に住した。1333年(元弘3・正慶2)5月の鎌倉攻めの功により、建武(けんむ)政府から、武者所(むしゃどころ)寄人(よりゅうど)、越前(えちぜん)守護に任ぜられた。35年(建武2)12月、足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武政府に反するや、義貞とともに足柄山(あしがらやま)で足利軍と戦う。箱根竹の下の合戦で敗れ、京都へ敗走した。翌36年(延元1・建武3)5月、鎮西(ちんぜい)より東上する足利軍を兵庫(神戸市兵庫区)に防がんとしたが失敗した。同年10月、恒良親王、尊良親王を奉じて、義貞とともに北陸に向かい、越前金(かね)ヶ崎(さき)城(福井県敦賀(つるが)市)に入った。38年(延元3・暦応1)7月に義貞が戦死したのちも、越前各地の南軍を率いて奮戦した。美濃(みの)、尾張(おわり)に転戦ののち、一時吉野(よしの)に帰り、刑部卿(ぎょうぶきょう)に任ぜられた。40年(興国1・暦応3)伊予(いよ)に赴き、国司四條有資(しじょうありすけ)を助けて北軍と戦い勢力を振るった。42年(興国3・康永1)5月、伊予国府にて病没。[佐藤和彦]

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世界大百科事典内の脇屋義助の言及

【越前国】より

…しかし義貞が灯明寺畷(現,福井市)で戦死すると,形勢は逆転し南朝軍は四散した。その後義貞の弟脇屋義助が高経を加賀へ放逐するなど一時的に南朝の勢力挽回をはかったが,再び高経は反撃に転じ,越前国内の南朝方の諸城を抜いてようやく越前を高経の掌中に収めた。このあと高経は2度も幕府に背き66年(正平21∥貞治5)には失脚して,越前守護職は細川頼春や畠山義深らに移ったこともあるが,79年(天授5∥康暦1)ころ高経の子義将が復帰して以後は,斯波氏の世襲するところとなった。…

【杣山城】より

…城は麓の阿久和谷に展開する居館群と山頂の山城とから成る。1337年(延元2∥建武4)瓜生保・重・照・義鑑房らの兄弟が脇屋義助を擁してここに拠り,敦賀金崎(かねがさき)城の新田義貞らに呼応して戦った話は《太平記》等に詳しく有名である。その後66年(正平21∥貞治5)には,室町幕府に背いた斯波高経がこの城に拠り,翌年城中に没し,1474年(文明6)には,台頭する朝倉氏と旧勢力の斯波氏,甲斐氏がここに争った。…

※「脇屋義助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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