南北朝時代の武将。新田朝氏(にったともうじ)の子。義貞(よしさだ)の弟。二郎と称す。上野(こうずけ)国新田郡脇屋(群馬県太田市)に住した。1333年(元弘3・正慶2)5月の鎌倉攻めの功により、建武(けんむ)政府から、武者所(むしゃどころ)寄人(よりゅうど)、越前(えちぜん)守護に任ぜられた。35年(建武2)12月、足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武政府に反するや、義貞とともに足柄山(あしがらやま)で足利軍と戦う。箱根竹の下の合戦で敗れ、京都へ敗走した。翌36年(延元1・建武3)5月、鎮西(ちんぜい)より東上する足利軍を兵庫(神戸市兵庫区)に防がんとしたが失敗した。同年10月、恒良親王、尊良親王を奉じて、義貞とともに北陸に向かい、越前金(かね)ヶ崎(さき)城(福井県敦賀(つるが)市)に入った。38年(延元3・暦応1)7月に義貞が戦死したのちも、越前各地の南軍を率いて奮戦した。美濃(みの)、尾張(おわり)に転戦ののち、一時吉野(よしの)に帰り、刑部卿(ぎょうぶきょう)に任ぜられた。40年(興国1・暦応3)伊予(いよ)に赴き、国司四條有資(しじょうありすけ)を助けて北軍と戦い勢力を振るった。42年(興国3・康永1)5月、伊予国府にて病没。
[佐藤和彦]
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…しかし義貞が灯明寺畷(現,福井市)で戦死すると,形勢は逆転し南朝軍は四散した。その後義貞の弟脇屋義助が高経を加賀へ放逐するなど一時的に南朝の勢力挽回をはかったが,再び高経は反撃に転じ,越前国内の南朝方の諸城を抜いてようやく越前を高経の掌中に収めた。このあと高経は2度も幕府に背き66年(正平21∥貞治5)には失脚して,越前守護職は細川頼春や畠山義深らに移ったこともあるが,79年(天授5∥康暦1)ころ高経の子義将が復帰して以後は,斯波氏の世襲するところとなった。…
…城は麓の阿久和谷に展開する居館群と山頂の山城とから成る。1337年(延元2∥建武4)瓜生保・重・照・義鑑房らの兄弟が脇屋義助を擁してここに拠り,敦賀金崎(かねがさき)城の新田義貞らに呼応して戦った話は《太平記》等に詳しく有名である。その後66年(正平21∥貞治5)には,室町幕府に背いた斯波高経がこの城に拠り,翌年城中に没し,1474年(文明6)には,台頭する朝倉氏と旧勢力の斯波氏,甲斐氏がここに争った。…
※「脇屋義助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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