森繁久彌(読み)もりしげひさや

知恵蔵 「森繁久彌」の解説

森繁久彌

俳優、演出家、文化勲章受章者。「森繁久弥」とも表記される。森繁事務所所属。
1913年5月4日、大阪府生まれ。3人兄弟の末っ子。父・菅沼達吉は久彌が2歳の時に死去し、3男の久彌は母方の森繁家を継ぎ、「森繁」姓となる。
早稲田大学在学中、演劇部に入り演劇活動を始める。36年、東宝劇団入団、39年、NHK入社、50年、東宝映画専属となり、「腰抜け二刀流」で本格デビューする。出演映画は代表作「夫婦善哉(めおとせんざい)」他200本以上。テレビドラマ、舞台、CMへの出演の他、歌手としての代表作である「知床旅情」では作詞作曲才覚も示した。舞台代表作「屋根の上のヴァイオリン弾き」は67年東京・帝国劇場での初演以来、86年まで900回にわたりテヴィエ役を主演した。芸術選奨文部大臣賞他、多数の演劇賞を受賞する。64年紺綬(こんじゅ)褒章、75年紫綬褒章、84年文化功労者、87年勲二等瑞宝章を受章。91年には伝統芸能以外の俳優としては初の文化勲章を受章。97年東京名誉都民となる。帝国劇場の単独主演回数記録では、2009年に堂本光一が更新するまで、23年にわたり森繁の「屋根の上のヴァイオリン弾き」が最多(625回)であった。
02年の大みそかに静養先の沖縄にて心筋梗塞(こうそく)で倒れ、一時危篤状態となったが回復。その後、仕事に復帰するも04年にドラマ「向田邦子恋文」に出演したのを最後に俳優活動を休止している。ドラマ「七人の孫」の出演以来40年以上にわたって交友を深め、共著『大遺言書』(新潮社)のある作家で演出家の久世光彦が06年3月に亡くなり、その葬儀に出席して以降、公の場に姿を見せていない。09年5月4日の96歳の誕生日には、自宅で誕生パーティーを行い、元気な様子だったと伝えられている。
09年、夏風邪を引き主治医の勧めで東京都内の病院に7月23日に入院したが、11月10日、老衰のために亡くなった。享年96歳。

(葛西奈津子  フリーランスライター / 2009年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「森繁久彌」の意味・わかりやすい解説

森繁久彌
もりしげひさや

[生]1913.5.4. 大阪,枚方
[没]2009.11.10. 東京
俳優。映画や舞台,テレビジョン,ラジオと幅広く活躍した。早稲田大学在学中に演劇活動に参加し,1936年に同大学を中退,東京宝塚劇場に入る。1939年日本放送協会 NHKに入局,アナウンサーとして中国東北部の満州に赴く。1946年に帰国,1950年に NHKのラジオ番組『愉快な仲間』のレギュラーに起用され,その才能を高く評価された。同年,喜劇『腰抜け二刀流』で映画初主演を果たし,喜劇『三等重役』(1952)が出世作となる。その後,演技派として認められた『夫婦善哉』(1955),『猫と庄造と二人のをんな』(1956),「社長」シリーズや「駅前」シリーズ,『恍惚の人』(1973)などの映画,『七人の孫』『ドラマ・人間模様 赤サギ』などのテレビドラマに多数出演,軽妙でありながらペーソスあふれる演技で実力派俳優としの地位を確立した。舞台でも活躍し,1962年に森繁劇団を創設した。代表作に『佐渡島他吉の生涯』(1959),『孤愁の岸』(1983,初演)。1967年初演のミュージカル屋根の上のバイオリン弾き』では主人公テビエ役を 1986年まで 900回務めた。また,NHKのラジオドラマ『日曜名作座』に,1957年から 40年以上にわたり出演。2004年まで俳優活動を続けた。1974年菊池寛賞,1987年勲二等瑞宝章,1991年文化勲章,没後の 2009年12月に国民栄誉賞を授与され,従三位に叙された。

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