日本歴史地名大系 「槇島城跡」の解説
槇島城跡
まきのしまじようあと
室町時代の城郭跡。その規模や具体的な位置は不明であるが、宇治川の中州であった槇島東南部にあって、周囲を水に囲まれた水城であったと考えられている。
築城者も知られていないが、この地の土豪であり、足利将軍家歴世の奉公衆であった槇島氏の本拠となっていた。「東院年中行事記」文明一〇年(一四七八)八月一一日条によれば、山城守護代遊佐弾正長直の代理弥六が宇治槇島へ入部したことが知られ、「大乗院寺社雑事記」同月一〇日条にも「自管領山城郡代宇治遊佐中務・神保弟淀ニ下向」とみえる。この事実から槇島城の存在を推測させるが、城の初見は下って明応八年(一四九九)九月、細川政元の軍勢の攻撃によって落城したことを伝える後法興院記である。館と記され、翌年八月には細川政元が入館し、文亀元年(一五〇一)六月には、将軍義澄を招いて金春大夫の猿楽を催している(後法興院記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報