水城(読み)ミズキ

デジタル大辞泉 「水城」の意味・読み・例文・類語

みず‐き〔みづ‐〕【水城】

外敵を防ぐために設けた水堀。特に、天智天皇3年(664)大宰府を防備するために造られた土塁をいう。延長約1キロ、高さ約14メートルで、福岡県太宰府市に遺構が現存。

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精選版 日本国語大辞典 「水城」の意味・読み・例文・類語

みず‐きみづ‥【水城】

  1. 〘 名詞 〙 外敵を防ぐために、堤を築き、前面に水をたたえた堀。特に、天智天皇三年(六六四)大宰府防衛のために設けられたものをさし、福岡県太宰府市水城に土塁堤防状遺構、東西の門址・礎石などを残している。昭和二八年(一九五三)国特別史跡指定
    1. [初出の実例]「又筑紫に大堤(つつみ)を築て水を貯はへしむ。名けて水城(ミツキ)と曰ふ」(出典日本書紀(720)天智三年是歳(北野本訓))

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改訂新版 世界大百科事典 「水城」の意味・わかりやすい解説

水城 (みずき)

福岡県太宰府,大野城両市の境界に築かれた古代の土塁。大宰府跡の北西約1.5kmに位置し,特別史跡。664年(天智3),前年の白村江敗戦後の防衛強化の一環として防人(さきもり),烽(とぶひ)の配備に続いて築かれ,《日本書紀》には〈筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ,名づけて水城という〉とある。土塁は東の大野城が築かれた四王寺山と西の脊振山地をつなぐように南西方向にほぼ一直線に築かれ,博多湾沿岸から筑紫平野に通じる平地の最狭部をふさぎ,大野城,基肄(きい)城などとともに大宰府を防衛する羅城を形成した。現在でも福岡市から南下する鉄道や道路がすべてこの部分を通過しているように,博多湾付近からは唯一の南進路であり,ここの閉塞は大宰府の防衛にとって不可欠の要件であったが,実戦で利用されたのは13世紀後半の元寇の際にこれを防御線にしようとしたときだけである。765年(天平神護1)には修理水城専知官の任命があり,そのころ修理されたのであろう。土塁の現状は全長約1.2km,基底部の幅約80m,高さ約13mであるが,中央を貫流する御笠川や鉄道,国道によって3ヵ所で分断されている。土塁の外側(博多側)にあたる北側の傾斜はかなり急であるが,内側(大宰府側)のそれはゆるやかで,中間にテラス状の段がつき,東西両端部近くにそれぞれ門があった。かつて貯水方法をめぐって諸説があったが,1975年の発掘調査で外側に幅約60mの堀跡が検出され,内側の取水口から土塁の下に作られた木樋を通して貯水されていたことが判明した。730年(天平2)に帰京する大宰帥大伴旅人はここで遊行女婦(うかれめ)の児嶋と別離を惜しみ,1005年(寛弘2)に着任した大弐藤原高遠はここで少弐以下の出迎えを受け,印鎰(いんやく)を引き継いだように,水城以南が大宰府の府中とみなされていた。

 なお,これの西方にあたる大野城市上大利や春日市の大土居・天神山などにもこれと同じ構造の土塁があり,これに比して小規模であるため小水城と総称されている。これらは水城と同じ役割を果たし,いわゆる間道をふさぐための施設であろう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「水城」の意味・わかりやすい解説

水城(福岡県)
みずき

福岡県筑紫(ちくし)郡につくられた大宰府(だざいふ)防衛のための古代の土塁。百済(くだら)救援の役(白村江(はくそんこう)の戦い)敗戦後の664年(天智天皇3)、博多から大宰府に入るもっとも狭隘(きょうあい)な平地に、全長約1キロメートル、基底部幅40メートル、高さ13メートルの規模で築かれた。その後ふたたび新羅(しらぎ)との緊張が高まった765年(天平神護1)に、采女浄庭(うねめのきよにわ)を修理水城専知官に任じ、大宰府管内の防衛力強化のため修理をしている。水城は『日本書紀』に「水を貯(たくは)へしむ」とあることから、その機能について諸説あったが、1975年(昭和50)からの発掘調査により、水城の北側(博多(はかた)側)に接して、最深部4メートルの水濠(すいごう)が発見され、水城の外側に水を貯えたとする外堀説に帰結した。また水城・外堀の底に奈良時代前期の瓦(かわら)でつくった暗渠(あんきょ)排水路の存在も確認されていることから、天平神護(てんぴょうじんご)年間(765~767)に補修されたことが裏づけられた。

[酒寄雅志]

『藤井功・亀井明徳著『西都大宰府』(1977・日本放送出版協会)』


水城(中国)
すいじょう / ショイチョン

中国、貴州(きしゅう)省西部の六盤水(りくばんすい)市に属する県。揚子江(ようすこう)支流烏江(うこう)水系の三岔河(さんたが)上流に位置し、貴昆線(貴陽(きよう)―昆明(こんめい))が通じる。常住人口70万4495(2010)。盤(ばん)県、六枝(りくし)特区などとともに六盤水市を形成する。西南地方有数のコークス用石炭の産地のほか、埋蔵量の大きい赤鉄鉱や鉛鉱の産地もみられる。

[小野菊雄・編集部 2016年12月12日]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「水城」の解説

水城
みずき

白村江(はくそんこう)の敗戦で国際情勢が緊迫するなか,664年(天智3)に築かれた大宰府防衛のための施設。福岡平野から筑紫平野につながる平野のくびれ部(四王寺山の西麓から牛頸丘陵の東端)に位置しており,全長1.2km,基底部幅80m,高さ13mの大堤を版築により築き,東・西の2カ所に城門を設けた。大堤の北側(博多湾側)に幅60m,深さ4mの堀が掘られ,堀の水は御笠川の水流などから大型の木樋などを用いて導水したらしく,いずれも高度な土木技術が用いられている。跡は国特別史跡。また筑前・筑後両国には現在の久留米市の上津土塁をはじめ数カ所の堀をともなった土塁などが確認され,これらは小水城とよばれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水城」の意味・わかりやすい解説

水城
みずき

福岡県中部,太宰府市西部の地区。旧村名。 1955年太宰府町と合体,82年太宰府市となる。石堂 (御笠) 川の流れる二日市狭隘部に位置し,福岡市の郊外住宅地として発展している。天智3 (664) 年新羅に対する大宰府防衛のため,水城堤防が建設された。川には水門を設けたが,使用した木材はいま観世音寺に保存。特別史跡に指定されている水城跡と大宰府跡のほか,史跡の筑前国分寺跡など古跡が多く,付近は太宰府県立自然公園に属する。

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百科事典マイペディア 「水城」の意味・わかりやすい解説

水城【みずき】

大宰府の防衛施設。古代に築かれた土塁で,現状は長さ約1.2km,高さ約13m。戦時には御笠(みかさ)川をせき止めて水をためたのがその名の由来とされる。664年築造,765年には改修があったらしい。遺構(特別史跡)は福岡県太宰府市と大野城(おおのじょう)市の境界付近一帯に残る。
→関連項目大野城基肄城

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旺文社日本史事典 三訂版 「水城」の解説

水城
みずき

7世紀,大化の改新政府が筑紫国に設けた堤
663年の白村江 (はくそんこう) の戦いに敗れた翌年,唐・新羅 (しらぎ) の来攻に備え,大宰府の北部に設けた。全長約1㎞で,水をたたえた。現在,遺跡が福岡県太宰府市から大野城市にわたって残存する。

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世界大百科事典(旧版)内の水城の言及

【堀】より

…外敵から守るため,集落の周囲に堀を設けることは先史以来行われ,縄文・弥生時代の集落址にも周濠が認められるものがある。古代では,仁徳天皇が難波高津宮の北の原野を掘り,南の水(大和川)を引いて西の海(大阪湾)へ入れた堀江,斉明天皇が大和香具山の西から石上山まで,延べ約3万人の人夫を要して掘らせた〈狂心(たぶれこころ)の渠〉などの伝承があるが,664年(天智3)に大宰府防衛のために築かれた水城(みずき)は,高さ14m,延長1kmの土塁,東西の門址,礎石が残る。都城の建設においても,平城京・平安京の堀川や大内裏周囲に堀がつくられた。…

※「水城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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