朝日日本歴史人物事典 「橘兼高」の解説
橘兼高
平安末・鎌倉時代前期の備後国(広島県)大田庄の在地領主。庄内の村々に居を構える公文などの下級庄官を被官化して武士団を形成し,源平の内乱の過程で,ほぼ大田庄の全域にまで領主経営を拡大し,「兼高・光家私領の如し」といわれた。建久1(1190)年,高野山金剛峯寺根本大塔供僧の訴えにより,領主制も大きく後退させられる。しかし公文層を介して庄全体におよぶ勧農機能を持っているため,その領主制を否定できず,建久3年には,逆に段別2升の所当米を免除されている。建久7年謀反の咎により失脚した。兼高が差し出した得分注文(所領・収益について書き上げたもの)は在地領主制の内容を示す史料である。<参考文献>瀬野精一郎編『備後国大田荘史料1』,河音能平『中世封建制成立史論』
(吉良国光)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報