改訂新版 世界大百科事典 「領主制」の意味・わかりやすい解説
領主制 (りょうしゅせい)
manorial system
Herrschaft[ドイツ]
régime seigneurial[フランス]
ヨーロッパ
ヨーロッパの中世社会は一つの身分制社会であって,同時代人はそれが基本的に〈祈る者〉〈戦う者〉〈働く者〉の3身分から成ると考えていた。前2者すなわち聖職者と戦士的貴族は封建的支配身分であり,彼らの生活と活動はもっぱら農民の収奪のうえに成り立っていた。そうした封建的支配諸身分(のちには都市が加わる)が,農民の生産余剰を経済外的強制に基づいて体系的に収奪する体制が領主制である。それは中世社会の社会・経済的基礎をなすとともに,その政治構造をも決定的に規定するものであった。近世以降は,君主のもとへの権力の集中に伴い,支配の最下部機構としての領主制の重要性は薄れるが,それはけっして自由な契約関係に基づく単なる地主・小作制度ではなく,農民の身分的隷属性を前提とした一つの支配形象としての意味は引き続き維持された。
執筆者:山田 欣吾
中世初期
民族大移動によってヨーロッパの支配者となったゲルマン人は,すでに長期にわたって接触していたローマ人と,根底的に相いれない社会構造を示してはおらず,家内奴隷などのかたちで階層分化を進めていた。ローマ人のもとでは奴隷制が解体の道を歩んでおり,大所領でも,土地を与えられるなどのかたちで,自立性を確保しつつあった労働力が増加していた。中世初期の領主制は,ゲルマン人とローマ人のもとに存在していたこうした階級関係を出発点として,一方では,奴隷的非自由人がしだいに保有地を得て農民に上昇し,他方では,独立農民層が領主による支配にとらえられ,この両者によって隷属農民層が形成されることによって成立した。
ゲルマン人は従来の農村開発の成果を継受するが,ローマ期の大所領は,ローマ帝国末期と民族大移動期に衰退し,代わって中世当初に出現したのは,耕地200ha程度までの小所領であった。これは,奴隷的非自由人によって耕作される領主直営地を主たる要素とし,農民保有地は少数で負担も軽かった。しかもこうした小所領は,人口の大半をとらえていたのではなく,なお多数の独立農民が,強固な血縁組織に支えられながら存在していた。
7世紀後半からの西ヨーロッパ全般にわたる社会的・経済的発展に従い,農村開発が進行すると,その中で領主制も大きく成長する。その根幹をなすのは,奴隷的非自由人の地位の向上であり,家,屋敷地,一定面積の耕地,森林・荒蕪地への一定の用益権を含んだ保有地が,1家族の生活に必要な単位として確保される傾向が現れてくる。これが7世紀にパリ地方の王領地で生まれたマンスmansusで,ゲルマン語圏ではフーフェとして広がっていく。同時に,国王,教会,高級貴族などの有力領主のもとでは,開墾(開拓)によって従来の小所領の耕地を増加させるとともに,土地購買や寄進受納によって,所領規模を拡大する動きが目だったが,それは同時に,独立農民が,領主制の支配下に引き入れられ,しだいにマンス=フーフェ保有農民となっていく過程でもあった。また,多数の小領主も没落して,有力領主の領民になっていく。こうして9世紀初頭までには,当時の先進地帯であったロアール~ライン川間地域に,古典荘園(ビリカチオンVillikation制)と呼ばれる大所領が族生するに至る。その規模は1000haを超えることが多かったが,半分以上の土地が,農民保有地として,マンス=フーフェに分割されており,領主直営地は従来よりも格段に広くなってはいたが,所領内部での比重を低めている。この両者を結びつけるきずなは賦役労働で,典型的な場合には,農民はマンス=フーフェ当り週に3日程度を,領主直営地の耕作と領主家計での雑多な労働にささげなければならなかった。したがって,古典荘園制のもとでの農民は,標準的保有地の耕作によって家族生活を維持することで,自立性を確立していたとはいえ,同時にその労働力に対する領主の強い権利が存在していたのであり,農民経営の基盤はなお幼弱であった。
農民のこのような経済的状況は,領主による強い人身的支配と対応していた。中世初期の領主制は,民衆から隔絶した地位にあった有力領主による家権力の行使を伴っており,また領民の間には,さまざまな共同体的結合はあったものの,中世盛期以降の村落共同体に見られるような,自治権を確保して農民生活の隅々まで力を及ぼしている仲間団体は存在しなかった。そのため,個々の農民が特定の領主に強く隷属してその保護を仰ぐという傾向が強く,領主支配の恣意的性格が目だっていた。そのため,領主権力の行使についての規範も,実定法によって規定されることがほとんどなく,領主裁判権というような客観的な姿をとることもなかった。また,中世農民層の二重の源泉に規定されて,古代末期から持ち越されてきた非自由身分と,自由身分との区別が農民のもとに存続していたが,古典荘園制に組織されていたかぎり,自由身分の農民も実際には非自由身分に近い隷属性を示していたと考えられる。このような領主の所領は一般に荘園と呼ばれ,領主の人身的支配下にあった農民は農奴と呼ばれる。
中世初期には都市的集落が存在し,ことに8世紀からは,小額銀貨による商品・貨幣流通が農村にも存在していた。領主直接経営によって穀物が販売され,農具や種子が購買されただけでなく,農民もしばしば農村市場を利用していたことが確実である。過重な賦役労働と厳しい人身的支配に服しながらも,同時に農民は,自己の保有地を生活基盤として,家族経営を発展させ,剰余の販売を行うこともあったのである。こうした農民の矛盾したあり方こそ中世初期領主制の特質といえよう。
執筆者:森本 芳樹
中世中期・後期
ヨーロッパは9~10世紀にかけてのイスラム教徒,バイキング,マジャール人ら外敵の侵入による苦境を乗り越えて,11世紀には力強い成長期に入る。このころから領主制は,全域にわたって本格的な展開を遂げるとともに,中世初期のそれと異なる様相をも示すようになった。まず,中世初期に先進的王領,大教会領でつくりだされたビリカチオン制を伴う荘園領主制が,中央ヨーロッパでも,また教会領のみならず貴族領でも広範に成立した。その構造は基本的に以前と同様であり,領主は広い地域に散在する所有地をいくつかの単位荘園に編成し,各荘園中心地にある領主直営地を荘園所属のフーフェ保有農民の賦役を用いて耕作せしめ,その生産物を取得した。農民保有地が中心から遠い場合など条件のいかんによっては,領主は農民から生産物または貨幣の形態で地代給付を要求し,また,領主直営地をまったく欠いた〈地代荘園〉型の所領も少なくなかった。そして,中世中期以降になると,この種の所領が傾向的に増加したことは確かであるが,他方,最近の研究は聖俗大領主の直営地経営が中世末期に至るまで根強く連続した事実をいたるところで明らかにしている。
このような荘園領主制と並んで,11~12世紀の大きな社会的・政治的変動期を通じて,新たな類型の領主制が一般的に成立してくる。それが裁判領主制ないしバン領主制である。このころ,フランスを先頭としてヨーロッパ各地に石造の城が築かれ,城主たる貴族は,自己の家名を初めて名のるのに居城の名をもってしたことはよく知られる事実である。そうした城主貴族層は,そびえる城に象徴されるような隔絶せる権力的地位をもって周辺諸村落に臨み,その領域全体を支配下に置いた。その際,彼は当該領域内で十分に有力な(しばしば最大の)土地所有者であり,そのかぎりで自己の土地保有農民に対し,荘園領主制的支配者の立場にあったことはいうまでもないが,彼の支配はそれにとどまらず,同時に,当該領域内に居住するかぎり他の荘園諸領主の領民や独立農民に対しても及ぼされた。農村的地域社会を全体として把握するこの支配権力の法的権原はけっして一様ではなく,各種の裁判権,強制・罰令権(バンBann)および教会守護権(フォークタイ)などのいずれであっても,またそれらのどのような組合せであってもよかったが,要はそれが当該地域社会の法と平和とを内外に対して現実に守り通せるだけの力として,軍事,司法の両面で機能しえなければならなかった。こうした領域的支配権を根拠として裁判領主は域内の全農民から体系的に役務と貢租を要求した。中世ドイツの史料がこの裁判領主に対する農民の給付を〈租税steura〉と呼んでいるのは,この領主制的収奪の性格を知るうえで興味深い。
ヨーロッパ経済史上の大きな成長期である12~13世紀は,領主制にとっても,全体としていっそうの拡大と深化をもたらした時期であった。とりわけ,いたるところで行われた開墾活動は,開発領主に対して一円的荘園領主権と裁判領主権とを同時に保障したため,新開地にはきわめて集約的な領主制支配が成立した。その最もよい例がいわゆる東方植民運動による開発であり,そうした事情がエルベ川以東のこの地域で,中世末から近世にかけて成立するグーツヘルシャフトの前提条件をなすものであった。また,この時期に力強い成長をみせた都市とその経済が領主制に与えた影響も大きく,都市周辺の教会所領を先頭に市場向け生産を指向するものが増加し,領主制はますます外部の経済状況の影響を敏感に被るようになった。
14世紀に入るとヨーロッパの経済は停滞から後退に向かい,黒死病(ペスト)による大量死亡に象徴されるような危機的状況を迎える。この打撃を最も痛烈にうけたのが領主層とりわけ世俗中小領主であり,14~15世紀の危機は,何よりも領主制の危機として現れたということさえできる。人口の減少と廃村化の進行,領民の都市への移住・逃亡は,農産物価格の傾向的下落と相まって,直営地経営を困難ならしめ,地代収入を激減せしめた。多くの中小騎士は経済的破綻(はたん)のゆえに没落したが,こうした領主制の一般的危機は,また,領主層内部における生存をかけた激しい戦いを引き起こし,いっそう多くの敗者と少数の勝者とをもたらした。つまり,領主制の危機を乗り越えるための条件は,いまや領主制の枠を超えた政治的・権力的局面へと決定的に移行したのであり,次の時代は,統一的国家権力形成への道を先進的に歩む者の手に握られることになった。
執筆者:山田 欣吾
近世
ヨーロッパでは,16世紀から18世紀末ごろまでを一般に近世と呼んでいるが,この時期は封建社会が解体して近代社会が形成される過渡期であり,それに応じて,領主制のあり方にも一定の変化が見られた。すなわち,中世末期に,封地の授受に伴う忠誠の義務で結ばれた主君と下臣との間の狭義の封建的な関係が崩れ,また,戦争や内乱によって旧来の封建諸侯の多くが没落し,それに代わって,都市の大商人層などの支持を得た国王の権力が増大し,やがて絶対王政が形成されるようになったから,領主と農民との間の関係としての領主制そのものは16世紀以降にも存続したが,そこでの領主制は,所領に対する政治的,司法的な支配という側面をしだいに喪失して,国王によって保障された特権としての領主的諸権利によって所領から各種の貢租を徴収するという経済的な側面を残すだけになった。とくに,中世末の領主制の危機によって旧来の領主層の多くが没落したあと,16世紀には新興の商人や地主などが没落した領主の所領を買い取って領主になったから,これらの新領主たちは,新たに手に入れた領主的諸権利を活用して所領からできるだけ多くの利益をあげようと努力したので,領主制はますます金銭的な特権としての性格を強く帯びるようになった。絶対王政の末期に,領主制が封建制の遺物として農民層の激しい攻撃の対象になったのは,領主制がこのように行政的機能や治安維持機能を喪失して単なる金銭的特権に転化し,しかもなお領主が特権身分として農民に君臨しようとしていたからである。
近世ヨーロッパにおける領主制のあり方は,16世紀における各国の国内の経済状態の差によって,イギリス,フランス,ドイツで大きく異なっていた。つまり,16世紀には,中世末からの領主制の危機を克服するために,どの国でも領主たちはさまざまな対応策を講じたのであるが(これはしばしば領主的反動と呼ばれる),それぞれの国内の事情によってその対応策は異ならざるをえなかったのである。まずイギリスでは,領主制の危機の中で富裕な独立自営農民層が形成され,とくに農村に広がった毛織物工業の繁栄によって農民的商品経済が著しく発展し,その過程で富農と貧農とへの農民層の両極分解が進行していた。そこで,新興のジェントリーなどをはじめとする新領主層は,みずからも大土地所有者になってこういう産業的発展から利益を得ようとし,それまでの農民の保有地(謄本保有copyholdなど)を定期借地leaseholdに切り換えるとともに,牧羊のためのエンクロージャーなどを行い,こうして形成された大土地所有を一括して富農に定期借地させて地代収入の増加を図った。そして,この大土地所有を借地した富農は,貧農を農業労働者として雇用してしだいに資本主義的大借地農業経営者に成長していったから,17世紀のうちに農業の資本主義化が進み,こうしてイギリスでは,領主自身が近代地主(資本主義的大土地所有者)に転化することによって,18世紀までのうちに領主制が事実上消滅した。
他方,16世紀のフランスでは,農民の土地保有権がきわめて強固であったので領主による大土地所有の形成は困難であり,またイギリスのような商工業の発展が見られなかったので,農業の資本主義化も進まなかった。そこで,商人などの領主化によって形成された新領主層は,主として所領における領主的諸権利の強化によって収入の増加を図るほかはなかった。近世フランスにおける領主的諸権利の具体的内容は,農民の保有地に対する年貢をはじめとして,所領内での商品流通に対する領主的貢租(市場税や通行税など)や,特定の生産手段(製粉場やブドウ圧搾器など)の領主独占権や,これらの領主の収入を確保するための領主裁判権などで構成されており,近世ヨーロッパの領主制が金銭的な特権に転化していたことは,このようなフランス近世の領主制において最も明瞭に現れている。
以上のようなイギリスとフランスの場合に比較して,さらに露骨なかたちで領主制の強化が行われたのは,エルベ川より東の東部ドイツにおいてであった。16世紀以降の東部ドイツ(プロイセンの一部)では,農民の土地保有権が弱かったので,領主たちは農民から土地を取り上げて広大な直営地を形成するとともに,農民を身分的に不自由な農奴の地位に落とし(再版農奴制と呼ばれる),それら農奴の賦役労働によって直営地で穀物生産を増加させて収入の増大を図った。こうして直営地で生産された穀物が国際的な商品として輸出されるようになるにつれ,農奴の賦役労働に基づく領主の直営農場はますます拡大し,17世紀のうちにグーツヘルシャフトが形成された。
以上のような近世ヨーロッパの領主制は,イギリスでは18世紀までのうちにおのずから消滅し,フランスでは18世紀末のフランス革命によって廃止され,ドイツでも19世紀初めのプロイセンにおける農民解放によってしだいに解体されることになった。なお,ロシアでは過酷な農奴制に基づく領主制が長く存続していたが,1861年の農奴解放を出発点として領主制が解体されることになった。
執筆者:遅塚 忠躬
日本
日本史上の学術用語としては,平安~室町時代の武士=領主(土地所有者)が農民を支配する方式を指す。武士=領主は京都の荘園領主と異なり,農村に在地して農民支配の実際にあたることが多かったので,在地領主制とも呼ばれる。この領主制(または在地領主制)を日本における中世社会形成の基本的な担い手として位置づけたのは,石母田正であった(《中世的世界の形成》《古代末期の政治過程および政治形態》)。領主による農民支配は奴隷制から農奴制に進化する過渡的な性格をもつものとされた。古代専制国家による政治的奴隷制(総体的奴隷制)の社会のさなかから,すなわち古代律令制下の農村内部から,生まれ成長してきたこの領主-農民の支配関係こそが,古代社会を崩壊に導き,中世の封建社会(農奴制に立脚する封建領主の社会)の形成をもたらした原動力だとみなされたのである。〈古代社会内部において存在するウクラードを領主制と呼ぶ〉とされたゆえんである。石母田の指摘は,武士=領主階級のみが古代律令制国家を打倒する主体たりえたとする政治史的認識と密接不可分の一体をなすものであった。日本における中世社会の形成に関するこの石母田の理論(領主制理論ともいう)は,第2次大戦以後の学界に対して大きな影響力を及ぼし,ある時期には,主導的な地位を占めることになった。
しかし,この領主制理論にすべての研究者が同意を示したわけではない。鈴木良一は支配者階級たる武士を歴史の進歩の担い手とすることはできないとして,人民の役割を重視すべきことを強調した(《敗戦後の歴史学における傾向》)。領主制理論においては無力な存在とみなされがちであった農民諸階層の主体性を高く評価すべしというこの鈴木の問題提起は,まことに貴重なものであった。ややもすれば,武士=領主の賛美に傾きがちとなる領主制理論の欠陥を鋭く突いた重要な指摘であった。今日の学界においては中世農民すなわち平民・百姓の主体性は当然のこととして承認されるに至っている。鈴木の指摘はその先駆をなすものであった。また,領主制支配下の農民の歴史的性格に関しても,さまざまな批判がなされた。松本新八郎,安良城(あらき)盛昭らは領主に隷属する下人・所従などの農民は奴隷そのものであるとして,それが農奴に進化する発展的側面を否定した。この奴隷制が農奴制に転化する封建革命の時期は古代末期にはあらず,南北朝期(松本),または太閤検地の行われた豊臣政権の時期(安良城)とされることになった。領主制の封建的ウクラードたることはまったく否定されるに至った。
それに対して,黒田俊雄,戸田芳実,大山喬平,河音能平らは,領主に隷属する農民は,むしろ農奴そのものであるとして,松本,安良城らの家父長的奴隷制論と鋭く対立するに至った。この奴隷・農奴論争については今日に至るもなお決着がついたとはいいがたい状況にある。中世史研究者の実感としては農奴説に傾きがちだが,理論的にはなお詰めるべき問題が残されているといわざるをえない。黒田らは同時に,領主制には完全に包摂されることのない,独立自営の一般農民,すなわち平民・百姓身分の農民の重要性を強調した。荘家の一揆(年貢の減免要求そして集団的逃散),さらには徳政一揆などの主体ともなった平民・百姓の自由民的性格は,たしかに領主制理論の枠組みではとらえきれない事象であった。今日の学界における百姓論の隆盛は領主制理論に対する一定の批判なしではありえなかったことは明白である。黒田らはまた,農民を支配する領主も武士=在地領主のみにはあらず,京都の荘園領主もまた封建的大土地所有者とみなすべきことを主張した。荘園領主の支配を古代専制国家による支配の延長とみなして,それゆえに武士=在地領主のみが中世社会形成の担い手だとする石母田理論の枠組みはこの方面からも破綻を示さざるをえないこととなった。それだけではない。武士=在地領主,荘園領主のほかにも,私領主・地主などと呼ばれる広範な土地所有者の階層が存在したことが最近の研究によって明らかとなったのである。武士=在地領主は日本中世における封建的土地所有の唯一の体現者にはあらず,むしろさまざまなタイプの土地所有者の一類型とみなされるべきことが理解されるようになった。荘園制こそが基本であり,在地領主制は派生的なものであるとする黒田の最近の見解が注目されるゆえんである。
だが,日本の中世社会において武士=在地領主が占めた特殊な役割を考慮に入れるならば,黒田のように派生的とするだけではすまされないのではないか。中国,朝鮮などをはじめとする東アジア世界の中世社会において,武士=在地領主が政権を樹立し得たのは日本のみであった。このような例外的現象がなにゆえに生じたのか,その原因が究明されなければならない。石母田はこの例外的事象を歴史の進歩であると断定して,東アジア世界において日本のみが西欧と同じ近代化の道をたどりえた出発点はここにありとみなした。だが,武士=在地領主による農民支配は〈耳をきり,鼻をそぐ〉という言葉に象徴されるように,あまりにも荒々しく粗野でありすぎた。東アジア世界の大勢を占めた文人官僚による法治主義による人民支配の原則に比べるならば,その感はひとしおである。日本における武士=在地領主の台頭は歴史の進歩にはあらず,むしろ不幸な例外,東アジアの辺境における後進的現象とみなされるべき側面もあったのではないか(入間田宣夫《守護・地頭と領主制》)。いずれにせよ,石母田の領主制理論がそのままのかたちでは通用しがたくなったことだけは事実である。しかし,日本における中世社会の成立ちに関する最初の理論として,その学説史的な意義は永遠に不滅である。
執筆者:入間田 宣夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報