日本大百科全書(ニッポニカ) 「在地領主制」の意味・わかりやすい解説
在地領主制
ざいちりょうしゅせい
在地領主とは、日本中世の封建領主層のうち、在地性をもたない都市貴族や大寺社=荘園(しょうえん)領主を除いた、農村に居住し自らの所領支配を「宅」と直営地とを中核に実現している領主層を意味する歴史的範疇(はんちゅう)である。そして、彼らが在地の農民支配を実現するための支配体制の総体(それはおもに封建的土地所有と経済外強制の両者によって構成されている)を在地領主制という。
在地領主制は、封建制社会の基本的な被支配者階級である農民の性格を表現する農奴制と対応関係にある範疇で、両範疇によって封建的な生産関係・階級関係を基本的に説明しうる。したがって、在地領主制は社会構成史的視点から封建制社会を把握しようとするときのもっとも重要な範疇で、このような在地領主制の形成・確立をメルクマールに、古代から中世封建制への移行と封建制社会の特質を把握しようとする理論を在地領主制論という。
在地領主の存在形態を一般化して示すと、次のようになる。
在地領主は居住村落にほぼ方1町(約100メートル)ほどの屋敷地=宅をもつが、それは律令制(りつりょうせい)の「園宅地」の規定を受け継いだ排他的所有地であり、それに付属した領主直営地(門田(かどた)・門畠(かどばた))も宅の延長として、国衙(こくが)や荘園領主の上級領主権の制限を受けながらも本宅敷地とみなされ、この両者が領主の経営と支配の根幹を形づくっている。
宅は、在地領主が「武士」として居住村落を武力的に支配し、他から防衛するための拠点であって、宅の周囲には堀や土塁が巡らされていたため堀内(ほりのうち)、土居(どい)などともいわれ、現在も地名として残っている場合がある。宅内には主人の住居やその付属施設だけではなく、郎従(ろうじゅう)・下人(げにん)らの小屋や厩(うまや)などが存在し、馬場や的場(まとば)さえ存在した。
また、宅と領主直営地は村落を経済的に支配するための拠点であった。宅内には種子などの農料や農具などが蓄積されており、宅に巡らされた堀には、湧水(ゆうすい)や中小河川が取り入れられ、それは村落内耕地の灌漑(かんがい)用水源にもなっていた。このような用水の取り込みによって堀=宅は村落内の用水支配―管理機能を有していたのである。直営地は、この用水の先取りによる村落内でもっとも安定的で生産力の高い耕地であり、村落内の苗代も設置されることがあった。この農料、農具、用水、苗代などの掌握により、在地領主の村落内での経済的優位が保たれるとともに、村落支配の中核を占める村落内勧農を掌握するのである。そして在地領主は村落内勧農の執行を媒介に郡司(ぐんじ)、郷司(ごうじ)などの官職や国衙所職を獲得したり、所領の寄進などを通じて荘司(しょうじ)、下司(げし)などの荘官職を手中にし、勧農権以外にも検断権、収納権などを掌握することによって、村落全域にわたる公的・領域的支配権を確立したのである。
ところで、在地領主という概念を用い、日本の中世社会を領主制の形成・発展の過程として理解しようとしたのは、石母田正(いしもだしょう)『中世的世界の形成』(戦時中執筆、1946発刊)である。石母田は、古代から中世への変革を、領主制の発展が奴隷制的な社会構成としての荘園制を克服していく過程ととらえ、それを伊賀(いが)国黒田荘(三重県名張市)という一荘園の歴史のなかに追究した。そして領主制の確立を領主制が地域的に編成された地域的封建制に求め、それを守護領国制にみいだそうとした。
このような石母田の領主制論に対して鈴木良一(「敗戦後の歴史学における一傾向」『思想』295)、安良城盛昭(あらきもりあき)(「太閤(たいこう)検地の歴史的前提」『歴史学研究』163)などの批判が行われたが、それらを受け止めながら石母田の領主制論を批判的に発展させたのは戸田芳実(よしみ)らである(『日本領主制成立史の研究』)。彼らは封建制社会成立の中核として在地領主制の発展を置きながらも、石母田が荘園制およびその領主としての都市貴族を古代的とした点や、古代的奴隷の発展として農奴を考えようとすることを批判して、荘園領主と在地領主が総体として封建領主階級を構成し、班田農民層の分解のなかから生じた中世的百姓に対する領主制的支配を実現すると考えた。
同じく工藤敬一(けいいち)は戸田らの説を前提に、「勧農機能を基礎とする領主制」を「第一段階の領主制」とし、それが鎌倉中期以降「流通を不可避的にその基礎の一部とする領主制」=「第二段階の領主制」へと移行する過程を追究し、それゆえに彼らが地域的連合を帯びざるをえないことを指摘し、守護領国制、大名領国制への展望を開いた(「鎌倉時代の領主制」『日本史研究』53)。
また、戦後まもなくより、在地領主制の発展過程として中世社会の歴史を把握しようとしてきた永原慶二は、石母田の理解を基本的に受け継ぎながら、領主制の確立を大名領国制に求め、それ以前の中世前期の荘園領主と在地領主とが差異性をもちながらも連合している関係を、「職(しき)」の秩序を媒介にして考えようとしている(『日本中世の社会と国家』)。
このような永原の研究や工藤の提起を受けて、中世後期の在地領主制の展開過程として評価すべきなのは守護大名下の国人(こくじん)領主制であって、そこに基本的な領主―農民関係を設定すべきであるという見解が出されている。
一方、黒田俊雄は、戸田らと同様の石母田批判から出発しながらも、中世社会における在地領主制的な発展を副次的なものとして評価し、荘園領主と農民の間に基本的な階級関係を設定している(『日本中世封建制論』)。
以上のように、石母田の問題提起以来、さまざまな方法で領主制研究は批判され、発展させられてきており、日本の中世封建制社会を分析・理解するうえで、在地領主制が依然重要な範疇であることに変わりはないが、歴史学的範疇として有効性を発揮するためには、全体的な再検討と範疇としての豊富化が、いっそう要求されていることも事実のようである。
[木村茂光]
『石母田正著『中世的世界の形成』(岩波文庫)』▽『安良城盛昭著『日本封建社会成立史論 上』(1984・岩波書店)』▽『永原慶二著『日本封建制成立過程の研究』(1961・岩波書店)』▽『永原慶二著『日本中世の社会と国家』(1982・日本放送出版協会)』▽『戸田芳実著『日本領主制成立史の研究』(1967・岩波書店)』▽『河音能平著『中世封建制成立史論』(1971・東京大学出版会)』▽『大山喬平著『日本中世農村史の研究』(1978・岩波書店)』▽『黒田俊雄著『日本中世封建制論』(1974・東京大学出版会)』▽『佐藤和彦著『南北朝内乱史論』(1979・東京大学出版会)』