日本歴史地名大系 「大田庄」の解説
大田庄
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高野山文書により、ほぼ当庄の構成・推移がわかる。以下同文書によると、荘内は大別して東の桑原方(桑原郷)と西の大田方(大田郷)に分けられ、その境界は現在の甲山町と世羅町の境界に引継がれている。桑原方は
当初は、本家は後白河院、預所は平重衡、下司は橘基兼・橘親光であった。永万二年二月日付備後国大田庄立券文案によって、見作田三〇町八反二六〇歩、仏神田を除くと二一町六反二〇〇歩、在家二六宇、桑二三五本、栗林二町八反と立券された。仁安三年一〇月日付の備後国大田庄下司沙汰人等解并国司外題によると、大田庄下司・沙汰人らが海岸部の
文治二年(一一八六)五月日付後白河院庁下文によって、本家後白河法皇は当庄を紀州高野山金剛峯寺根本大塔領として寄進し、同月一〇日には勅事・院事、大小国役等を免除する太政官符も発給されている。建久元年(一一九〇)六月日付僧鑁阿置文によると、大田庄両郷の見作田六一三町六反六〇歩、仏神田を除く定田五八〇町二反半、うち佃一二町・官物田五六八町二反半(うち定公事名田三三二町)とある。年貢所当としては胡麻三四石、米一千八三八石二斗、半畳一二帖、大幕および巾布六丈、白布毎年一〇段、桑代布四二段であった(建久五年七月七日「僧鑁阿起請相折帳」)。本家後白河法皇の得分は、荘域設定のとき六丈白布一〇〇端とされた(後白河院庁下文)。
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報