大田庄
おおたのしよう
甲山町と世羅町の大部分をおもな荘域とする内陸荘園。永万二年(一一六六)正月一〇日の後白河院庁下文案(高野山文書)によると、世良郡東条内大田・桑原両郷の山林荒野の開発を名目に平重衡から後白河上皇に寄進されたが、同年二月に桑原郷内宇賀村(現甲奴郡甲奴町)を、仁安二年(一一六七)七月には京都円宗寺領を含む戸張保を加えて荘域が定まる(「備後国司庁宣」同文書)。
高野山文書により、ほぼ当庄の構成・推移がわかる。以下同文書によると、荘内は大別して東の桑原方(桑原郷)と西の大田方(大田郷)に分けられ、その境界は現在の甲山町と世羅町の境界に引継がれている。桑原方は上原(現甲山町東上原・西上原・川尻)、小世良(同小世良・甲山)、宇賀、伊尾(桑原郷ともある、現甲山町伊尾・小谷、甲奴郡上下町松崎)、赤屋(現甲山町赤屋)、青近(同青近)の六ヵ郷と村々別作(同別迫など)からなる。大田方には本郷(現世羅町本郷)、寺町(同寺町・堀越)、京丸(同京丸)、安田(同安田)、戸張(同戸張)、黒淵(同黒淵)、吉田(同徳市、双三郡吉舎町徳市)、溝熊(現世羅西町山中福田)、横坂(同長田)の郷名がみられ、安田・戸張・吉田・溝熊は山中四郷と称された。山中郷には黒淵を含むこともあった(→山中郷)。
当初は、本家は後白河院、預所は平重衡、下司は橘基兼・橘親光であった。永万二年二月日付備後国大田庄立券文案によって、見作田三〇町八反二六〇歩、仏神田を除くと二一町六反二〇〇歩、在家二六宇、桑二三五本、栗林二町八反と立券された。仁安三年一〇月日付の備後国大田庄下司沙汰人等解并国司外題によると、大田庄下司・沙汰人らが海岸部の御調郡尾道村(現尾道市)田畠五町を大田庄倉敷地として申請し、認可されている。
文治二年(一一八六)五月日付後白河院庁下文によって、本家後白河法皇は当庄を紀州高野山金剛峯寺根本大塔領として寄進し、同月一〇日には勅事・院事、大小国役等を免除する太政官符も発給されている。建久元年(一一九〇)六月日付僧鑁阿置文によると、大田庄両郷の見作田六一三町六反六〇歩、仏神田を除く定田五八〇町二反半、うち佃一二町・官物田五六八町二反半(うち定公事名田三三二町)とある。年貢所当としては胡麻三四石、米一千八三八石二斗、半畳一二帖、大幕および巾布六丈、白布毎年一〇段、桑代布四二段であった(建久五年七月七日「僧鑁阿起請相折帳」)。本家後白河法皇の得分は、荘域設定のとき六丈白布一〇〇端とされた(後白河院庁下文)。
大田庄
おおたのしよう
興福寺雑役免田である。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の城上郡に「大田庄十九町二反 不輸田畠五町 公田畠十四町二反」とある。
不輸田畠は長谷寺免田であり、その条里(括弧内は坪数)は一八条四里(七)、一九条四里(一)である。公田畠のそれは一七条二里(一)、一八条三里(五)・四里(四)・五里(八)、一九条四里(五)である。この条里によると、大田庄の所在は現大字太田(一八条三里・四里)・穴師(同条五里)・箸中(一九条四里)の三地域に比定される。
大田庄
おおたのしよう
現在の三刀屋町中部(殿河内の大田を遺称とする)に所在した庄園。保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)に山城石清水八幡宮の末社の一つとして大田別宮とみえ、院政期初頭に石清水八幡宮の庄園として成立したと考えられるが、小規模であることもあり、年貢の納入は安田別宮(現伯太町)の領家がまとめて行っていた(石清水文書)。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳写(出雲国造系譜考)の第二番に「大田別宮伍町出雲房」とあり、出雲房なる僧侶が地頭であった。
大田庄
おおたのしよう
近世、浅野氏時代に下田原・上田原・佐部(現古座町)、浦神・粉白・下里・八尺鏡野・市屋・和田・庄・中里・大井・中ノ川・高遠井・長井の諸村を大田庄とよび(慶長検地高目録)、徳川氏時代はこれらに加え大井村より分村した井鹿村を含めて称した(続風土記)。「続風土記」は、「大田の称は中里村の中に大田といふ字のあるより起れり、後世泰地氏此地を領せしより荘名始めて起る、泰地氏没して堀内氏の領となれりといふ、其詳なる事は今知りかたし」とし、また「地やゝ開け、山も亦高からす、平田多く沃腴の形あり、然れとも大田川の傍にあるを以て年々水災を患ふといふ、両涯の山皆雑木にして専薪柴の用に供す」と記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 