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備後国 びんごのくに

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

備後国
びんごのくに

現在の広島県東部。山陽道の一国。上国。古くは吉備国の一部であった。『日本書紀』には崇神天皇のときに皇子吉備津彦をこの地方につかわして平定したとあるが,吉備国には全国でも第4位の規模をもつ造山古墳などがあったことから,5世紀頃には大和朝廷に対抗する大きな勢力であったことが知られる。

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デジタル大辞泉の解説

びんご‐の‐くに【備後国】

備後

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百科事典マイペディアの解説

備後国【びんごのくに】

旧国名。山陽道の一国。現在の広島県東部。もと吉備(きび)国。《延喜式》に上国,14郡。国府は現在の府中市。守護は鎌倉時代に土肥・長井氏,室町時代に細川・山名氏ら。
→関連項目大田荘地【び】荘中国地方広島[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

びんごのくに【備後国】

現在の広島県東部を占めた旧国名。古く吉備(きび)国から備前(びぜん)国岡山県東南部)、備中(びっちゅう)国(岡山県西部)、備後国に分かれた。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府は現在の府中(ふちゅう)市元町(もとまち)、国分寺は福山市神辺(かんなべ)町におかれていた。大宰府(だざいふ)に至る官道があったために、早くから貴族や寺院の荘園(しょうえん)が多く、鎌倉時代は土肥(どひ)氏、長井氏、南北朝時代から室町時代は朝山氏、高(こう)氏、細川氏、山名氏などが守護となった。戦国時代には大内氏尼子(あまこ)氏の間で勢力争いが続いたが、のちに毛利氏の支配下に入った。江戸時代には広島藩福山藩と幕府直轄領がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により広島県、深津(ふかづ)県が誕生。深津県は翌年に小田(おだ)県と改称、1875年(明治8)の岡山県編入を経て、翌年に広島県に編入された。◇備前国、備中国、備後国を合わせて備州(びしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

びんごのくに【備後国】

旧国名。現在の広島県東部。
【古代】
 山陽道に属する上国(《延喜式》)。古く吉備(きび)国といわれた地域の一部で,大化改新後に吉備総領が任ぜられたが,天武・持統朝ごろ分割されて,備前,備中,備後国が成立した。697年(文武1)閏12月には正史に備前,備中という国名が記されているので,当然備後国も存在したはずである。国府は《和名類聚抄》には葦田(あしだ)郡にありと記され,現在の広島県府中市域の旧国府村大字府川の地にあったと考えられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

備後国
びんごのくに

現在の広島県東部にあたる旧国名。山陽道に属した。[青野春水]

古代

『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、備後国はもと吉備(きび)国に属していたが、697年(文武天皇1)ころまでに備前(びぜん)(713年美作(みまさか)を分出)、備中(びっちゅう)、備後に3分割されて成立していたと推察される。『延喜式(えんぎしき)』によると、国の等級は上国であり、都からの距離による区分では中国であった。国府の所在地は、『和名抄(わみょうしょう)』には葦田(あしだ)郡と記され、現府中市府川(ふかわ)町に比定されるが、備後国が設置された当初の所在地としては、現福山(ふくやま)市に比定する説もある。『和名抄』(東急本)によると、備後国は安那(やすな)、深津(ふかつ)、神石(かめし)(のち、じんせき)、奴可(ぬか)、沼隈(ぬまくま)、品治(ほむち)(のち、ほんじ)、葦田(あしだ)、甲奴(こうぬ)、三上(みかみ)、恵蘇(えそ)、御調(みつぎ)、世羅(せら)、三谿(みたに)、三次(みよし)の14郡からなる。以後郡名は、明治の新郡編成まで存続した。[青野春水]

中世

備後国には初期荘園(しょうえん)を含めて志摩利(しまり)庄・地(じび)庄・田総(たぶさ)庄・高富(たかとみ)庄・深津(ふかつ)庄・吉津(よしづ)庄・坪生(つぼう)庄・長和(ながわ)庄・山南(さんな)庄・大田(おおた)庄・杭(くい)庄・木梨(きなし)庄・沼田(ぬた)庄・因島(いんのしま)庄など多くの荘園が存在したが、なかでも12世紀後期に成立した世羅郡の大田庄が有名である。備後国の守護に、1184年(元暦1)土肥実平(どいさねひら)が、承久(じょうきゅう)の乱後は長井氏(大江広元(おおえのひろもと)の子時広(ときひろ)を始祖とする)が、南北朝期には細川(ほそかわ)、渋川(しぶかわ)、今川(いまがわ)の各氏が、1379年(天授5・康暦1)以後は主として山名(やまな)氏が、それぞれ任ぜられた。応仁(おうにん)の乱(1467~77)後は大内(おおうち)氏、尼子(あまご)氏の勢力が入るが、1566年(永禄9)ころから毛利(もうり)氏が大内氏にかわって備後を支配することとなった。また瀬戸内海では水上交通が発達、朝鮮や中国大陸との交易も盛んに行われた。因島の村上氏は代表的な海賊衆(警固=水軍、海商)で、因島を拠点として室町時代活躍した。[青野春水]

近世

1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで敗北した毛利輝元(てるもと)は、防長(ぼうちょう)2州に移封され、かわって福島正則(まさのり)が安芸(あき)、備後両国49万8000石の領主として広島城に入り、両国の近世化を推し進めた。しかし無許可で広島城を修築したという理由で1619年(元和5)改易され、かわって安芸国には浅野長晟(ながあきら)が、備後国に水野勝成(かつなり)が入封した。以後広島城主浅野氏は安芸国と備後国北部を明治初年まで支配した。入封後、福山に城を構え備後国南部10万石を支配してきた水野氏は、継嗣(けいし)なく1698年(元禄11)改易され、この地は天領となる。翌年検地の結果、旧水野領は15万石となり、さらに翌年松平忠雅(ただまさ)領(福山藩)10万石と天領5万石(上下(じょうげ)代官所支配。1717年うち2万石は中津(なかつ)領となる)に分割された。松平氏の転封により1710年(宝永7)以後、福山領10万石は阿部(あべ)領となり、1853年(嘉永6)1万石加増され、明治初年に至る。このように水野氏以後、備後国福山藩には代々譜代(ふだい)大名が配置されたが、なかでも阿部氏は正弘(まさひろ)をはじめ多くの老中を出した。
 物産としては砂鉄、藺草(いぐさ)、畳表、綿、木綿織、塩などが生産されたが、とくに綿、木綿織や畳表は福山藩のもっとも重要な物産で藩の統制を受けていた。またたびたび百姓一揆(いっき)が起こり、とくに1717~18年(享保2~3)、1786~87年(天明6~7)に起こった福山藩の惣(そう)百姓一揆は有名である。山陽道が備後国南部を通り、道中の神辺宿(かんなべじゅく)では、菅茶山(かんちゃざん)が廉塾(れんじゅく)(特別史跡)を創設し多くの子弟を教育した。なお備後国には多くの遺跡があり、なかでも備北の旧石器時代の帝釈峡(たいしゃくきょう)遺跡、備南芦田(あしだ)川河口の草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡がよく知られている。[青野春水]
『後藤陽一著『広島県の歴史』(1972・山川出版社) ▽『広島県史』全27巻(1972~83・広島県) ▽福尾猛市郎監修『広島――歴史と文化』(1980・講談社) ▽『福山市史』全3巻(1963~73・福山市史編纂会) ▽『三原市史』全7巻(1970~ ・三原市)』

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