朝日日本歴史人物事典 「橘耕斎」の解説
橘耕斎
生年:文政3(1820)
幕末明治期の洋学者。遠江国(静岡県)掛川藩士で立花とも称したが,脱藩して伊豆国(静岡県)戸田村の蓮華寺に寄寓。ロシア使節プチャーチン一行が戸田村に滞留中,中国語通訳官ゴシケヴィチと知り合い,随行して安政2(1855)年ロシアに渡航。ゴシケヴィチと共編の日露辞典『和魯通言比考』を刊行。ロシア正教の洗礼を受け結婚,ヤマトフ(大和夫)と称した。ロシア外務省アジア局通訳官,ペテルブルグ大学東洋語学部日本語教師を勤務。明治7(1874)年帰国,増田甲斎と改名し仏門に入る。墓は源昌寺(東京都港区)。<参考文献>中村喜和「橘耕斎伝」(『一橋論叢』63巻4号)
(吉田厚子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報