水谷勝隆(読み)みずのや かつたか

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水谷勝隆」の解説

水谷勝隆 みずのや-かつたか

1597-1664 江戸時代前期の大名
慶長2年生まれ。水谷勝俊長男。慶長11年常陸(ひたち)(茨城県)下館(しもだて)藩主水谷家2代。備中(びっちゅう)(岡山県)成羽(なりは)藩をへて,寛永19年備中松山藩主水谷家初代となる。5万石。松山-新見間に高瀬舟をとおしたほか玉島新田をひらいた。寛文4年閏(うるう)5月3日死去。68歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の水谷勝隆の言及

【玉島】より

…この一帯は近世初頭までは海が湾入し,南に乙(おと)島,柏島が浮かんでいたが,高梁川の沖積作用と干拓によって陸繫化した。1642年(寛永19)松山(現,高梁市)に封ぜられて乙島・柏島を領した水谷(みずのや)勝隆が地先海面の干拓をすすめ,46年(正保3)から75年(延宝3)にかけて,勇崎,玉島,勇崎外,勇崎押山などの諸新田が完成,港もしだいに整備され,玉島港は高梁川流域の米,綿などを移出し,また西国航路の要港として,北海産の干鰯(ほしか),鰊粕(にしんかす)などを移入して繁栄した。しかし江戸末期には水深が浅くなって港の機能が衰え,1891年山陽鉄道が中心街を離れて開通し,港町の役割をいっそう低下させた。…

【備中国】より

…17年山崎家治が3万石を領して川上郡成羽(なりわ)に陣屋をもって立藩した成羽藩は外様小藩。家治は間もなく移封し39年(寛永16)水谷勝隆が5万石を領して入封したが,42年備中松山に移ったので廃藩となった。58年(万治1)より交代寄合の山崎氏(元藩主の分家)が5000石で成羽に陣屋を構えていたが,1868年(明治1)1万石余に高直しされ再び立藩した。…

※「水谷勝隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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