フランスの劇作家、俳優。本名ジャン・バチスト・ポクランJean-Baptiste Poquelin。1月15日、富裕な室内装飾業者の長男としてパリに生まれる。当時の町人の子弟としては最高に近い教育を受けたが、学業を終えるころ女優マドレーヌ・ベジャールMadeleine Béjart(1618―73)と知り合い、家業を放擲(ほうてき)して「盛名劇団」Illustre Théâtreを結成し演劇への第一歩を踏み出した。劇団は客足を支えきれずに解散し、モリエールは同志とともに南フランス巡業の旅に出る。地方貴族の庇護(ひご)を仰ぎつつ十数年にわたってフランス中部・南西部を移動する間、劇団はしだいに実力を増し、リヨンに本拠を置く有力な地方劇団に成長する。モリエールはこの間劇団経営者として頭角を現し、同時にイタリア即興劇の系統を引く演技術・作劇法を身につけたものと推定される。1658年「王弟殿下の劇団」の肩書を得てパリに帰り、ルイ14世の前で演じた舞台が国王の意にかなったため、王室所有のプチ・ブルボン劇場の使用を許される。翌59年、笑劇仕立ての斬新(ざんしん)な風刺劇『才女気取り』の成功により地歩を築き、ついでアルノルフArnolpheという個性的な人物の創造によりこの期の頂点をなした『女房学校』(1662)によって名声を高めた。モリエールは「優れた劇詩人」の資格で国王より年金を賜る。この間一座はパレ・ロアイヤル劇場に移り、ここを終生の本拠とする。モリエールが20歳年下の一座の女優アルマンド・ベジャールArmande Béjart(1642?―1700)(マドレーヌの妹とも娘ともいわれる)と結婚したのもこのころ(1662)であった。
[井村順一]
モリエールの功績は、それまで悲劇よりも一段低いジャンルとみなされていた喜劇の地位を高めたことにある。その作法は、人物・風俗の的確な描写、観客を喜ばせることを第一義に置く展開、人物の内面にドラマを認めようとする性格・心理劇への志向、に要約されよう。演技・朗唱法についても独自の見解をもち、既成劇団の悲劇俳優にみられる誇張を排し、自然な発声法、わざとらしさのない演技を強調している。新しい型の喜劇『女房学校』に攻撃の矢を向けた劇壇・文壇の旧勢力に対抗し、モリエールはこうした自説をもとに、『女房学校批判』(1663)、『ベルサイユの即興劇』(1663)二作によって論陣を張った。これらの主張を具現し、古典喜劇の完成を告げた傑作が『タルチュフ』(1664)および『人間嫌い』(1666)である。
1664年5月、ルイ14世は新宮殿ベルサイユにおいて1週間にわたるフェスティバル「魔法の島の歓楽」を催し、モリエールと作曲家リュリに演劇、音楽を担当させた。この催しに『タルチュフ』(三幕)が参加している(ただし今日に残る五幕物『タルチュフ』のパレ・ロアイヤル劇場初演は1667年)。にせ信者を主題にしたこの作品は、当時絶大な権力を握っていた教会側、とくにイエズス会系の結社「聖体秘蹟(ひせき)協会」を刺激し、67年、1回の公演ののちただちに上演禁止処分に付され、続演許可は69年になるまで下りなかった。人間の自然をゆがめようとするものに注がれるモリエールの批判の目は、こうして教会勢力との対立を余儀なくされたのである。偽善者への憤激は、この処分による穴を埋めるために急遽(きゅうきょ)書かれた『ドン・ジュアン』(1665)や、その翌年発表された『人間嫌い』のなかにも強く後を引いている。『タルチュフ』のあとのこの二作はともに主人公の性格が強く打ち出されている大作だが、その構成は対照的で、『ドン・ジュアン』では古典劇理論のなかでもことに重要な三一致の法則が無視され、ドン・ジュアン‐スガナレルDon Juan-Sganarelleという主従のコンビを軸にさまざまな局面が展開されるという特異な形式をとっている。これに対し『人間嫌い』は、笑劇的手法を極度に排し、主人公の心理の動きを中心に据えるというもっとも古典主義的な方法によっているのである。
[井村順一]
晩年の諸作品は多彩であり、傾向としては、『タルチュフ』『人間嫌い』に代表される本格喜劇の方向よりもむしろ、劇構成の様式化を目ざした軽快な喜劇への志向がうかがえる。おもな作品としては、中世のファブリオーに材を仰いだ『いやいやながら医者にされ』(1666)、ギリシア神話の体裁で宮廷の暗喩(あんゆ)を行った『アンフィトリヨン』(1668)、リュリ作曲のコメディ・バレエを代表する『町人貴族』(1670)、イタリア風笑劇を均斉のとれた構図で再現した『スカパンの悪だくみ』(1671)。また吝嗇漢(りんしょくかん)の典型を描いた『守銭奴』(1668)と、『才女気取り』で扱ったいわゆる才女をふたたび取り上げた社会風刺劇『女学者』(1672)はともに大規模な作品として注目される。これらのなかでとくに目だつ筋立ては、家長権(親)に対抗する若者(息子、娘)の恋とそれを助ける召使い、という『タルチュフ』以来のテーマで、この図式はますます緊密な形をとってドラマを動かしている。医学風刺の喜劇『病は気から』がモリエールの最後の作となった。持病の胸部疾患をおして主人公を演じたモリエールは、公演の4日目、1673年2月17日、演技中咳(せき)の発作に襲われ、舞台を勤め上げるとそのまま倒れ、自宅に運ばれたが大量の喀血(かっけつ)ののち息を引き取ったといわれる。
モリエールの死後、未亡人アルマンドは俳優たちを率いゲネゴー座に移ったが、一座は1680年国王の命により、対抗勢力であったオテル・ド・ブルゴーニュ座と合併し、ここに新たに「国王の劇団」が結成された。現在の国立劇場コメディ・フランセーズ(一名、モリエールの家)の前身である。モリエールの作品は以後現在に至るまでこの劇場のもっとも重要なレパートリーとして上演を繰り返されているが、こうした評価は、時の風俗に鋭敏な目を向けた作者の良識と批判精神に裏づけられた諸作品が時代を超えた普遍的人間像を描いていることの証左であろう。
[井村順一]
『鈴木力衛訳『モリエール全集』全4巻(1973・中央公論社)』▽『鈴木力衛他訳『モリエール名作集』(1951・白水社)』▽『有永弘人他訳『モリエール笑劇集』(1959・白水社)』▽『小場瀬卓三著『フランス古典喜劇成立史――モリエール研究』(1970・法政大学出版局)』▽『小場瀬卓三著『モリエール――時代と思想』(1949・日本評論社)』▽『小場瀬卓三著『モリエールのドラマツルギー』(1957・白水社)』
フランスの代表的喜劇作家,俳優,演出家。本名Jean-Baptiste Poquelin。王室御用室内装飾業者の長男としてパリに生まれる。コレージュ・ド・クレルモン,オルレアン大学で学びシャペルらの自由思想家と親交を結ぶ。家業を継ぐ予定だったが,1642年ころ女優マドレーヌ・ベジャールと恋に落ち,芝居の道に入る。43年ベジャール兄妹(ベジャール一家)らと〈盛名座〉を結成するが2年たらずで破産。45年末,一同は旅回りの一座に加わって都落ちし,13年余にわたる南フランス巡業を行った。この期間に彼は役者修業のかたわらイタリアの筋立て喜劇,コメディア・デラルテ,スペイン喜劇,ゴロア笑劇,ラテン喜劇を学び作品を書き出す。初期は一幕物の笑劇が大部分だが,本格喜劇としてイタリア物の翻案《粗忽者》(1655),《痴話喧嘩》(1656)がある。座長となった彼は58年,一座に〈王弟殿下の劇団〉の名をもらい,ルイ14世の御前公演で演じた《恋する博士》によって面目を施し,パリの劇場に進出を許される。サロンの衒学趣味にかぶれた田舎娘を通じて浅薄な流行を風刺した《才女気取り》(1659)でまず成功,翌年,笑劇《スガナレル》では,いわゆるモリエール的人物の嚆矢(こうし)である滑稽で醜悪,殻に閉じこもって他を顧みぬ主人公を自演する。
傑作《女房学校》(1662)は前年発表の《亭主学校》を発展させ,結婚問題をテーマとした作品。人間性をねじ曲げようと試みるアルノルフの敗北に,風俗を描く画家と称された作者の鋭い視座がある。作品の大成功はライバルの反発を買い,その後1年ほど対立劇団の役者・作者らとの間に〈喜劇の戦い〉が起こる。62年,マドレーヌの末妹(あるいは娘?)アルマンドと結婚。64年ベルサイユ宮での大饗宴〈魔法の島の楽しみ〉6日目に上演された《タルチュフ》は宗教的偽善批判の激しさに物議をかもし上演禁止となる(1669解禁)。翌年発表の《ドン・ジュアン》も前作の延長線上にあり,15回上演後打ち切られて19世紀半ばまで再演されない。当時の大貴族をモデルにしたドン・ジュアンと無責任で迎合的な下僕スガナレルのコンビが鮮やかである。
66年の《人間嫌い》は性格喜劇で,古典喜劇形式を完璧の域に高めた。これ以後モリエールは健康状態の悪化,妻との不和などの悪条件にめげず多様な作品を次々と発表する。ヘラクレス誕生伝説による《アンフィトリヨン》,貴族と町人の結婚を槍玉にあげた《ジョルジュ・ダンダン》,吝嗇漢(りんしよくかん)の典型を描いた《守銭奴》(いずれも1668)をはじめ,70年舞踊喜劇《町人貴族》,71年笑劇《スカパンの悪だくみ》,72年本格韻文喜劇《女学者》,73年医者を徹底的に風刺した《病いは気から》などである。この作品上演4日目,舞台で発作を起こした彼は数度の大喀血の後死去。真の演劇人として舞台に己れのすべてを賭した生涯であった。古典喜劇の完成者として良識,理性,自然,安定したバランス感覚を示す一方で,笑劇や道化芝居の技法に裏打ちされた豊かではつらつたる笑い,風俗の綿密な観察に基づく性格描写と風刺精神がモリエール劇の中核を成している。喜劇役者として一流であったが,悲劇役者としては成功しなかった。
モリエールの作品は1680年創立のコメディ・フランセーズの演目の重要部分を占め,彼自身は《人間嫌い》に象徴される静かな笑いの代表者とみなされた。17世紀末,ダンクール,ルニャールらの風俗喜劇の手本とされるとともに,18世紀後半,ボーマルシェの《セビリャの理髪師》《フィガロの結婚》における劇作術,主人公の人物像に大きな影響を及ぼした。19世紀末までは,彼の文学性がもっぱら重んじられたが,20世紀に入って,コポーをはじめ,ジュベ,プランション,ムヌーシュキンらの努力で,彼の多彩な劇的宇宙が再構築されている。
執筆者:鈴木 康司
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1622~73
フランス古典喜劇作家。座長,俳優として旅回りののち『才女気取り』で成功。その描く人物のいくつかは永遠の典型として残っている。代表作『ル・ミザントロープ』『タルチュフ』『守銭奴』など。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…75年には現代の移民労働者と資本家の対立を,アルレッキーノを主人公とするコメディア・デラルテの即興性を生かした集団創作によるパロディ劇《黄金時代L’âge d’or》に仕立てあげ,すり鉢形に傾斜した客席が舞台を囲む特殊な空間構造が再び評判となった。76年には初めて4時間に及ぶ大作映画《モリエール》を製作,その後劇団の運営方法をめぐって創立メンバーが脱退したりしたが,81年には東洋演劇の手法をとり入れたシェークスピアの《リチャード2世》《十二夜》《ヘンリー4世》を連続上演,以後も再び活発な活動を続けている。【利光 哲夫】。…
…モリエール作,韻文5幕,1672年初演。作者最後の本格喜劇で,主題は女性の浅薄な学問流行を批判するもの。…
…だがいうまでもなく,そのことが,いわゆる〈喜劇〉の中に含まれる特有の精神的価値を損なうわけではなく,その本来的な批判精神とそれが人々に及ぼす精神的な効果(笑い,思考への刺激)というものは,今日の社会においても,なんらかの意味を持つといってよいであろう。
[ギリシア喜劇からモリエールまで]
コメディcomedyの語源は,ギリシア語のkōmos(祭宴の行列)とōidē(歌)を重ねたコモイディアkōmōidiaに由来する。古代ギリシアのディオニュソスをたたえ豊饒を祝う祝祭行列,男根儀礼,為政者に対する風刺批判の歌などが劇形式に発展し,前5世紀には,喜劇として完成した形式をもつようになる。…
…モリエール作の舞踊喜劇。5幕散文。…
…フランスの劇作家モリエール作の性格喜劇。5幕韻文。…
…中世から現代に至るフランス演劇の大きな特徴は,(1)歴史的には,17世紀に起こった一連の変化・断絶を軸として,それ以前とそれ以後に大別され,17世紀以降の演劇の多くのものが,劇場における上演という形にせよ,劇文学の読書という形にせよ,今日まで一応は連続して共有されてきたのに対し,17世紀以前の演劇は,少数の例外を除いて,演劇史あるいは文学史の〈知識〉にとどまること,(2)構造的には,17世紀に舞台芸術諸ジャンルの枠組み(〈言葉の演劇〉,オペラ,バレエ等)が成立し,国庫補助を含むその制度化(王立音楽アカデミーは1669年,コメディ・フランセーズは1680年に開設された)が進むと,演劇活動のパリの劇場への集中化が行われ,演劇表現内部における〈言葉の演劇〉の優位とそれに伴う文学戯曲重視の伝統が確立したことである。特に最後の点は,コルネイユ,モリエール,ラシーヌに代表される劇文学が,一般に諸芸術の内部で規範と見なされるに至ったことと相まって,以後300年のフランス演劇とフランス文化に決定的な役割を果たした。
【中世――宗教劇と世俗劇】
中世フランスは,ヨーロッパの中でも,宗教劇・世俗劇ともに隆盛を見た地域だった。…
…モンドリーの病気引退(1636)後,力を取り戻し,座長フロリドールFloridor(?‐1672)の率いる〈ブルゴーニュ座国王付き劇団〉が発足し人気を得た。58年モリエールがパリに戻ると一時人気を奪われたが,J.ラシーヌの傑作悲劇を次々に初演して再び全盛時代をつくった。73年モリエールの死により,マレー座とモリエール一座が合併しゲネゴー座Théâtre Guénégaudとなったが,80年には王命によってこのゲネゴー座とブルゴーニュ座劇団が合体し,コメディ・フランセーズが生まれた。…
※「モリエール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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