秋田藩 (あきたはん)
出羽国久保田に藩庁を置いた外様大藩。維新当時の正式名は久保田藩であるが,1871年(明治4)1月秋田藩と改称し,一般に秋田藩と呼ぶことが多い。佐竹義宣は関ヶ原の戦後の1602年(慶長7)常陸54万石から秋田20万石(領地高は1664年確定)に移封を命じられる。出羽国秋田,檜山(ひやま)(1664以降山本),豊島(としま)(同河辺),山本(同仙北(せんぼく)),平鹿,雄勝の6郡と下野国河内,都賀郡のうち11ヵ村を領有。移封後の領内統治のため旧城に重臣を配置した。要所の十二所,大館城,檜山,角館,横手城,湯沢,院内などは所預(ところあずかり)として幕末まで存続した。農村統治面では,先竿(1603ころ),中竿(1613ころ),後竿(1646-48)の領内一斉検地を施行。各検地終了後,村に黒印御定書を配布して,物成や諸役の上納額を示すとともに生活規制を行う。この黒印村が行政単位の村で寄郷(よりごう)とも呼ばれ,およそ800ヵ村あった。村には肝煎(きもいり),長百姓(組頭)が置かれた。また藩の土地は蔵分3割,給分7割で地方知行は幕末まで存続した。ただし,一所性がしだいに分散,錯綜化をたどる。政治体制は初期の場合,藩主専制で家老,年寄が補佐した。合議制は1667年(寛文7)城内に家老御用部屋の設置から始まり,73年に評定所が設置され家老,奉行の協議の場となる。1701年(元禄14)会所と呼び,25年(享保10)には政務所と改称。また政治組織面では1676年(延宝4)三方(さんかた)が整備された。すなわち,政務の取次ぎなどを行う御側方(おそばかた),財政や民政を担当する表方,警備や軍事の番方であった。藩財政面では初期に〈国の宝は山なり〉といわれたように,院内銀山,阿仁鉱山などの鉱山や山林資源を開発し,藩財政に寄与したが永続しなかった。藩財政は80年には銀4944貫目の借財が生じ,1698-1712年(元禄11-正徳2)ころは一時好転するが,その後悪化の一途をたどる。これを克服するため,役銀の増徴や御用銀の課税などを行い,1659年(万治2)から家臣の知行借上を開始し,以後続ける。1721年家老今宮大学は行財政改革の一つとして給地の蔵入化を献策するが実現しなかった。また,55年(宝暦5)には財政の安定を図るため銀札を発行するが失敗。84年(天明4)には当高1石につき1石3斗を徴収する十三新法が計画される。これは正租および諸役銀をまとめて米納化する案であったが実現せず,89年(寛政1)には御条目を出して改革に着手する。郡奉行を設置して農村再興を意図し,また積極的な殖産興業策を打ち出した。中でも養蚕業の殖産が進められた。しかし,1833年(天保4)には〈巳年のケカチ〉といわれた大飢饉が生じ,〈飲食飽満信士〉の戒名がつけられるほどであった。これが角館を中心とした天保一揆の引金となった。そして,維新を迎えた秋田藩は勤王と佐幕の中で動揺するが,平田派国学の信奉者たちがクーデタを起こし,一藩勤王に転換した。これにより東北諸藩の中で孤立し,周囲から攻撃を受け,3分の2が戦場となり4700戸が焼失した。71年廃藩置県によって秋田県となった。
執筆者:国安 寛
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秋田藩
あきたはん
出羽(でわ)国北半の秋田、仙北(せんぼく)6郡(秋田県)を支配した藩。久保田(くぼた)藩ともいう。藩主佐竹(さたけ)氏。外様(とざま)。関ヶ原の戦いの結果、1602年(慶長7)佐竹義宣(よしのぶ)が常陸(ひたち)(54万石余)から、北羽の安東、戸沢、小野寺、本堂、六郷氏などの旧領に転封、新たに久保田(秋田市)に築城、ここを城下町として廃藩置県に至る。1664年(寛文4)出羽6郡20万石、下野(しもつけ)(栃木県)のうち5800石余の知行(ちぎょう)高が確定した。1603年(慶長8)からの3回に及ぶ一斉検地とこれに伴う貢租(こうそ)制の完成、領内9か所への家臣団の配備、蔵分支配の集中化などを経て、寛文(かんぶん)~天和(てんな)期(1661~1684)のころに藩制が確立した。藩初から新田開発と鉱山、山林経営に力を注ぎ、当初20万石余の石高が17世紀末には39万石余となり、また院内(いんない)銀山、阿仁(あに)銅山など国内屈指の鉱山の稼行も盛んであり、「国の宝は山なり(中略)山の衰えは即(すなわ)ち国の衰えなり」を国是として山林育成にも努めた。義宣のとき山奉行(ぶぎょう)、勘定奉行、家老を歴任した梅津政景(うめづまさかげ)の日記は初期藩政史の重要史料である。19世紀初頭にも佐竹義和(さたけよしまさ)の殖産興業などがあり、産業開発にも努力したが、耕地の8割近くが水田であり、米のほかみるべき農産物がなく、米(65%)と鉱産物(20%)を移出し、木綿、棉(わた)、塩、紙などを移入する典型的な経済的後進地であった。当高10石について8石余相当の過重な貢租収奪は農村の発展を阻害することが多く、また藩高の7割5分前後が地方知行(じかたちぎょう)を基本とする家臣給分のため、藩の財政難はすでに17世紀中葉から顕在化し、知行借上げは6割にも達したが、その克服は不可能であった。文教、文化面では、平田篤胤(ひらたあつたね)、佐藤信淵(さとうのぶひろ)、安藤昌益(あんどうしょうえき)らが知られ、全国に先駆けて洋画の手法を取り入れた秋田蘭画(あきたらんが)の出現など注目すべきものがある。なおこの藩は、戊辰(ぼしん)戦争に際し、孤軍よく奥羽越(おううえつ)列藩同盟軍と対抗したことでも知られている。1871年(明治4)秋田県に編入。
[半田市太郎]
『『秋田県史 2・3』(1965・秋田県)』
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あきたはん【秋田藩】
江戸時代、出羽(でわ)国秋田郡久保田(現、秋田県秋田市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明徳館(めいとくかん)。戦国時代はこの地域を秋田氏が治めていたが、石田三成(みつなり)についていた常陸(ひたち)国54万石の佐竹義宣(さたけよしのぶ)が関ヶ原の戦いで徳川家康(とくがわいえやす)からあいまいな態度を憎まれ、1602年(慶長(けいちょう)7)、当地20万石に減転封(げんてんぽう)(国替(くにがえ))された。秋田氏は逆に常陸国宍戸(ししど)に転封となった。以後当地は明治維新まで佐竹氏12代が続いた。1603年(慶長8)から3回に及ぶ一斉検地を実施、それをもとに上納額を定め、また領内9ヵ所へ家臣団を配備して、寛文(かんぶん)~天和(てんな)期(1661~84年)に藩制が確立した。以後、米と銀や銅が藩財政を支えたが、過重な貢租にもかかわらず、地方家臣への給分が7割を占めたことなどから藩は常に財政難を抱えることになった。1833年(天保(てんぽう)4)からの天保の飢饉では大きな被害を受け、一揆が頻発した。一方、文化面では、江戸中期の社会思想家安藤昌益(しょうえき)、後期の国学者平田篤胤(あつたね)、農政学者佐藤信淵(のぶひろ)らを輩出した。幕末には平田派国学の徒がクーデタを起こして勤王に転換したが、東北諸藩のなかでは孤立し、領地が戦場と化した。1871年(明治4)の廃藩置県で秋田県に編入された。◇江戸期の正式な藩名は久保田藩。
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秋田藩
あきたはん
久保田藩ともいう。江戸時代,出羽国秋田地方 (秋田県) を領有した藩。室町時代以来この地を領有していた秋田氏が,関ヶ原の戦いで西軍に加担したため,慶長5 (1600) 年常陸 (茨城県) 宍戸へ移され,同7年に常陸水戸 54万 6000石を領していた佐竹義宣が同じく西軍に呼応したかどで 20万 5800石に減封されてこの地に移った。以後外様大名佐竹氏が 13代にわたって在封,廃藩置県に及んだ。江戸城大広間詰。義宣は,久保田城を築き,城下に久保田町を開き,梅津政景を用いて院内銀山を経営するなど藩政確立に努めた。元禄 14 (1701) 年,弟義長に新田2万石を,甥義都 (よしくに) に同1万石を分与して,それぞれ岩崎藩,久保田新田藩を起したが,後者は享保 17 (32) 年宗藩に返還された。 10代義和 (よしまさ) は藩政改革を試み,13代義堯 (よしたか) は奥羽越列藩同盟に加盟した佐幕諸藩に対し孤軍奮闘した。明治5 (1872) 年の禄高は内高 60万石,実高 80万石。
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秋田藩
あきたはん
久保田藩とも。出羽国久保田(現,秋田市)を城地とする外様大藩。1602年(慶長7)戦国大名の系譜を引く佐竹義宣が,常陸国水戸から転封して成立。以後12代にわたる。表高は,出羽国秋田・仙北・河辺・山本・平鹿・雄勝6郡と,下野国河内・都賀両郡で20万5810石。入封後に先竿・中竿・後竿の3検地を行い,また角館(かくのだて)や湯沢に一門や有力家臣を配して(所預(ところあずかり))領内の掌握につとめた。秋田杉に代表される山林資源や院内銀山・阿仁(あに)銅山などの鉱山資源に恵まれる。産出した銅は,長崎貿易の主要な輸出品でもあった。詰席は大広間。藩校明徳館。支藩に秋田新田藩。廃藩後は秋田県となる。
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秋田藩
あきたはん
江戸時代,久保田(秋田市)を城下町とし,出羽国秋田地方を領した外様藩
関ケ原の戦いののち,1602年,鎌倉時代以来の領主秋田氏に代わって,常陸 (ひたち) から佐竹氏が移封され,明治維新に至る。表高20万石。幕末の藩主義堯 (よしたか) は尊王攘夷派として活躍,戊辰 (ぼしん) 戦争に際して奥羽越列藩同盟に対抗して功を認められた。
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秋田藩
出羽国、秋田地方(現:秋田県秋田市)の久保田を拠点とした外様藩、久保田藩の別称。
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世界大百科事典(旧版)内の秋田藩の言及
【梅津政景日記】より
…出羽秋田藩主佐竹義宣の家臣梅津政景の日記。原本21巻25冊。…
【久保田】より
…出羽国秋田郡の佐竹氏(秋田藩)の城下町。現在の秋田市。…
【佐竹騒動】より
…1755‐57年(宝暦5‐7)ごろに秋田藩主佐竹氏の世嗣問題と銀札(藩札の一種)の発行問題がからんで生じた事件。これを題材とした読本に《秋田杉直(なおし)物語》《秋田治乱記》がある。…
【出羽国】より
…17世紀初頭に各藩とも総検地を実施して,実際の村高を把握したが,藩の実高は幕府の朱印高に対して大幅の増加をみている。例えば表高30万石の[米沢藩]の実高は51万石余,[秋田藩](20万石)は実高30万石余を打ちだした。1647年(正保4)の出羽国絵図によれば,置賜,村山,最上,田川,櫛引,遊佐,油利,雄勝,平刈(平鹿),山本,豊嶋,秋田,檜山の13郡があり,石高の合計は95万石余で,その領域は佐竹(秋田),上杉(米沢),松平(山形),酒井(鶴岡)などのほか幕府代官領(11万石余),寺社領(1万7000石余)など14に色分けしているが,その石高合計は幕府への届高と同じである。…
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