江戸時代,将軍の代替りに際して全国の施政・民情を査察するため派遣された幕府の上使。1633年(寛永10),67年(寛文7),81年(天和1),1710年(宝永7),16年(享保1),46年(延享3),60年(宝暦10),88年(天明8),1838年(天保9)に派遣。また1664年と71年に関東のみ,1712-13年(正徳2-3)に幕領のみ派遣。最初の寛永の巡見使は,大御所徳川秀忠が死去し3代将軍家光が名実ともに政権を掌握したのを機に,また寛文の巡見使は4代家綱の政権の確立期に,それぞれ派遣されたが,5代綱吉の天和の巡見使以降,代替り直後に派遣されるようになった。
巡見使は原則として全国に派遣されたが,寛永の場合は6ブロックに3人ずつ(万石以上,使番,両番(書院番と小性組)により構成),寛文の場合は〈陸方衆〉として6ブロック(ただし1664年派遣の関東を除く)に3人ずつ(使番,書院番,小性組により構成),〈海辺衆〉として2ブロックに2人ずつ(船手等により構成),天和と宝永の場合は8ブロックに3人ずつ(使番1人,両番2人により構成)の編成で,御料(幕領と天領)・私領の区別はなかった。ところが宝永の巡見使のもたらした報告により全国の施政・民情の実態を知った幕府は,とくに直轄領の監察強化を企図し,1712年から翌年にかけて,全国の幕領を14のブロックに分け,各3人ずつ(勘定,支配勘定,徒目付(かちめつけ)により構成)の〈国々御料所村々〉巡見使を派遣した。そして幕領改革をさらに推進すべく,7代家継の1716年に,〈御料巡見使〉を再遣したが,その最中に家継は死去,そのため8代吉宗の代替り巡見使は私領のみ,8ブロックに3人ずつ派遣された。こののち巡見使は御料・私領別々に編成されるようになり,9代家重の代替り,延享の巡見使は〈諸国巡見〉として私領を8ブロックに,〈御料所国々巡見〉として幕領を11ブロックに分け,各3人ずつ派遣され,以後この派遣形態に変化はなかった。
発遣にあたって,巡見使の心得,あるいは巡見使を迎える側の心得を示した条目が発せられるのを例とした。また巡見使の監察項目は多岐にわたっていたが,例えば寛文の〈陸方衆〉の場合,(1)御料・私領の仕置の善悪,(2)キリシタン宗門の仕置と盗賊等の仕置の様子,(3)運上による物価騰貴の有無,(4)公儀の仕置との異同,(5)〆買・〆売の有無,(6)金銀米銭の相場等の調査を指示されていた。巡見使の査察・査問に対しては各地で周到な準備がなされ,予想される質問に対する答弁案を記した〈巡見扇〉等が作られたところもあった。なお巡見使の送迎・接待は村方の大きな負担となった。
1853年(嘉永6),13代家定の代替りに至り,巡見使発遣は海防手当等のためのびのびになり,以後ついに派遣されずに明治維新を迎えた。
執筆者:松尾 美恵子
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江戸幕府の監察制度の一つ。「諸国巡見使」と「御料(ごりょう)巡見使」の2種類があった。一般によく知られているのは、諸大名の領地を対象に派遣された「諸国巡見使」のほうである。3代将軍徳川家光(いえみつ)の1633年(寛永10)に始まり、4代家綱(いえつな)の67年(寛文7)を経て、5代綱吉(つなよし)の81年(天和1)のときから将軍の代替りの年かその翌年に派遣されるようになった。こののち、幼少短命に終わった7代家継(いえつぐ)の治世を除き、6代家宣(いえのぶ)の1710年(宝永7)、8代吉宗(よしむね)の16年(享保1)、9代家重(いえしげ)の46年(延享3)、10代家治(いえはる)の60年(宝暦10)、11代家斉(いえなり)の88年(天明8)、12代家慶(いえよし)の1838年(天保9)と続いた。13代家定(いえさだ)、14代家茂(いえもち)の治世は延期や中止などで派遣はなく、15代慶喜(よしのぶ)の67年(慶応3)に至って停止された。つごう前後9回の派遣であった。全国を八つの区域に分かち(一区域は数か国ないし十数か国からなる)、各地域には、使番(つかいばん)、書院番、小姓組(こしょうぐみ)のなかから人を選び、3人を一組(かならず使番を含む)として派遣した。1667年の派遣時は、なかに「浦々」の巡見(江戸より大坂に至る浦々の陸路、西海道および山陽道の国々の海辺)も含まれていた(この場合は、おもに船手(ふなて)から派遣)。「御料巡見使」のほうは、全国に散在する幕府の直轄地を対象とし、江戸中期ごろまでは随時派遣された。勘定(かんじょう)、支配勘定、徒目付(かちめつけ)のなかから人を選び、前後21回の派遣であったという。「諸国巡見使」は大名領地、「御料巡見使」は幕府直轄地の治政の良否を調査し、監督するのを目的としたが、いずれものちには儀礼化した。大名のなかには、巡見使の報告によって悪政が露顕し、ついに改易に処せられるものもあった。
[北原章男]
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…若年寄の支配に属し,役高は1000石,格は布衣,詰所は菊之間南御襖際。平時には,将軍の代替りごとに諸国を巡回して大名の治績動静を視察し(諸国巡見使),あるいは幼少の大大名のもとへ多く赴任し,その後見監督に当たり(国目付),あるいは城の受渡しのときにその場に臨んで監督するなど,すべて幕府の上使を務めた。また二条,大坂,駿府,甲府などの要地にも目付として出張し,遠国役人の能否を監察した。…
※「巡見使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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