巡見使(読み)ジュンケンシ

デジタル大辞泉 「巡見使」の意味・読み・例文・類語

じゅんけん‐し【巡見使】

江戸幕府諸国派遣し、地方政情民情視察にあたらせていた役人

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精選版 日本国語大辞典 「巡見使」の意味・読み・例文・類語

じゅんけん‐し【巡見使】

  1. 〘 名詞 〙 江戸幕府の臨時職名。幕領・私領を巡視してその政情・民情を復命させるために派遣した役人。五代将軍綱吉の頃から将軍の代替りごとに特派された。じゅんけんつかい。
    1. [初出の実例]「諸国巡見使は御使番一人両番二人」(出典:職掌録(18C中‐後))

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改訂新版 世界大百科事典 「巡見使」の意味・わかりやすい解説

巡見使 (じゅんけんし)

江戸時代,将軍の代替りに際して全国の施政・民情を査察するため派遣された幕府の上使。1633年(寛永10),67年(寛文7),81年(天和1),1710年(宝永7),16年(享保1),46年(延享3),60年(宝暦10),88年(天明8),1838年(天保9)に派遣。また1664年と71年に関東のみ,1712-13年(正徳2-3)に幕領のみ派遣。最初の寛永の巡見使は,大御所徳川秀忠が死去し3代将軍家光が名実ともに政権を掌握したのを機に,また寛文の巡見使は4代家綱の政権の確立期に,それぞれ派遣されたが,5代綱吉の天和の巡見使以降,代替り直後に派遣されるようになった。

 巡見使は原則として全国に派遣されたが,寛永の場合は6ブロックに3人ずつ(万石以上,使番,両番(書院番小性組)により構成),寛文の場合は〈陸方衆〉として6ブロック(ただし1664年派遣の関東を除く)に3人ずつ(使番,書院番,小性組により構成),〈海辺衆〉として2ブロックに2人ずつ(船手等により構成),天和と宝永の場合は8ブロックに3人ずつ(使番1人,両番2人により構成)の編成で,御料(幕領と天領)・私領の区別はなかった。ところが宝永の巡見使のもたらした報告により全国の施政・民情の実態を知った幕府は,とくに直轄領の監察強化を企図し,1712年から翌年にかけて,全国の幕領を14のブロックに分け,各3人ずつ(勘定,支配勘定徒目付(かちめつけ)により構成)の〈国々御料所村々〉巡見使を派遣した。そして幕領改革をさらに推進すべく,7代家継の1716年に,〈御料巡見使〉を再遣したが,その最中に家継は死去,そのため8代吉宗の代替り巡見使は私領のみ,8ブロックに3人ずつ派遣された。こののち巡見使は御料・私領別々に編成されるようになり,9代家重の代替り,延享の巡見使は〈諸国巡見〉として私領を8ブロックに,〈御料所国々巡見〉として幕領を11ブロックに分け,各3人ずつ派遣され,以後この派遣形態に変化はなかった。

 発遣にあたって,巡見使の心得,あるいは巡見使を迎える側の心得を示した条目が発せられるのを例とした。また巡見使の監察項目は多岐にわたっていたが,例えば寛文の〈陸方衆〉の場合,(1)御料・私領の仕置の善悪,(2)キリシタン宗門の仕置と盗賊等の仕置の様子,(3)運上による物価騰貴の有無,(4)公儀の仕置との異同,(5)〆買・〆売の有無,(6)金銀米銭の相場等の調査を指示されていた。巡見使の査察・査問に対しては各地で周到な準備がなされ,予想される質問に対する答弁案を記した〈巡見扇〉等が作られたところもあった。なお巡見使の送迎・接待は村方の大きな負担となった。

 1853年(嘉永6),13代家定の代替りに至り,巡見使発遣は海防手当等のためのびのびになり,以後ついに派遣されずに明治維新を迎えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「巡見使」の意味・わかりやすい解説

巡見使
じゅんけんし

江戸幕府の監察制度の一つ。「諸国巡見使」と「御料(ごりょう)巡見使」の2種類があった。一般によく知られているのは、諸大名の領地を対象に派遣された「諸国巡見使」のほうである。3代将軍徳川家光(いえみつ)の1633年(寛永10)に始まり、4代家綱(いえつな)の67年(寛文7)を経て、5代綱吉(つなよし)の81年(天和1)のときから将軍の代替りの年かその翌年に派遣されるようになった。こののち、幼少短命に終わった7代家継(いえつぐ)の治世を除き、6代家宣(いえのぶ)の1710年(宝永7)、8代吉宗(よしむね)の16年(享保1)、9代家重(いえしげ)の46年(延享3)、10代家治(いえはる)の60年(宝暦10)、11代家斉(いえなり)の88年(天明8)、12代家慶(いえよし)の1838年(天保9)と続いた。13代家定(いえさだ)、14代家茂(いえもち)の治世は延期や中止などで派遣はなく、15代慶喜(よしのぶ)の67年(慶応3)に至って停止された。つごう前後9回の派遣であった。全国を八つの区域に分かち(一区域は数か国ないし十数か国からなる)、各地域には、使番(つかいばん)、書院番、小姓組(こしょうぐみ)のなかから人を選び、3人を一組(かならず使番を含む)として派遣した。1667年の派遣時は、なかに「浦々」の巡見(江戸より大坂に至る浦々の陸路、西海道および山陽道の国々の海辺)も含まれていた(この場合は、おもに船手(ふなて)から派遣)。「御料巡見使」のほうは、全国に散在する幕府の直轄地を対象とし、江戸中期ごろまでは随時派遣された。勘定(かんじょう)、支配勘定、徒目付(かちめつけ)のなかから人を選び、前後21回の派遣であったという。「諸国巡見使」は大名領地、「御料巡見使」は幕府直轄地の治政の良否を調査し、監督するのを目的としたが、いずれものちには儀礼化した。大名のなかには、巡見使の報告によって悪政が露顕し、ついに改易に処せられるものもあった。

[北原章男]

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百科事典マイペディア 「巡見使」の意味・わかりやすい解説

巡見使【じゅんけんし】

江戸時代に全国の幕府領や私領の支配の実情をみるために,幕府から派遣された視察官。五代徳川綱吉(つなよし)以降は将軍の代替りの際に派遣されることが多く,全国を幾つかのブロックに分け,各ブロック三名ずつの派遣が原則であった。八代徳川吉宗(よしむね)の代替り発遣以後は幕府領・私領別々に編成され,幕府領は御料所国々巡見使,私領は諸国巡見使とよばれた。一方,巡見使の送迎・接待は村方の大きな負担であった。
→関連項目村明細帳

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「巡見使」の意味・わかりやすい解説

巡見使
じゅんけんし

江戸時代,将軍の代替りに五畿七道の幕領,大名領の民情政情を視察するため派遣された役人。使番1人に小姓組番,書院番の者2人を差添え,定員は 35人で,都合により幾組にも分れて巡視した。元和1 (1615) 年に始るといわれ,徳川5代将軍綱吉の頃から整備された。享保年間 (1716~36) あたりまでは効果をあげたが,それ以降は形式化し,13代将軍家定のとき以来延期もしくは中止された。寛文年間 (1661~73) 以降は沿海視察に重点が移った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「巡見使」の解説

巡見使
じゅんけんし

江戸時代,幕府が将軍の代替りごとに全国各地を巡検のため派遣した役人
目付が任ぜられ,定員は35人。幾組にも分かれて巡回し,各地の政情・民情を視察した。のちしだいに形式化した。

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世界大百科事典(旧版)内の巡見使の言及

【使番】より

…若年寄の支配に属し,役高は1000石,格は布衣,詰所は菊之間南御襖際。平時には,将軍の代替りごとに諸国を巡回して大名の治績動静を視察し(諸国巡見使),あるいは幼少の大大名のもとへ多く赴任し,その後見監督に当たり(国目付),あるいは城の受渡しのときにその場に臨んで監督するなど,すべて幕府の上使を務めた。また二条,大坂,駿府,甲府などの要地にも目付として出張し,遠国役人の能否を監察した。…

※「巡見使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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