水野信元(読み)みずの・のぶもと

朝日日本歴史人物事典 「水野信元」の解説

水野信元

没年:天正3.12.27(1576.1.27)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。通称藤七郎,四郎右衛門,受領名は下野守。三河緒川城主水野忠政次男で,母は松平昌安の娘。徳川家康の生母於大の方の異母兄に当たる。天文12(1543)年,父忠政の跡を継ぐと,今川義元に背き織田信秀に属した。永禄3(1560)年の桶狭間の戦のあと,甥家康織田信長への服属を勧告し,信長との仲介に当たり,同5年1月15日,清須城での信長と家康の同盟のなかだちをしている。元亀3(1572)年の三方ケ原の戦には,織田方からの援軍として家康のこもる浜松城に送られている。刈屋城主としての信元の立場は,信長と家康との間に立つ微妙な位置にあった。天正3(1575)年,長篠の戦ののちのことになるが,武田勝頼への内応の嫌疑をかけられた。勝頼方の美濃岩村城主秋山信友に兵糧を売ったためといわれている。信元は家康の岡崎城に逃れたが,信長の命により家康の手の者に殺された。

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水野信元」の解説

水野信元 みずの-のぶもと

?-1576* 戦国-織豊時代の武将。
水野忠政の次男。三河(愛知県)刈谷(かりや)城主。徳川家康の生母伝通院(於大(おだい)の方)の異母兄。織田信長につかえ,桶狭間(おけはざま)の戦いののち,家康との仲をとりもつ。のち武田氏へ内通の疑いをうけ,信長の命で天正(てんしょう)3年12月27日切腹。土井利勝の父ともいう。初名は忠次。通称は藤七郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の水野信元の言及

【徳川家康】より

…父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。 6歳のとき,人質として駿府の義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られた。…

【水野氏】より

…尾張国の土豪,江戸時代の譜代大名(図)。先祖は多田満仲の弟満政とされ,重房のとき尾張国知多郡小河村に住して小河氏を称し,のち春日井郡水野に移って水野氏と改めたという。1487年(長享1)に没した貞守が三河国刈屋に城を築き,その後は代々刈屋・小河両城を本拠とした。天文期(1532‐55)に活躍した忠政の女於大の方(伝通院)は同国岡崎の松平広忠に嫁して徳川家康を生んだが,水野氏が松平氏と敵対する織田氏にくみしたので離別された。…

※「水野信元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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