滋賀県近江八幡市と東近江市の市境,琵琶湖東岸安土山にある城址。織田信長が1576年(天正4)から築城を開始し,普請奉行には丹羽長秀があたった。石垣普請には11ヵ国から労働者を集め,坂本穴太(あのう)の石工らが動員された。79年には熱田大工岡部又右衛門に造らせた天主も完成し,信長は子息信忠に家督とともに岐阜城を譲ってここに移り,天下経営の本拠とした。しかし82年,本能寺の変で信長は死に,この際の混乱で城は焼失した。以後,織田氏はふるわず,85年豊臣秀次が近江八幡に築城したので廃城となり,町も八幡に移された。現在,城址には壮大な石垣とともに信長創建の摠見寺の遺構三重塔,楼門(いずれも移築)がのこる。
安土城は,信長に滅ぼされた近江半国の大名佐々木六角氏の居城観音寺山の尾根続きで,半島状に琵琶湖に突き出た小山に築かれ,軍事上の要衝であった。街道のはしる南山ろくには堀を設け,山の斜面は頂上まで石垣を積んで多数の小曲輪(くるわ)をつくり,それぞれ家臣の住居にあてた。山頂の本丸には行幸御殿が建てられ,信長自らの住いとして天主があった。戦国期の山城は,山上の砦と山下の居館という構成をとっていたが,安土城はこの両者を一体とし,さらに城下の町を大規模に営んだ。ここに近世城郭の先駆としての意義が認められる。中心建物であった天主のありさまは太田牛一の《信長公記》や外国人宣教師の見聞記,そして遺跡からほぼ推定できる。全高約37m,内部7階で,一階部分は石垣内の地階となる。多くの座敷や部屋は華麗な装飾をもち,各室の障壁は狩野永徳とその一門による花鳥や中国の故事を描いた絵で彩られていた。なお近年静嘉堂文庫で発見された〈天守指図〉は,江戸時代につくられた安土城天主の復元図の1枚で,信頼度は低いと思われる。
執筆者:宮上 茂隆
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戦国期、織田信長が天下統一のための拠点として築いた城。滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市安土町下豊浦(あづちちょうしもといら)にある。普請奉行(ふしんぶぎょう)は丹羽長秀(にわながひで)で、1576年(天正4)に着工し、1579年にほぼ完成したが、信長は着工の直後、建物の一部ができあがるとすぐ稲葉山(いなばやま)城から居を移している。信長が岐阜から安土に城を移したのは、一つには越後(えちご)(新潟県)の上杉謙信(けんしん)対策であり、一つには北陸の一向一揆(いっこういっき)を監視するためであった。しかも、岐阜よりははるかに京都に近く、琵琶(びわ)湖の水運を掌握できるという利点もあったからである。城郭史からみて安土城が特筆されるのは、五層七重(地上6階地下1階)の天守閣が建てられたことである。この天守閣は『信長公記(しんちょうこうき)』のなかの「安土山御天主之次第」や、キリスト教宣教師たちの描写によってかなりはっきりしており、内部の柱には金箔(きんぱく)がはられ、外部は各層が違った色で塗ってあったことや、客間としての書院、納戸、台所などが備わり、座敷は畳敷きで、障壁には狩野永徳(かのうえいとく)の絵が描かれていたのである。なお、城はちょうど琵琶湖に突き出た形で、麓(ふもと)から山頂まで約100メートルほどの安土山に曲輪(くるわ)が配置され、本丸、二の丸を中心として、家臣の屋敷がそれぞれ一つの曲輪の形となっていた。城は1582年(天正10)の本能寺(ほんのうじ)の変に続く山崎の戦いの余波で焼け落ちてしまい、現在、穴太(あのう)積みの手法による広壮な石垣と、本丸、天守台部分の礎石などが残るだけである。かつて徳川家康邸のあった所は現在摠見(そうけん)寺が建てられ、二の丸には信長廟(びょう)があり、城跡全体が特別史跡に指定されている。また、城下には安土セミナリオ(神学校)跡もある。
[小和田哲男]
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滋賀県近江八幡市安土町にあった織豊期の平山城。織田信長が1576年(天正4)から79年にかけて築城。大規模な天主郭の中心に5層7階の天守閣を備えた。天守閣内部は信長の御用絵師狩野永徳の豪壮な襖絵で装飾。瓦葺の礎石建物が建ち並び穴太積(あのうづみ)の高石垣で塁線を築く。山腹の黒鉄門は外枡形虎口(こぐち)の初例。これより内部に厳重な城郭部を構築。山腹以下に重臣の屋敷が建ち並び,山上の城郭部から尾根筋に塁線をのばし,山麓の水堀と一体化した総構(そうがまえ)を構成。城下には安土山下町中掟書が下され,直属商工業者の居住域と市町が一元化された近世的な城下町をつくった。82年本能寺の変の直後に主要部は焼失。山中の遺跡はほぼ完全に残る。城跡(近江八幡市・東近江市)は国特別史跡。
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…従来の山城から平城への移行は,鉄砲の伝来による戦術の変化のためで,領国統治の中枢として権力者の富と権威を象徴するものとなった。信長が1576年に築いた安土城は平山城であるが,近世様式の最初で,外柱は朱色,内柱は金色に塗られ,最上部の望楼には内外ともに金が張られていた。秀吉が83年に石山本願寺跡に築いた大坂城も,室内には金箔を施し,塔に黄金や青色の飾りをつけ,遠くから見ると荘厳な観を呈したと記録されている。…
…狩野永徳が1566年(永禄9)大徳寺聚光院の襖に描いた水墨《四季花鳥図》は,戦国大名三好氏のために描かれたものだが,若年の筆とも思えない大胆な筆使いと力動感みなぎる構図には,新しい時代の到来を思わせる爽快な響きがこもっている。 76年(天正4)から79年にかけ信長が築いた安土城の天主は,外部五重,内部7階のこれまでにない斬新な意匠と構造によるものであり,桃山美術の性格を決定づける上で,画期的意義を持つものだったと思われる。永徳一門は用命に応じ,その内部の障壁画制作に全力を傾けた。…
…1566年(永禄9)24歳で父とともにあたった大徳寺聚光院の障壁画制作では,最も重要な場所である室中(仏間)を父に代わって担当し,翌年には近衛邸の障壁画をまかされるほどであった。彼の豪放な新様式は織田信長に認められ,76年(天正4)からの安土城建設には天下一の画家として参加した。その際,宗家を弟宗秀に預けて自分は子の光信とともに一家をあげて天守や城内殿舎の障壁画制作に赴き,褒美(ほうび)として300石の知行を受けたといわれる。…
… 大名居城では,家臣団の集住とそれを経済的に支える城下町の建設という課題に直面し,肥大化した城郭を長大な外郭線で囲い込む総構えの手法が導入されるようになるが,従来の山城のままでは無理な場合が多いので,平山城ないし平城へ移らざるをえなくなる。その早い試みが織田信長の安土城,後北条氏の小田原城で完成される。この織豊期に諸大名は次々と本城の位置を変え,政治・経済の中枢機能を担う近世城郭の時代へ転換していく。…
※「安土城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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