池田慶徳 (いけだよしのり)
生没年:1837-77(天保8-明治10)
鳥取藩最後の藩主。幼名五郎麿のち昭徳,慶徳,号は省山。水戸藩主徳川斉昭の五男。江戸本邸で出生。1850年(嘉永3)幕命により鳥取池田家の養子となり,ついで藩主。従四位上侍従,相模守とされる。安政期藩政改革を実施した尊攘派と,その手直しを行う守旧派との対立の調停に苦しみ,将軍徳川慶喜を異母弟とする事情もあり,大政奉還論を唱えるなど動揺した。鳥取藩知事。
執筆者:山中 寿夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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池田 慶徳
イケダ ヨシノリ
- 肩書
- 鳥取藩知事
- 生年月日
- 天保8年7月13日(1837年)
- 経歴
- 嘉永3年幕府の命により鳥取藩主となり、藩政改革に努め、藩論を勤王に統一。明治2年版籍奉還により鳥取藩知事となるが、4年廃藩置県により解職。退隠後は華族会館創立に尽力。
- 没年月日
- 明治10年8月2日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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池田慶徳 いけだ-よしのり
1837-1877 幕末-明治時代の大名。
天保(てんぽう)8年7月13日生まれ。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の5男。徳川慶喜(よしのぶ)の異母兄。池田慶栄(よしたか)の跡をつぎ,嘉永(かえい)3年因幡(いなば)鳥取藩主池田(松平)家12代となる。田村貞彦らを登用し,安政の藩政改革を推進。藩内の尊攘(そんじょう)派と守旧派の対立をしずめ,幕府に恭順して大政奉還論をとなえたが,戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍に属した。明治10年8月2日死去。41歳。初名は昭徳。号は省山。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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池田 慶徳 (いけだ よしのり)
生年月日:1837年7月13日
江戸時代;明治時代の大名。鳥取藩知事
1877年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の池田慶徳の言及
【華族】より
…1876年開館)は,華族組織化の第一歩であった。76年,華族は6部に分けられ,正副督部長および部長がおかれ,督部長に岩倉,副督部長に池田慶徳がなった。同年,華族は宮内省所管となり,〈華族類別録〉が編製され,78年完成,刊行された。…
※「池田慶徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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