池田茂政(読み)いけだ・もちまさ

朝日日本歴史人物事典 「池田茂政」の解説

池田茂政

没年:明治32.12.12(1899)
生年天保10.10.11(1839.11.16)
幕末の岡山藩主。父は水戸藩主徳川斉昭。江戸幕府第15代将軍徳川慶喜と浜田藩主松平武聡は実弟,鳥取藩主池田慶徳は実兄。幼名は九郎麿,雅号は楽山。文久3(1863)年池田慶政養子となり,将軍徳川家茂の偏諱を賜わり茂政と改名した。藩政においては下級藩士の登用や近代的な軍備の整備に努めた。幕末の政局に際しては尊王攘夷立場をとったが,朝幕間の板挟みとなって苦心した。攘夷親征の猶予を奏請する一方,長州征討には反対している。鳥羽・伏見の戦の勃発に際し引退して鴨方支藩(岡山県)藩主池田政詮(のち章政)を養子に迎えた。維新後,弾正台大弼を務め引退後は能楽復興に努めた。<参考文献>衣笠健雄『史談会速記録407 池田茂政公事歴』

(長井純市)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「池田茂政」の解説

池田茂政 いけだ-もちまさ

1839-1899 幕末の大名
天保(てんぽう)10年10月11日生まれ。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の9男。徳川慶喜(よしのぶ)の弟。池田慶政(よしまさ)の養子。文久3年備前岡山藩主池田家9代となる。尊攘(そんじょう)の立場から長州攻めに反対し,名目上の出兵をした。慶喜追討命令で苦境にたち,慶応4年病気を理由に支藩の池田章政家督をゆずった。明治32年12月12日死去。61歳。号は楽山。

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世界大百科事典(旧版)内の池田茂政の言及

【岡山藩】より

…備前国(岡山県)岡山に藩庁を置いた外様大藩。歴代藩主は池田氏で,備前一国28万9000石と備中領分2万6000石を合わせて31万5000石を領知した。戦国大名宇喜多秀家が関ヶ原の戦で没落し,代わって入城した小早川秀秋も,1602年(慶長7)卒去し無嗣のため断絶した。宇喜多・小早川両氏とも備前・美作両国などで約50万石を領したが,その末路は悲運であった。03年岡山城主になった池田忠継(姫路城主池田輝政の次男)以降,12代268年にわたって池田氏による領知が廃藩までつづいた。…

※「池田茂政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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