日本大百科全書(ニッポニカ) 「汲冢書」の意味・わかりやすい解説
汲冢書
きゅうちょうしょ
中国、晋(しん)の汲郡(河南省)の人不準(ふじゅん)が、279年(咸寧5。また280年〈太康一〉、281年ともいう)冬10月に、戦国時代の魏(ぎ)の襄王(じょうおう)(また安釐(あんり)王ともいう)の古冢(墓)から掘り出した竹簡(ちっかん)の古書。晋の武帝の命により束晳(そくせき)、荀勗(じゅんきょく)、和嶠(わきょう)、傅瓚(ふさん)らが整理研究にあたった。その量は数十車、十余万言あり、内容は『晋書』束晳伝によれば、『紀年』『易経』『易繇陰陽卦(えきよういんようか)』『公孫叚(こうそんか)』『国語』『事名』『師春』『瑣語(さご)』『梁丘蔵(りょうきゅうぞう)』『繳書(げきしょ)』『生封(せいふう)』『大暦』『穆天子伝(ぼくてんしでん)』『図詩』『雑書』の諸書75篇(へん)と題名不詳の7篇であり、文字は蝌蚪(かと)文字(中国の古体篆字(てんじ))で漆書(しっしょ)されていたという。現在『竹書紀年』『汲冢周書』『穆天子伝』が伝えられるが、前2書は疑いを残している。
[田中 有]