(読み)ギ

デジタル大辞泉 「魏」の意味・読み・例文・類語

ぎ【魏】

古代中国の国名。
戦国七雄の一。の六卿の一として勢力を拡大、氏・氏とともに晋を滅ぼし、その領土を3分。前403年、文侯のとき諸侯に列せられ、現在の山西省南部から河南省北部を領有。都は安邑、のち大梁(開封)。前225年、しんに滅ぼされた。
三国の一。曹操そうそう華北を統一し、その子の曹丕そうひが220年に建国。首都は洛陽らくようしょくとともに天下を3分したが、265年、元帝はの武帝に禅譲。曹魏。
南北朝時代北朝最初の王朝。386年、鮮卑せんぴ族の拓跋珪たくばつけい道武帝)が建国。第3代の太武帝の時、華北を統一。都は初め平城(山西省大同)、のち493年洛陽に遷都。534年に東西に分裂。東魏は550年、西魏は556年に滅亡。北魏。後魏。拓跋魏

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精選版 日本国語大辞典 「魏」の意味・読み・例文・類語

ぎ【魏】

  1. 古代中国の国名。
  2. [ 一 ] 戦国七雄の一つ。もと安邑(山西)に封ぜられた晉の六卿の筆頭。前四五三年、趙、韓とともに晉の領土を三分し、山西の南部から陝西の東部および河南の北部を領有。前四〇三年、文公のとき、諸侯として認められ強盛を誇ったが、常に秦の圧迫を受け、大梁(河南)に遷都し、前二二五年秦に滅ぼされる。
  3. [ 二 ] 三国の一つ。二二〇年、曹操の子丕(ひ)が後漢の献帝を廃してたてた国。首都は洛陽。華北を領し、呉、蜀と天下を三分したが、二六五年、臣下司馬氏の晉に代わった。
  4. [ 三 ] 南北朝時代の北朝の一つ。鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)(=道武帝)が三八六年に建国し、四三九年、五胡十六国の北中国を統一した。極端な漢化政策をとり、その矛盾から反乱が起きて五三四年東西に分裂し、東魏は五五〇年、西魏は五五六年に滅んだ。北魏。後魏。拓跋魏。

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百科事典マイペディア 「魏」の意味・わかりやすい解説

魏【ぎ】

(1)中国,戦国七雄の一つ。を三分して,前453年自立。前403年には周王により諸侯に列せられた。山西の大部分を領有,初め安邑(現,山西省夏県)に都したが,のち大梁(現,河南省開封市)に移る。よって梁とも呼ばれた。前225年に滅ぼされる。(2)中国,三国の一つ。220年―265年存続。後漢末に曹操が漢朝の実権をにぎり,華北を統一。子の曹丕(そうひ)(文帝)は帝位を奪って新しい王朝を開く。倭との関係も深く,邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)を親魏倭王に任じた。洛陽に都し,三国のうち最も強大であった。やがて司馬氏の勢力が高まり,5代にして司馬炎(西晋の武帝)に帝位を奪われる。(3)中国,北朝の一つ。北魏または後魏とも。386年―534年存続。鮮卑拓跋(たくばつ)氏が前秦の瓦解に乗じて建国,平城(現,山西省大同)を都とした。439年華北を統一,南朝のと対立し,南北朝の時代を現出する。5世紀末孝文帝は洛陽に遷都,漢化政策をすすめ,均田法などを施行。また歴代諸王は仏教を尊信し,雲岡,竜門などの石窟を開く。しかし6世紀には内乱が起こって実権は将軍たちの手に移り,東西に分裂。これを東魏(534年―550年),西魏(534年―556年)という。それぞれ高氏と宇文氏が実権をにぎり,やがて帝位を奪って(北斉)および(北周)を建国する。
→関連項目烏桓魏晋南北朝時代高句麗五胡十六国三国時代(中国)司馬懿柔然春秋戦国時代戦国の七雄臺與屯田府兵制李【かい】

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改訂新版 世界大百科事典 「魏」の意味・わかりやすい解説

魏 (ぎ)
Wèi

中国の三国時代の2国と対峙して華北を支配した国(220-265)。曹氏を皇帝とするので曹魏ともいう。後漢末の動乱期に,曹操が対立する群雄を倒して華北を平定し,213年(建安18),献帝から鄴(ぎよう)(河北省臨漳県)を中心とする魏国公に封ぜられたのが始まりで,3年後に魏王に進められたが,220年のはじめに死ぬ。後をついだ子の曹丕(そうひ)がその年の10月,献帝の禅譲を受けて帝位に昇り,ここに後漢は滅んで,同じく洛陽を首都とする魏国が正式に成立した。曹丕(文帝)の次の明帝曹叡(そうえい)は高句麗を破り,独立していた公孫淵を滅ぼして,支配地域を遼東から北朝鮮に広げたが,やがて249年(嘉平1)以後,実権は司馬懿(しばい)父子の手に握られ,その意のままに天子の廃立が行われる状態になった。263年(景元4),魏は蜀を滅ぼして,これを併合したが,265年,元帝曹奐(そうかん)は司馬懿の孫の司馬炎に帝位を譲り,魏は5代45年で滅んだのである。
三国時代
執筆者:

239年(景初3)6月,倭の邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の使者が魏軍の占領まもない帯方郡に到着し,魏の皇帝への朝献を希望した。洛陽でこれを引見した明帝は,その12月,卑弥呼を親魏倭王に任じ,金印紫綬を仮授する旨の詔文をしたためた。この詔書は韓諸国の反抗で帯方太守が戦死するなどの事態が生じ,240年になってようやく卑弥呼のもとにとどけられた。親魏倭王の称号は,韓諸国の君長に授けられた邑君(ゆうくん)・邑長にくらべて格段と高く,ここに魏の倭国重視の外交姿勢をうかがうことができる。魏が卑弥呼の使者に率善中郎将(そつぜんちゆうろうしよう)や率善校尉の官号を授けたのも同様の配慮のあらわれであろう。魏が倭国を高く評価した原因として,つぎの3点があげられる。第1は,魏の最大関心事である呉との関係である。魏は倭を呉の近接地域と考えていた。第2は,新たに手に入れた韓地との関係である。第3は,遼東平定にさきだっての倭の服属をよみしたのであろう。
執筆者:


魏 (ぎ)
Wèi

中国,南北朝時代の北朝の一つで,鮮卑族拓跋部が4世紀末から約1世紀半華北に建設した国家。北魏,後魏,拓跋魏などともいう。拓跋部の故地は興安嶺北部と見られ,西遷して盛楽(内モンゴルのホリンゴール)を根拠に諸部族の盟主となり,部族連合によってなる代王国を建設,魏・晋両王朝とも交渉をもった。西の滅亡過程には山西方面から南進を試み,397年代王拓跋珪は後燕の首都中山を攻略して河北一帯を領有,その翌年平城(山西省大同)を首都として魏帝国を建てた(道武帝)。これよりさき部落解散を断行して族長層の部落統率権を君主に集中したが,旧部族民はその後も漢族と異なるあつかいを受け,国軍の精鋭として征戦に活躍した。第3代太武帝は夏,北燕,北涼を征服して華北を統一し,五胡十六国時代を終わらせた。帝国の発展に伴って漢人貴族の政権参加も一般化し,北族中心の国家体制を改革する必要が生じた。第6代孝文帝は洛陽遷都を断行し,また北族の姓氏,言語,風習を漢族風に改める諸政策によって,中国的貴族制国家を志向した。それはやがて北族系軍人の不満を増大させ,524年(正光5)の六鎮の乱を契機に東西両魏に分裂した。しかし北魏は,五胡十六国から一段と飛躍して北族社会における政治と軍事の統一を実現し,その基礎の上に漢族社会の生産力と文化を摂取し,これとの融合をはかった。

 それは三長制均田制,租庸調制,俸禄制などの諸制度に結晶して疲弊した華北社会に安定をもたらし,さらにはのちの隋・唐律令国家の基礎を形づくった。
魏晋南北朝時代
執筆者:


魏 (ぎ)
Wèi

中国,戦国七雄の一つ。前403-前225年。始祖の畢万(ひつばん)は晋の大夫で,魏(山西省芮城県)を領地とし,魏氏と称した。勢力を蓄え,春秋末には韓・趙・知氏とともに晋の国政を握った。前453年韓・趙と知氏を滅ぼして晋を三分,前403年周王より独立を認められ,安邑(山西省夏県)に都を置いた。文侯は政治を改革し,戦国初期第一の強国となり,境域を拡大した。文侯死後,秦の攻撃を受け,都を大梁(河南省開封市)に遷し,国を梁とも称した。斉にも圧迫され,前225年秦に滅ぼされた。
春秋戦国時代
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「魏」の意味・わかりやすい解説

魏(中国、三国の一つ)

中国、三国の一つで、曹操(そうそう)が創設した王朝(220~265)。曹操は後漢(ごかん)末の群雄の一人で、兗州(えんしゅう)(山東省)に割拠し、献帝を洛陽(らくよう)から予州の許に迎えて擁立した。200年、官渡の戦いによって袁紹(えんしょう)を破り、ほぼ華北を統一し、冀州(きしゅう)の鄴城(ぎょうじょう)を根拠地とした。208年、丞相(じょうしょう)となり、荊州(けいしゅう)に南下しようとしたが、孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)が同盟して、曹操は赤壁の戦いで敗れた。ついで関中を平定して献帝から魏公の爵位を授かった。さらに外戚(がいせき)の夏侯淵(かこうえん)を派遣して涼州を平定させ、また皇后の伏氏を廃し、娘を献帝の皇后とした。漢中(陝西(せんせい)省)における五斗米道(ごとべいどう)のいわば宗教国家を創始した張魯(ちょうろ)を親征し、爵は魏王に進んだ(216)。曹操は宦官(かんがん)の養子の子で、たいした基盤はなかったが、許をはじめ各地に大規模な屯田(とんでん)を開き、糧食の確保に努め、また募兵、流賊、降卒、降民、流寓(りゅうぐう)の徒を兵戸に編成し専属の軍隊とした。腹心の臣下には荀彧(じゅんいく)、陳羣(ちんぐん)、鍾繇(しょうよう)など法家の伝統が根強い潁川(えいせん)(河南省)出身の者が多く、曹操の施策にもその影響が現れている。曹操の死(220)後、曹丕(そうひ)がたち、官人の登用法を郷挙里選から九品官人法(きゅうひんかんじんほう)にかえた。これは人材を魏に吸収するのが本来の目的であったが、その運営は貴族制度の成立を決定的にした。

 献帝は220年に禅譲し、曹丕は即位して文帝となり、ここに後漢は滅亡し、魏朝が成立した。鄴から洛陽に移り、ここを都とした。また西域(せいいき)の焉耆(えんき)、鄯善(ぜんぜん)、亀茲(きじ)、于闐(うてん)なども従属した。明帝(めいてい)(在位226~239)のときには洛陽(らくよう)宮を整備し、太極(たいきょく)殿と昭陽殿を建立、司馬懿(しばい)を派遣して遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)を破り、次の斉(せい)王芳のときに毌丘倹(かんきゅうけん)が高句麗(こうくり)を討ち、領土を東方に拡張した。耶馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が朝貢の使者を派遣したのはこのころである。

 明帝の没後は、斉王芳、高貴郷公髦(ぼう)、陳留(ちんりゅう)王(元帝)奐(かん)の三少帝が継ぎ、曹爽(そうそう)と司馬懿が補佐した。司馬懿は宗室の曹爽や外戚の何晏(かあん)、夏侯玄などを次々と排除し、実権を掌握していった。子の司馬師は斉王を廃し、師の弟の昭は高貴郷公を殺した。昭の子の炎は陳留王の禅譲によって265年に即位し、晋(しん)(西晋)を建国し、魏は滅亡した。文化の面では、朝臣の貴族化が進み、文学、音楽、書画などの芸術を担い、老荘と易の学問である玄学が清談のテーマとなった。

[上田早苗]


魏(中国、戦国時代の国)

中国、戦国時代の国(前403~前225)。戦国七雄の一つ。周と同姓の畢公高(ひつこうこう)の子孫畢万が晋(しん)の献公に仕え、魏地を与えられて魏氏となった。その子孫魏絳(ぎこう)は悼公(とうこう)のとき国政に参与し、しだいに魏氏は晋の六卿(りくけい)の一員として力を伸ばし、韓氏、趙(ちょう)氏とともに、范(はん)、中行、知の3氏を滅ぼし、紀元前453年魏桓子(ぎかんし)のとき実質上晋を三分し、その孫文侯の代の前403年、周室より諸侯と認められた。文侯と子の武侯のころは安邑(あんゆう)(山西省夏県)を都として、現在の山西省南西部を中心に、田子方(でんしほう)、呉起(ごき)らの賢者、名将、さらに相として李克(りこく)や魏成子(ぎせいし)らの人材を登用し、国力充実、領土拡大に努め、高い文化をもつ強国となった。しかし強大化する秦(しん)の侵攻をしだいに受けるようになり、前340年には都を東の大梁(たいりょう)(河南省開封県)に移さざるをえなくなり(そのため魏を梁とよぶこともある)、一時信陵君(しんりょうくん)の活躍で反撃したが、前225年秦の前に滅亡した。

[安倍道子]


魏(北魏)

北魏

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普及版 字通 「魏」の読み・字形・画数・意味


18画

(異体字)巍
21画

[字音]
[字訓] たかい

[説文解字]

[字形] 形声
字はもと巍に作り、声符は嵬(かい)。〔説文〕に魏字を収めず、巍字条九上に「高なり。嵬に從ひ、委(ゐ)聲」とするが、嵬の方が声に近い。漢碑に字をに作り、禾(か)に従う字であった。委は稲魂を被(かぶ)って舞う農耕儀礼において、女が低く舞う形。これに対しては高く舞う形。これを一般化して高大の意となり、魏の字を以て、なおその義に用いたのであろう。

[訓義]
1. たかい、高大のさま。宮門双闕の高大なるところを魏闕という。
2. 能くする。〔方言、十三〕にみえる。
3. 地の名、国の名、姓氏の名。

[古辞書の訓]
名義抄〕魏々 ヨソヨソナリ・ヨソホヒ 〔字鏡集〕巍 イカタシ・イカラシ・タカクオホイナリ・サカシ・スルト(シ)・タカシ・オホイア(ナ)リ

[熟語]
魏盈・魏観・魏魏・魏闕・魏紅・魏紫・魏象
[下接語]
漢魏・観魏・象魏・趙魏

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「魏」の解説

魏(ぎ)
Wei

①〔戦国〕前403~前225 の家臣の魏氏が,前453年趙(ちょう)両氏と晋を3分して山西省西南部,河南省北部を領有し,前403年諸侯に認められた国。文侯(在位前403~前387)のとき李悝(りかい)らの改革で富強を誇ったが,しだいに秦に圧迫され,安邑(あんゆう)から大梁(だいりょう)(開封)に遷都,前225年に滅ぼされた。

②〔三国〕220~265 中国の三国時代の王朝。後漢末,曹操(そうそう)が献帝を許(河南)に擁して実権を握り,華北を統一し,213年魏公,216年魏王に封じられ,220年曹操の死後子の曹丕(そうひ)(文帝)が献帝に譲位を迫って王朝を建て,洛陽を都とした。次の明帝(めいてい)(叡(えい))のとき一時疎族の曹爽(そうそう)が勢力を伸ばしたが,明帝の死後幼帝芳が即位すると,249年,司馬懿(しばい)クーデタを起こして権力を握った。その子の司馬師は芳を廃して曹髦(そうぼう)を立て,さらにその弟司馬昭は,司馬氏討伐の兵をあげた曹髦を敗死させて奐(かん)(元帝)を立て,263年蜀(しょく)を滅ぼし,その功によって晋王に封じられた。その子司馬炎に至って,265年奐の禅譲を受けて西晋を建て,魏は5代で滅んだ。曹操の行った屯田制,戸調制,曹丕の始めた九品中正(きゅうひんちゅうせい)の法は,のちの王朝に受け継がれて重要な役割を果たした。魏はまた遼東の公孫氏(こうそんし)や高句麗を討って満洲,朝鮮方面に領域を広げ,倭王卑弥呼を朝貢させた。

③〔魏晋南北朝〕北魏東魏西魏

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「魏」の意味・わかりやすい解説

魏[戦国時代]
ぎ[せんごくじだい]
Wei

中国の戦国の七雄の一つ (前 403~225) 。春秋時代前期晋の臣,畢万が魏 (山西省 芮城県) に封じられたのに始るといわれ,晋の六卿の一つとして強力になり,前 453年魏の桓子が趙,韓とともに晋を3分し,文侯のとき,周の威烈王から諸侯として独立が公認された (前 403) 。当時土地が開け文化が進んでいた中原の地に位置し,文侯が呉起や李 悝 (りかい) など賢臣を用い内治に努めたため,戦国初期の最強国となった。しかし都の安邑 (山西省夏県) は趙,韓,秦に近かったので,この3国と関係が悪化し,戦国時代中期,恵王は大梁 (河南省開封) に遷都 (前 340年,または前 361年) ,これ以後国名を梁とも称した。その頃秦では孝公が商鞅の変法政策を用い,諸国を圧迫したので,魏はその被害を多く受け,領土も次第に削られていった。戦国末期,人望の厚い信陵君が出て秦に対抗したが重用されず,王仮3 (前 225) 年秦の始皇帝に滅ぼされた。

魏[三国時代]
ぎ[さんごくじだい]
Wei

中国の三国時代の一国。曹氏が華北に建てた国 (220~265) 。後漢末,曹操がその基礎を固めたが,彼は建安 25 (220) 年魏王のままで没した。その跡を継いだ子の曹丕 (そうひ。→文帝) は後漢の献帝の譲りを受けてみずから天子となり洛陽に都し,魏王朝を建てた。中原を占めた魏は呉,蜀のいずれよりも強力で,外は高句麗を破り公孫氏を滅ぼした。曹丕は受禅直前に九品官人法を制定,その本籍地とする郡を単位に,有能な士人を網羅的に官人として傘下に集めようとした。この制度は魏中期になると豪族が官界で勢力を得る手段と化した。このとき九品官人法を改変した権臣司馬懿 (しばい) は,それによって士人=大豪族の代表者的地位を得,以後魏の天子を傀儡 (かいらい) 化しつつ受禅の道を歩んだ。元帝のとき懿の孫,司馬炎 (西晋の武帝) に禅譲して魏は滅んだ。魏は軍国主義体制をとり,屯田を経営し兵戸の養成に努めたが,それらも次第に司馬氏の手に握られるようになった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「魏」の解説


①戦国時代の一国 前403〜前225
②三国時代の一国 220〜265
③南北朝時代の北朝の王朝 386〜534
戦国の七雄の1つ。代々晋 (しん) に仕え,魏(山西)に封ぜられたので魏氏を称したが,韓 ・趙 (ちよう) とともに晋領を3分して独立,襄 (じよう) 王のときには王を称して威をふるったが,前225年秦に滅ぼされた。前362年,都を大梁 (たいりよう) に移してのちは梁とも呼ぶ。
後漢 (ごかん) 末,曹操が献帝を擁して実権を握り,魏王に封ぜられた。その子曹丕 (ひ) は献帝に強要して譲位させ,後漢は滅亡。洛陽に都して魏と号し,蜀漢 (しよくかん) ・呉 (ご) と天下を3分した。屯田制と九品中正を始めたが,権臣司馬氏の勢が強く,司馬炎(武帝)に国を奪われた。
鮮卑 (せんぴ) の拓跋 (たくばつ) 氏が華北に建国。平城(山西省大同),のちに洛陽に都した。北魏・後魏ともいう。534年東魏・西魏に分裂。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「魏」の解説


曹魏(そうぎ)とも。呉(ご)・蜀(しょく)とともに中国の三国時代を形成した王朝(220~265)。都は洛陽。後漢末の社会混乱のなかから曹操(そうそう)が実力を高めて魏王を称し,その子曹丕(そうひ)(文帝)が後漢の献帝から禅譲されて王朝を開いた。九品官人法を施して人材を登用し,貴族社会を形成した。また兵戸制と屯田(とんでん)制により富国強兵をはかり,呉・蜀に対抗した。東方では238年,遼東の公孫(こうそん)氏を滅ぼし,翌年倭の女王卑弥呼(ひみこ)の使者を迎え,「親魏倭王」の号と印綬を下賜した。244年には毌丘倹(かんきゅうけん)に高句麗の都の丸都(がんと)城を陥落させた。だが内紛により司馬懿(しばい)に実権が移り,蜀の滅亡後,元帝が司馬炎(晋の武帝)に禅譲,魏は滅んだ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「魏」の解説


中国の王朝 ①戦国時代の一国(前403〜前225)
②三国時代の一国(220〜265)
③南北朝時代の北朝の王朝(386〜534)
戦国七雄の一つ。秦の始皇帝に滅ぼされた。
後漢末に曹操 (そうそう) が華北の実権を掌握して魏王となり,その長男の曹丕 (そうひ) が漢帝に迫り,位を譲らせ建国。都は洛陽。『魏志』倭人伝は倭国の地理・風俗,邪馬台国 (やまたいこく) 女王卑弥呼のことなどを記し,3世紀の日本に関する貴重な文献。
鮮卑 (せんぴ) の拓跋 (たくばつ) 氏が華北に建国。通称「北魏」または「後魏」。534年東魏・西魏に分裂。

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防府市歴史用語集 「魏」の解説

中国の王朝の1つで、220年から265年まで続きました。三国時代の国の1つです。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【春秋戦国時代】より

…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…

【魏晋南北朝時代】より

…しかしやがて州牧の地位は軍閥勢力に奪われる。このような経過によって,の三国政権が生まれた(三国時代)。 曹操の子曹丕(そうひ)が漢帝の禅譲を受けて魏王朝を建てると(文帝),呉・蜀もそれぞれ帝国を称し,ここに漢帝国は完全に崩壊した。…

【三国時代】より

…3世紀の中国で(漢)の3国が鼎立していた時代をいう。統一帝国として400年の命脈を保った漢王朝の瓦解によって生まれた政局で,魏晋南北朝の分裂時代がここに始まる。…

※「魏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」