デジタル大辞泉 「魏」の意味・読み・例文・類語
ぎ【魏】
戦国七雄の一。晋の六卿の一として勢力を拡大、韓氏・趙氏とともに晋を滅ぼし、その領土を3分。前403年、文侯のとき周の諸侯に列せられ、現在の山西省南部から河南省北部を領有。都は安邑、のち大梁(開封)。前225年、
三国の一。
南北朝時代の北朝最初の王朝。386年、
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中国の三国時代に呉・蜀の2国と対峙して華北を支配した国(220-265)。曹氏を皇帝とするので曹魏ともいう。後漢末の動乱期に,曹操が対立する群雄を倒して華北を平定し,213年(建安18),献帝から鄴(ぎよう)(河北省臨漳県)を中心とする魏国公に封ぜられたのが始まりで,3年後に魏王に進められたが,220年のはじめに死ぬ。後をついだ子の曹丕(そうひ)がその年の10月,献帝の禅譲を受けて帝位に昇り,ここに後漢は滅んで,同じく洛陽を首都とする魏国が正式に成立した。曹丕(文帝)の次の明帝曹叡(そうえい)は高句麗を破り,独立していた公孫淵を滅ぼして,支配地域を遼東から北朝鮮に広げたが,やがて249年(嘉平1)以後,実権は司馬懿(しばい)父子の手に握られ,その意のままに天子の廃立が行われる状態になった。263年(景元4),魏は蜀を滅ぼして,これを併合したが,265年,元帝曹奐(そうかん)は司馬懿の孫の司馬炎に帝位を譲り,魏は5代45年で滅んだのである。
→三国時代
執筆者:川勝 義雄
239年(景初3)6月,倭の邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の使者が魏軍の占領まもない帯方郡に到着し,魏の皇帝への朝献を希望した。洛陽でこれを引見した明帝は,その12月,卑弥呼を親魏倭王に任じ,金印紫綬を仮授する旨の詔文をしたためた。この詔書は韓諸国の反抗で帯方太守が戦死するなどの事態が生じ,240年になってようやく卑弥呼のもとにとどけられた。親魏倭王の称号は,韓諸国の君長に授けられた邑君(ゆうくん)・邑長にくらべて格段と高く,ここに魏の倭国重視の外交姿勢をうかがうことができる。魏が卑弥呼の使者に率善中郎将(そつぜんちゆうろうしよう)や率善校尉の官号を授けたのも同様の配慮のあらわれであろう。魏が倭国を高く評価した原因として,つぎの3点があげられる。第1は,魏の最大関心事である呉との関係である。魏は倭を呉の近接地域と考えていた。第2は,新たに手に入れた韓地との関係である。第3は,遼東平定にさきだっての倭の服属をよみしたのであろう。
執筆者:坂元 義種
中国,南北朝時代の北朝の一つで,鮮卑族拓跋部が4世紀末から約1世紀半華北に建設した国家。北魏,後魏,拓跋魏などともいう。拓跋部の故地は興安嶺北部と見られ,西遷して盛楽(内モンゴルのホリンゴール)を根拠に諸部族の盟主となり,部族連合によってなる代王国を建設,魏・晋両王朝とも交渉をもった。西晋の滅亡過程には山西方面から南進を試み,397年代王拓跋珪は後燕の首都中山を攻略して河北一帯を領有,その翌年平城(山西省大同)を首都として魏帝国を建てた(道武帝)。これよりさき部落解散を断行して族長層の部落統率権を君主に集中したが,旧部族民はその後も漢族と異なるあつかいを受け,国軍の精鋭として征戦に活躍した。第3代太武帝は夏,北燕,北涼を征服して華北を統一し,五胡十六国時代を終わらせた。帝国の発展に伴って漢人貴族の政権参加も一般化し,北族中心の国家体制を改革する必要が生じた。第6代孝文帝は洛陽遷都を断行し,また北族の姓氏,言語,風習を漢族風に改める諸政策によって,中国的貴族制国家を志向した。それはやがて北族系軍人の不満を増大させ,524年(正光5)の六鎮の乱を契機に東西両魏に分裂した。しかし北魏は,五胡十六国から一段と飛躍して北族社会における政治と軍事の統一を実現し,その基礎の上に漢族社会の生産力と文化を摂取し,これとの融合をはかった。
それは三長制,均田制,租庸調制,俸禄制などの諸制度に結晶して疲弊した華北社会に安定をもたらし,さらにはのちの隋・唐律令国家の基礎を形づくった。
→魏晋南北朝時代
執筆者:谷川 道雄
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中国、三国の一つで、曹操(そうそう)が創設した王朝(220~265)。曹操は後漢(ごかん)末の群雄の一人で、兗州(えんしゅう)(山東省)に割拠し、献帝を洛陽(らくよう)から予州の許に迎えて擁立した。200年、官渡の戦いによって袁紹(えんしょう)を破り、ほぼ華北を統一し、冀州(きしゅう)の鄴城(ぎょうじょう)を根拠地とした。208年、丞相(じょうしょう)となり、荊州(けいしゅう)に南下しようとしたが、孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)が同盟して、曹操は赤壁の戦いで敗れた。ついで関中を平定して献帝から魏公の爵位を授かった。さらに外戚(がいせき)の夏侯淵(かこうえん)を派遣して涼州を平定させ、また皇后の伏氏を廃し、娘を献帝の皇后とした。漢中(陝西(せんせい)省)における五斗米道(ごとべいどう)のいわば宗教国家を創始した張魯(ちょうろ)を親征し、爵は魏王に進んだ(216)。曹操は宦官(かんがん)の養子の子で、たいした基盤はなかったが、許をはじめ各地に大規模な屯田(とんでん)を開き、糧食の確保に努め、また募兵、流賊、降卒、降民、流寓(りゅうぐう)の徒を兵戸に編成し専属の軍隊とした。腹心の臣下には荀彧(じゅんいく)、陳羣(ちんぐん)、鍾繇(しょうよう)など法家の伝統が根強い潁川(えいせん)(河南省)出身の者が多く、曹操の施策にもその影響が現れている。曹操の死(220)後、曹丕(そうひ)がたち、官人の登用法を郷挙里選から九品官人法(きゅうひんかんじんほう)にかえた。これは人材を魏に吸収するのが本来の目的であったが、その運営は貴族制度の成立を決定的にした。
献帝は220年に禅譲し、曹丕は即位して文帝となり、ここに後漢は滅亡し、魏朝が成立した。鄴から洛陽に移り、ここを都とした。また西域(せいいき)の焉耆(えんき)、鄯善(ぜんぜん)、亀茲(きじ)、于闐(うてん)なども従属した。明帝(めいてい)(在位226~239)のときには洛陽(らくよう)宮を整備し、太極(たいきょく)殿と昭陽殿を建立、司馬懿(しばい)を派遣して遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)を破り、次の斉(せい)王芳のときに毌丘倹(かんきゅうけん)が高句麗(こうくり)を討ち、領土を東方に拡張した。耶馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が朝貢の使者を派遣したのはこのころである。
明帝の没後は、斉王芳、高貴郷公髦(ぼう)、陳留(ちんりゅう)王(元帝)奐(かん)の三少帝が継ぎ、曹爽(そうそう)と司馬懿が補佐した。司馬懿は宗室の曹爽や外戚の何晏(かあん)、夏侯玄などを次々と排除し、実権を掌握していった。子の司馬師は斉王を廃し、師の弟の昭は高貴郷公を殺した。昭の子の炎は陳留王の禅譲によって265年に即位し、晋(しん)(西晋)を建国し、魏は滅亡した。文化の面では、朝臣の貴族化が進み、文学、音楽、書画などの芸術を担い、老荘と易の学問である玄学が清談のテーマとなった。
[上田早苗]
中国、戦国時代の国(前403~前225)。戦国七雄の一つ。周と同姓の畢公高(ひつこうこう)の子孫畢万が晋(しん)の献公に仕え、魏地を与えられて魏氏となった。その子孫魏絳(ぎこう)は悼公(とうこう)のとき国政に参与し、しだいに魏氏は晋の六卿(りくけい)の一員として力を伸ばし、韓氏、趙(ちょう)氏とともに、范(はん)、中行、知の3氏を滅ぼし、紀元前453年魏桓子(ぎかんし)のとき実質上晋を三分し、その孫文侯の代の前403年、周室より諸侯と認められた。文侯と子の武侯のころは安邑(あんゆう)(山西省夏県)を都として、現在の山西省南西部を中心に、田子方(でんしほう)、呉起(ごき)らの賢者、名将、さらに相として李克(りこく)や魏成子(ぎせいし)らの人材を登用し、国力充実、領土拡大に努め、高い文化をもつ強国となった。しかし強大化する秦(しん)の侵攻をしだいに受けるようになり、前340年には都を東の大梁(たいりょう)(河南省開封県)に移さざるをえなくなり(そのため魏を梁とよぶこともある)、一時信陵君(しんりょうくん)の活躍で反撃したが、前225年秦の前に滅亡した。
[安倍道子]
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①〔戦国〕前403~前225 晋の家臣の魏氏が,前453年韓,趙(ちょう)両氏と晋を3分して山西省西南部,河南省北部を領有し,前403年諸侯に認められた国。文侯(在位前403~前387)のとき李悝(りかい)らの改革で富強を誇ったが,しだいに秦に圧迫され,安邑(あんゆう)から大梁(だいりょう)(開封)に遷都,前225年秦に滅ぼされた。
②〔三国〕220~265 中国の三国時代の王朝。後漢末,曹操(そうそう)が献帝を許(河南)に擁して実権を握り,華北を統一し,213年魏公,216年魏王に封じられ,220年曹操の死後子の曹丕(そうひ)(文帝)が献帝に譲位を迫って王朝を建て,洛陽を都とした。次の明帝(めいてい)(叡(えい))のとき一時疎族の曹爽(そうそう)が勢力を伸ばしたが,明帝の死後幼帝芳が即位すると,249年,司馬懿(しばい)がクーデタを起こして権力を握った。その子の司馬師は芳を廃して曹髦(そうぼう)を立て,さらにその弟司馬昭は,司馬氏討伐の兵をあげた曹髦を敗死させて奐(かん)(元帝)を立て,263年蜀(しょく)を滅ぼし,その功によって晋王に封じられた。その子司馬炎に至って,265年奐の禅譲を受けて西晋を建て,魏は5代で滅んだ。曹操の行った屯田制,戸調制,曹丕の始めた九品中正(きゅうひんちゅうせい)の法は,のちの王朝に受け継がれて重要な役割を果たした。魏はまた遼東の公孫氏(こうそんし)や高句麗を討って満洲,朝鮮方面に領域を広げ,倭王卑弥呼を朝貢させた。
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曹魏(そうぎ)とも。呉(ご)・蜀(しょく)とともに中国の三国時代を形成した王朝(220~265)。都は洛陽。後漢末の社会混乱のなかから曹操(そうそう)が実力を高めて魏王を称し,その子曹丕(そうひ)(文帝)が後漢の献帝から禅譲されて王朝を開いた。九品官人法を施して人材を登用し,貴族社会を形成した。また兵戸制と屯田(とんでん)制により富国強兵をはかり,呉・蜀に対抗した。東方では238年,遼東の公孫(こうそん)氏を滅ぼし,翌年倭の女王卑弥呼(ひみこ)の使者を迎え,「親魏倭王」の号と印綬を下賜した。244年には毌丘倹(かんきゅうけん)に高句麗の都の丸都(がんと)城を陥落させた。だが内紛により司馬懿(しばい)に実権が移り,蜀の滅亡後,元帝が司馬炎(晋の武帝)に禅譲,魏は滅んだ。
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…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…
…しかしやがて州牧の地位は軍閥勢力に奪われる。このような経過によって,魏・呉・蜀の三国政権が生まれた(三国時代)。 曹操の子曹丕(そうひ)が漢帝の禅譲を受けて魏王朝を建てると(文帝),呉・蜀もそれぞれ帝国を称し,ここに漢帝国は完全に崩壊した。…
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