中国の北部,黄河の下流域に位置する省。地域の大部分は黄河の南にあり,河北,山東,安徽,山西,陝西,湖北諸省に隣接し,全国的にみて山地と平原との中間地帯を占める。面積は16万7000km2,中国全体の約60分の1に当たる。人口は9124万(2000)。4地区,13地級市,25県級市,91県からなり,省都は鄭州市である。中国の古代地理書である〈禹貢〉(《書経》の中の一編)には九州の一つとして予州とみえ,ほぼ天下の中央に相当するので中州または中原とも呼ばれた。もともと河南とは黄河の南岸に近い洛陽地方を意味し,中国文化発生地の一つである。古くから宋代まで全中国の政治・経済・文化の中心で,中原を制圧するものは天下を支配することができると信ぜられた。
山地についていうと,黄河の北では北西部に標高約1500mの太行山脈が走り,その南東面は急な傾斜をなして山西省との境界を形づくる。黄河南部の山地は秦嶺山脈の余波が東方に延びたもので,南西から北東に向かう崤山(こうざん)・熊耳(ゆうじ)・外方(がいほう)の諸山脈,北西から南東に向かう伏牛山脈などからなり,平均標高は1000m以上。このうち崤山山脈は黄河南岸の陝県と澠池(べんち)県との間で三門峡を越え,対岸の中条山脈と接し,熊耳山脈の東部では1440mの嵩山(すうざん)が高くそびえ立つ。伏牛,外方の両山脈は黄河と淮河(わいが)との分水嶺をなし,伏牛山脈の南東部はさらに淮河と唐河・白河とを隔てている。
東方の大部分は黄淮平原で,主として北の黄河と南の淮河とによって作られた黄土の沖積地である。黄河は西から本省に流入すると,三門峡で硬い岩盤を切り開いて豊かな水量を押し出し,そこから川幅は広く流速は緩慢となって,上流の黄土地帯から運んできた大量の砂泥を沈殿させる。そのため鄭州から下流は河床が河岸より数mも高く,黄河に流入する支流は沁河(しんが),伊河,洛河などきわめて少ない。したがって,黄河は平原に出てからはたびたび決壊して流路を変え,北流したときは渤海湾に,南流したときは黄海に注いで大災害を起こしたのである。1960年に完成した巨大な三門峡ダムはこれを防ぐ目的で作られたもので,1973年に改造され水利能力は大幅に増大した。淮河は湖北省境の桐柏山脈から発し,潁河(えいか),汝河(じよか),賈魯河(かろか),渦河などの支流を入れて安徽省に向かう。これらの支流は西部山地から急速に落下し,夏季には水害が激しいので,上流に多数のダムを作って水量を調節している。ちなみに秦嶺山脈と淮河とをつらねる東西の一線は,中国の気候・風土を大きく南北に分ける自然境界とされる。
本省北部の黄土平原が中国文化発生地の一つであることは,洛陽の北西に当たる澠池県の仰韶(ぎようしよう)で初めて新石器時代の遺跡が発見されたことからも明らかである。それは彩色土器という特色のある土器をともなう文化で,当時すでに稲作の行われていたことも知られている。歴史時代に入ると,安陽の殷墟は最初の甲骨文字の出土地として有名で,殷代後期の都の所在地であった。今日の省都である鄭州はそれに先立つ殷代中期の代表的遺跡で,広大な城壁の存在が当時の都であったことを示している。鄭州の南に当たる偃師(えんし)県の二里頭では,大規模な宮殿建築のあとが発見され,殷代前期の遺跡であることが確認された。伝説上の夏王朝の遺跡もまたこの付近にあると考えられていたが,近時,鄭州と洛陽の中間,登封(とうほう)県の王城崗に比定する説が出されている。
周は今日の陝西省の西安地方から起こり,殷を滅ぼすと,洛陽に新しい政治的首都として洛邑を建設して東方統治の基地とし,その東には別に殷の遺民を住まわせるために成周を築いた。のち周の本拠が西戎に襲われ,周の平王は洛邑に遷都して春秋の世となった。春秋時代の初め本省の北部には周の王家のほか,鄭・衛・宋・陳などの諸国が発展したが,戦国時代には韓・魏・宋の領土となり,南方から進出してきた楚の勢力と対立した。秦が天下を統一すると三川・潁川・南陽・碭(とう)の諸郡がおかれ,前漢には河南・弘農・河内・潁川・汝南・沛(はい)・陳留・南陽の諸郡,梁国などがおかれた。しかし,当時まだ本省の南部は開発が十分に進まず,淮河が漢民族の南方発展の前線だったようである。河南郡の政治の中心は洛陽で,後漢はここを国都とし,三国時代の魏もそのつぎの西晋もこれを受けついだ。この後,本省は戦乱と北方遊牧民族の侵入によって荒廃したが,ついに北魏は華北を平定し,孝文帝のときにいたって洛陽に都を移した。
南北朝時代をへて隋が起こると,長安を国都として政治,軍事の中心にするとともに,洛陽にも大都市を建設して東都と称し,経済の中心とした。それは長安に比べて水路交通が発達し,物資の集散に便利だったからである。唐代になってもその方針は変わらず,安史の戦乱が始まるまで本省は洛陽を中心として繁栄した。省域の大部分は河南道で,一部は河北・淮南・山南の3道に分属していた。唐が滅んだのち,五代では後唐が洛陽に都をおいたほかは,みな東方の汴州(べんしゆう)(開封)を都としたのは,そこが平原に位置し,洛陽に比べていっそう水運の便に恵まれていたからであった。宋代になると汴州は汴京(べんけい)開封府といい,北宋一代にわたり全中国の国都として栄えた。南宋以後,省域の北部はほとんど金国の領土に入り,とくに南部は宋・金両国の国境地帯となって戦禍に荒れた。したがって,そののち本省に国都がおかれたことはないが,中国東部の中心地域として重視されたのは変りなく,歴代,軍事的争奪の戦場となった。省域は宋代には国都汴京を中にして京東路・京西路に分かれ,元代には河南江北行省の北の大部分を占め,明代に至って初めて今日と同じ地域の河南省が成立し,清代をへて今日に及んでいる。元以後,行政中心は引き続き開封におかれていたが,中華人民共和国の成立後1954年に省人民委員会は鄭州市に移り,開封は省の直轄市となった。なお人民共和国になってから,漳河をもって河北省との境界としたので,省域は従前より若干狭くなっている。
本省は西は黄河によって関中平原(陝西省)に,北へは衛河によって河北平原に,東と南東へは済河・泗河・渦河・潁河・淮河などによって山東・安徽・江蘇の諸省に通じ,南西は唐河・白河によって漢水流域に通じ,四通八達の地といわれた。しかし,自然の河流は西から東への方向をとるものが多く,陸路も同じくこれに沿っている。黄河は砂泥が多いうえに三門峡の急流があって舟運には不便なため,普通は南岸の陸路が利用されたが,黄土層の中を通るので有名な函谷関のごとき隘路があって,交通を阻害した。したがって,本省では古くから東西方向の交通路を連絡するため,南北の水路を開掘することに重点がおかれた。戦国時代に魏の都であった大梁(のちの開封)から南東に向かって作られた鴻溝(こうこう)運河は黄河と淮河とをつなぐもので,のち洛陽の方まで延長させ,隋・唐時代の運河の起源となったのである。北宋時代はこれをもとにして南方から大量の物資が国都汴京(開封)に輸送されたのであって,本省は運河を枢軸とする全国の水陸運輸線の集中地となった。ところが,元代以後,大運河道が東方に移されてからは,全国交通の中心的な地位を失ってしまった。
今日では淮河とその支流の潁河とが下流に汽船を通じ,黄河の北では人民勝利渠の完成によって,黄河の水を衛河に入れ汽船を運航させているだけである。交通の大動脈は鉄道で,黄河南岸にそって東西に走る隴海(ろうかい)線(連雲港市~蘭州)と,鄭州でこれと直交する京広線(北京~広州)は中国鉄道の二大幹線をなしている。京広線の新郷から西の焦作までは新焦線があり,焦作からは1970年に焦枝(しようし)線(河南省焦作~湖北省宜都県の枝城)が完成した。これは洛陽で隴海線と交差し南西に向かって南陽盆地を通過するので,この方面の開発に大きな役割を演ずることとなった。
本省では新石器時代から農業が始められていたことはすでにのべた。戦国時代の初め魏では有名な西門豹(せいもんひよう)によって漳河の灌漑工事などが行われたため,各地で生産が進み多くの古代都市が発達した。灌漑とともに運河も早くから開かれたが,歴代戦乱のため水利施設は破壊されて生産力は衰退することが多かった。とくに晋から南北朝時代,宋と遼・金の対立時代には北方遊牧民族の大規模な侵入によって,中原は彼らの統治下に帰し,漢民族はそのたびに南方に移住して,文化中心も南遷する傾向が続いた。それだけではなく自然災害が多く,宋より以後,元・明・清の各代にかけて1000余年にわたり,黄河は本省内ではんらんして河道を変え,経済的発展を著しく阻害したのである。
さらに19世紀以来の半植民地化時期には,河南は上海・天津・漢口の三つの帝国主義進出拠点の勢力範囲が交差するところであった。したがって,20世紀の初め京漢(今日の京広鉄道の北段)・隴海両線が相ついで建設されたのにしたがい,本省は上の三大拠点からの原料の買付地と製品の消費市場となった。その結果,隴海線ぞいに栽培される綿花,太行山麓の焦作の石炭,許昌付近のタバコなどの産額が増大し,鄭州は食糧とこれら諸物資の輸送中心地となり,新郷,安陽,開封,商丘,許昌,南陽などは付近各地の原料集散地となったのである。これらの諸都市に集まった物資は隴海・京漢の両線と,南西部の唐河・白河を経由して上海・天津・漢口へ運ばれた。本省内の工業がきわめて未発達の状態にあり,農産品の加工工業さえ遅れていたのは当然である。それに日中戦争という悪条件が加わったのであるが,今日では自主的な生産経済が行われ往時の面目を一新した。
おもな農産物は小麦,綿花,タバコ,油料(ゴマなど),柞蚕糸(さくさんし)などで,とくに小麦,タバコ,ゴマの産額は全国諸省中第一である。綿花は北部に多く,近年産額が急増して河北・山東両省につぎ全国第3位となった。綿花についで重要なのはタバコで,許昌がその中心である。油料作物はゴマ,ラッカセイ,アブラナなどで,東部・南部に広く栽培され,なかでもゴマが重要である。絹糸は新石器時代にさかのぼる中国独特の物産であるが,柞蚕は清末に山東省より移入され南部の山地に発展して,今日品質は山東のものをしのいでいる。
工業は綿紡績工業と食品工業のごとき,農業と密接した軽工業が主である。紡績は綿花の主要産地である京広鉄道沿線の北部に集中し,鄭州はその中心として天津,青島,石家荘につぐ地位を占める。食品工業は製粉,搾油,巻きタバコを三大主軸とし,製粉は開封,鄭州,新郷,安陽,搾油は鄭州,新郷,安陽,商丘,巻きタバコは許昌の諸都市が製造中心地である。重工業はまだきわめて貧弱で,石炭工業,紡績機械製造などがあるにすぎないが,鄭州・洛陽・新郷の三角地帯が有力な工業地帯として,全省経済の中心を占めるようになってきている。
地下資源についていえば,石炭の埋蔵量は山西省につぎ全国第2位で,大部分は京広鉄道以西の太行山脈東麓にあって,30県にわたり,約200億tに上るといわれている。湯陰県,焦作一帯では大量の品質優良な無煙炭を産出し,その中心である焦作市は石炭の都といわれ,製鉄,機械,セメント,化学肥料などの工業が起こり,鄭州,洛陽につぐ第3の大都市となっている。つぎに秦嶺山脈東部の北側にある陝県,新安,澠池,東側にある密県,禹県一帯も石炭の埋蔵量が豊富で,中でも許県南西の平頂山地区は東西120kmに及び,100億tをこえるものと推定される。
重要な都市は北部に集中しており,位置的にはいくらかのずれはあっても,古い歴史的都市の上に近代都市が重なっているのが特徴である。たとえば,鄭州は殷代中期の都あとに都市が作られ,洛陽は周以来の歴代の都あとに都市が作られて今日に及んでいる。したがって,その付近には古くから知られた名勝や古跡が多い。
省都の鄭州は人口180万(1994),全国的な交通の中心を占め,紡績や機械製造工業が起こって,近年めざましい発展をとげた。洛陽は人口127万(1994),機械製造工業が盛んで,とくにトラクターやベアリングの工場は規模の大きさを誇っている。洛陽は西に函谷関,東に虎牢関をひかえ,北には邙山(ぼうざん),南には伊河が洛河に注ぐ伊闕(いけつ)にのぞんだ要害の地である。伊闕は竜門とも呼ばれ,両岸の岩壁には北魏から唐代までの間に開かれた石窟がつらなり,仏教芸術の宝庫として知られている。開封は北宋の都として栄えたところであるが,歴代にわたる黄河のはんらんによって破壊され,当時の遺跡としては竜亭といわれる宮殿あとや,相国(しようこく)寺,祐国寺の鉄塔などが残っているに過ぎない。産業はまだ軽工業が中心である。その他,安陽の製鉄と紡績,新郷の紡績と機械製造は新興工業として特記しなければならない。南方では南陽が玉製品の産地として,また諸葛亮(孔明)の遺跡として知られ,信陽は省の南部の経済中心で,近代工業も起こっている。三門峡はダムの建設とともにその南岸に作られた都市で,隴海線の要点に位置し,とくに洛陽~西安間の交通・輸送の中心を占めている。
洛陽の南西に当たる登封県の嵩山は,五岳の一つである中岳として知られた名山で,熊耳山脈の東方にそびえる。東部の太室と西部の少室とに分かれ,太室には中岳廟があって山の祭祀の中心をなしている。少室山麓の少林寺は達磨大師の面壁九年の遺跡であるとともに,少林寺拳法の発生地として有名である。本省は中国文化発生地の一つであり,歴史が古いだけに,考古学的な遺跡をはじめ名勝,旧跡はもちろんのこと,歴代の有名な古戦場なども多い。
執筆者:日比野 丈夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「ホーナン(河南)省」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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