日本歴史地名大系 「河原院跡」の解説
河原院跡
かわらのいんあと
「拾芥抄」に「六条ノ坊門南、万里小路東八町云云、融大臣家、後寛平法皇御所号六条院本四町京極西、号東六条院」とあり、北は六条坊門小路(現五条通)、南は七条坊門小路(現正面通)、西が万里小路(柳馬場通)、東が東京極大路に及ぶ
「続古事談」に「河原院ハ、融左大臣ノ家也。台閣水石風流ヲツクシテ、ツクリミガキテスミ給ケリ。ウセ給テ後、其御子宇多法皇ニタテマツリテ、時々ワタリ給ヒケリ」、「河海抄」には「延喜ノ御記云延喜七年三月十六日己巳此ノ日参入六条院ニ此ノ院ハ是レ故源ノ融ノ朝臣ノ宅也大納言源ノ朝臣奉ス於院ニ
「日本紀略」延喜一七年(九一七)一〇月六日条に「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報