第59代に数えられる平安前期の天皇。在位887-897年。亭子院帝,寛平法皇ともいう。時康親王(のち光孝天皇)と班子女王を父母として生まれた。陽成天皇廃立によって父が帝位につくと兄弟姉妹とともに臣籍に降って源定省(さだみ)と称し,官人として勤めていたが,父の強い希望によって,887年(仁和3)親王となり,帝位を継いだ。即位の直後,これまでの政治的実権を失うことを恐れた太政大臣藤原基経との間に,阿衡(あこう)事件と呼ばれる権力争いが起こり,これに敗れたため,891年(寛平3)の関白基経の死に至るまで,政権をゆだねざるをえなかった。その死後天皇は東宮より内裏に入って親政をはじめ,菅原道真,藤原保則ら有能な官人を用いて地方政治の刷新に努めた。これを〈寛平の治〉という。しかし故基経女の中宮温子が皇子を生まぬ以前にと,女御藤原胤子の生んだ皇太子敦仁親王に897年譲位した。宇多上皇は新帝醍醐天皇のために《寛平御遺誡》を定め,また故基経の子時平と並んで菅原道真を昇進させることによって,藤原氏の台頭を抑え隠然たる支配力を保持したが,899年(昌泰2)出家して空理(のち金剛覚)と号し,上皇を辞し法皇と称して修行にはげむ間に,901年(延喜1)道真が大宰府に左遷され,法皇の力も失われた。しかし909年時平が死に,かねて法皇に寵愛されていた弟忠平が政治をとると,法皇,天皇,忠平の融和を軸として,のちに〈延喜の治〉と呼ばれる政治的安定がつづき,930年(延長8)の天皇の死と翌年の法皇の死におよんだ。このように宇多天皇は政治上に大きな力を発揮したが,歴史的により大きな意義をもつのは,その文化的活動である。天皇は宮廷の年中行事を整備し,内裏の運営に当たる蔵人所を充実させた。また和歌の振興をはかり,大規模な歌合を催すなどして《古今和歌集》勅撰への気運を高めた。さらに密教においても,仁和寺内に御室(おむろ)を設けて住居とし,真言宗広沢流の祖となった。11世紀に頂点に達する国風文化の出発は,宇多天皇の指導によるところが大きい。
→宇多天皇御記
執筆者:目崎 徳衛 宇多天皇は,その時代が平安時代の大きな変り目であったことと,不如意のうちに政治から遠ざけられたことから,種々の逸話をのこすことになった。天皇については,菅原道真との関係や仁和寺の建立のことなど,語り伝えられることは多いが,とくに説話の中では,官民の倹約を奨励したり,民の疲弊を聞いて悲嘆にくれたというように賢帝として伝えられ,また伊勢との和歌の贈答をはじめとし,詩歌に関する多くの説話によって,国文学勃興期の中心的な人物として語られている。さらに,醍醐天皇の女御の京極御息所を寵愛した天皇が,御息所を伴って河原院に赴いたところ,源融の亡霊があらわれて天皇の行いを非難したという説話が,種々の説話集に見えており,平安時代中期以降の天皇観の変化を示すものとなっている。
執筆者:大隅 和雄
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(瀧浪貞子)
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第59代天皇(在位887~897)。光孝(こうこう)天皇第3皇子。母は式部卿(きょう)仲野親王女(むすめ)、班子女王(はんしにょおう)。諱(いみな)は定省(さだみ)。884年(元慶8)源氏を賜姓され臣下となっていたが、887年(仁和3)光孝天皇の病があつくなったとき、天皇の意をくんだ太政大臣(だいじょうだいじん)藤原基経(もとつね)の推挙を受け、皇太子となり、ついで践祚(せんそ)した。897年(寛平9)皇太子敦仁(あつひと)親王(醍醐(だいご)天皇)に譲位するまで在位10年。学者出身の菅原道真(すがわらのみちざね)を重用し、親政を行った。権門勢家の活動を抑制し、律令(りつりょう)の原則に立ち返った政策路線を採用、後世、寛平(かんぴょう)の治と称された。譲位後しばらくは道真追放をめぐり醍醐天皇と対立したが、その後協調的となり、上皇として政務に関与するところがあった。承平(じょうへい)元年7月19日、仁和寺(にんなじ)に崩ず。
[森田 悌]
『森田悌著『王朝政治』(1979・教育社)』
867.5.5~931.7.19
在位887.8.26~897.7.3
亭子院帝(ていじいんのみかど)・寛平法皇(かんぴょうほうおう)とも。光孝天皇の第7皇子。母は班子(はんし)女王(桓武天皇の孫)。名は定省(さだみ)。884年(元慶8)父の即位の2カ月後に源朝臣を賜姓され,臣籍に下ったが,887年(仁和3)父の臨終に際し皇位継承者に決まり,死去の当日に立太子し,即日践祚(せんそ)した。即位早々,藤原基経に関白として政治を一任しようとしたが,勅答文中の「阿衡(あこう)」の用語をめぐって基経と対立し,苦杯をなめる(阿衡の紛議)。その後,菅原道真を重用し,藤原氏との溝を深めた。31歳で長子(醍醐天皇)に譲位し皇統を確立するが,901年(延喜元)の道真失脚事件によって発言力を失う。899年(昌泰2)仁和寺で出家,法皇となり仏道に励み,御室(おむろ)の法流を開く。著作に「寛平御遺誡(ごゆいかい)」があり,日記も逸文として伝わる。
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…しかししだいに対立を深め,ついに884年(元慶8)天皇を廃し,故仁明天皇の皇子時康親王を擁立し,この55歳の老帝光孝天皇のもとで実権をにぎった。その後,887年(仁和3)基経の妹・尚侍淑子と文章博士橘広相(ひろみ)らの奔走によって,すでに臣籍に降っていた皇子源定省(さだみ)が即位すると,親政の意欲をもつ新帝宇多天皇との間に対立が生じた。そのきっかけは,天皇が先代と同様に太政大臣基経に政務を一任する旨の詔書を発した中に,〈よろしく阿衡の任をもって,卿の任となすべし〉との辞があったのに対して,基経が家司藤原佐世の言にしたがい,〈阿衡〉とは実権のない礼遇を意味すると非難し,政務を拒否したことにある。…
…当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)などのほか,主催者や和歌の清書人,歌題の撰者などが含まれる。
[沿革]
(1)第1期(885‐1107) 光孝天皇の遺志を継いだ宇多天皇が,摂関政治を抑圧して朝廷の権威を高める手段として,和歌再興の文化政策をいっそう効率的に推進したが,もっぱら菅原道真が中心となって勅撰和歌集の編纂が企画され,その予備行為としてまず《新撰万葉集》を撰ぶに際して,《寛平后宮歌合(かんぴようのきさいのみやのうたあわせ)》や《是貞親王家歌合》など100番・50番の大規模な歌合がその撰歌の場として催された。宮廷におけるこれらの歌合の開催は,漢詩文隆盛の平安朝初期に,沈滞していた詠歌への意欲を刺激して,次の醍醐天皇の代に《古今和歌集》(905)を成立させるにいたるのであるが,歌合も頻繁に催され,晴儀としての歌合の形式は急速に整い,913年(延喜13)の《亭子院歌合》を経て,960年(天徳4)の《天徳内裏歌合(てんとくのだいりのうたあわせ)》にいたって最初の完成に達した。…
…893年(寛平5)の秋以前に,宇多天皇が母の皇太夫人(ぶにん)班子女王の宮で催した歌合。春,夏,秋,冬,恋の5題各20番200首に及ぶ大規模な歌合であるが,実は《是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)》とともに宇多天皇が企図した勅撰和歌集の試行としての《新撰万葉集》の撰歌の手段であって,この歌合の左歌が《新撰万葉集》の上巻を,右歌が下巻を形成している。…
…897年(寛平9)宇多天皇が醍醐天皇に位を譲るにあたって,当時13歳の幼少の天皇のために書き贈った帝王学の教本。叙位・任官などの朝廷の政務儀式,天皇の動作や学問のことなど,天皇としての心得を細かく記している。…
…嵯峨天皇のあと皇后の彼女が居住したことを物語るものである。896年(寛平8),譲位を控えた宇多天皇が新造し,退位後に後院として利用した。《貞信公記》にみえる栢梁殿はこのときの出現であろう。…
※「宇多天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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