宇多天皇(読み)ウダテンノウ

デジタル大辞泉 「宇多天皇」の意味・読み・例文・類語

うだ‐てんのう〔‐テンワウ〕【宇多天皇】

[867~931]第59代天皇。在位887~897。光孝天皇の第7皇子。名は定省さだみ菅原道真を登用し、藤原氏を抑えて政治の刷新を図った。その治世を後世、寛平かんぴょうの治という。譲位の時にその子醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡ごゆいかい」が有名。日記に「宇多天皇御記」がある。亭子院ていじのいんのみかど。寛平法皇

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精選版 日本国語大辞典 「宇多天皇」の意味・読み・例文・類語

うだ‐てんのう‥テンワウ【宇多天皇】

  1. 第五九代天皇。光孝天皇の第七皇子。名は定省(さだみ)。仁和三年(八八七)即位。在位一〇年。菅原道真を登用し、藤原氏を押えて政治の刷新を図った。著に「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」、日記「宇多天皇御記」など。寛平法皇。亭子院(ていじいん)のみかど。貞観九~承平元年(八六七‐九三一

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改訂新版 世界大百科事典 「宇多天皇」の意味・わかりやすい解説

宇多天皇 (うだてんのう)
生没年:867-931(貞観9-承平1)

第59代に数えられる平安前期の天皇。在位887-897年。亭子院帝,寛平法皇ともいう。時康親王(のち光孝天皇)と班子女王を父母として生まれた。陽成天皇廃立によって父が帝位につくと兄弟姉妹とともに臣籍に降って源定省(さだみ)と称し,官人として勤めていたが,父の強い希望によって,887年(仁和3)親王となり,帝位を継いだ。即位の直後,これまでの政治的実権を失うことを恐れた太政大臣藤原基経との間に,阿衡(あこう)事件と呼ばれる権力争いが起こり,これに敗れたため,891年(寛平3)の関白基経の死に至るまで,政権をゆだねざるをえなかった。その死後天皇は東宮より内裏に入って親政をはじめ,菅原道真,藤原保則ら有能な官人を用いて地方政治の刷新に努めた。これを〈寛平の治〉という。しかし故基経女の中宮温子が皇子を生まぬ以前にと,女御藤原胤子の生んだ皇太子敦仁親王に897年譲位した。宇多上皇は新帝醍醐天皇のために《寛平御遺誡》を定め,また故基経の子時平と並んで菅原道真を昇進させることによって,藤原氏の台頭を抑え隠然たる支配力を保持したが,899年(昌泰2)出家して空理(のち金剛覚)と号し,上皇を辞し法皇と称して修行にはげむ間に,901年(延喜1)道真が大宰府に左遷され,法皇の力も失われた。しかし909年時平が死に,かねて法皇に寵愛されていた弟忠平が政治をとると,法皇,天皇,忠平の融和を軸として,のちに〈延喜の治〉と呼ばれる政治的安定がつづき,930年(延長8)の天皇の死と翌年の法皇の死におよんだ。このように宇多天皇は政治上に大きな力を発揮したが,歴史的により大きな意義をもつのは,その文化的活動である。天皇は宮廷の年中行事を整備し,内裏の運営に当たる蔵人所を充実させた。また和歌の振興をはかり,大規模な歌合を催すなどして《古今和歌集》勅撰への気運を高めた。さらに密教においても,仁和寺内に御室(おむろ)を設けて住居とし,真言宗広沢流の祖となった。11世紀に頂点に達する国風文化の出発は,宇多天皇の指導によるところが大きい。
宇多天皇御記
執筆者: 宇多天皇は,その時代が平安時代の大きな変り目であったことと,不如意のうちに政治から遠ざけられたことから,種々の逸話をのこすことになった。天皇については,菅原道真との関係や仁和寺の建立のことなど,語り伝えられることは多いが,とくに説話の中では,官民の倹約を奨励したり,民の疲弊を聞いて悲嘆にくれたというように賢帝として伝えられ,また伊勢との和歌の贈答をはじめとし,詩歌に関する多くの説話によって,国文学勃興期の中心的な人物として語られている。さらに,醍醐天皇の女御の京極御息所を寵愛した天皇が,御息所を伴って河原院に赴いたところ,源融の亡霊があらわれて天皇の行いを非難したという説話が,種々の説話集に見えており,平安時代中期以降の天皇観の変化を示すものとなっている。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「宇多天皇」の解説

宇多天皇

没年:承平1.7.19(931.9.3)
生年:貞観9(867)
平安前期の天皇。仁和寺第1世。光孝天皇と班子女王(仲野親王の娘)の子。名は定省。亭子院,寛平法皇とも。侍従となったことから王侍従と称された。元慶8(884)年,源姓を賜って臣籍に下ったが仁和3(887)年8月に至り,藤原基経の推挙により親王に復して立太子するという異例の措置を経て即位した。儀式終了後直ちに基経に勅書を送り,援助に謝意を表明しているが,4カ月後,基経の関白就任を要請する勅書に用いた「阿衡の任」の解釈をめぐってトラブルが起こり(阿衡事件),基経に煮え湯をのまされた。寛平3(891)年に基経が没すると,関白を置かず,この事件の際基経に諫言した菅原道真を,藤原時平(基経の子)と共に起用し,自らも意欲的に政策を展開したが(寛平の治),在位10年,31歳で皇太子敦仁親王(のちの醍醐天皇)に譲位した。13歳の新帝に与えた訓誡は「寛平御遺誡」として知られるが,譲位のことを道真ひとりに相談しているように,過度の信任が延喜1(901)年,道真の大宰府への左遷に発展した。左遷と聞き,宇多は内裏に押しかけたが宮門は閉ざされ,座り込んで抗議したが聞き入れられなかった。これより先昌泰2(899)年,仁和寺(京都市右京区御室)で出家(法名は空理のち金剛覚。法皇の初例),寺内の御所が御室と尊称されたことから,いつしか御室が付近一帯の地名となり,寺は「御室の仁和寺」と呼ばれるようになった。和歌や音楽を好む風流人で,しばしば詩宴を主催したが,特に延喜13年の「亭子院歌合」は有名。『宇多天皇日記』は天皇日記としての初例である。仁和寺御室で没し,寺の北方,大内山陵に葬られた。『仁和寺御物実録』は,没する直前寺家宝蔵に納められた物品の目録であるが,平安初期における唐物受容の一端を示す。藤原温子(基経の娘),同胤子(高藤の娘,醍醐天皇生母),菅原衍子(道真の娘)などが女御として入内。

(瀧浪貞子)

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百科事典マイペディア 「宇多天皇」の意味・わかりやすい解説

宇多天皇【うだてんのう】

平安前期の天皇。亭子院帝(ていじいんのみかど),寛平(かんぴょう)法皇とも。光孝天皇の皇子。887年即位,897年まで在位。関白藤原基経の死後,関白を置かず,菅原道真を起用して政治の刷新に努め,後世寛平の治(ち)といわれた。のち宇多上皇が落飾して太上法皇(だいじょうほうおう)を称してからは,出家した上皇を太上法皇あるいは法皇と称するのが一般化したとの説がある。醍醐天皇に与えた訓戒を《寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)》という。→阿衡事件
→関連項目栄花(華)物語寛平御時后宮歌合本朝世紀大和物語

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇多天皇」の意味・わかりやすい解説

宇多天皇
うだてんのう
(867―931)

第59代天皇(在位887~897)。光孝(こうこう)天皇第3皇子。母は式部卿(きょう)仲野親王女(むすめ)、班子女王(はんしにょおう)。諱(いみな)は定省(さだみ)。884年(元慶8)源氏を賜姓され臣下となっていたが、887年(仁和3)光孝天皇の病があつくなったとき、天皇の意をくんだ太政大臣(だいじょうだいじん)藤原基経(もとつね)の推挙を受け、皇太子となり、ついで践祚(せんそ)した。897年(寛平9)皇太子敦仁(あつひと)親王(醍醐(だいご)天皇)に譲位するまで在位10年。学者出身の菅原道真(すがわらのみちざね)を重用し、親政を行った。権門勢家の活動を抑制し、律令(りつりょう)の原則に立ち返った政策路線を採用、後世、寛平(かんぴょう)の治と称された。譲位後しばらくは道真追放をめぐり醍醐天皇と対立したが、その後協調的となり、上皇として政務に関与するところがあった。承平(じょうへい)元年7月19日、仁和寺(にんなじ)に崩ず。

[森田 悌]

『森田悌著『王朝政治』(1979・教育社)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宇多天皇」の解説

宇多天皇
うだてんのう

867.5.5~931.7.19

在位887.8.26~897.7.3

亭子院帝(ていじいんのみかど)・寛平法皇(かんぴょうほうおう)とも。光孝天皇の第7皇子。母は班子(はんし)女王(桓武天皇の孫)。名は定省(さだみ)。884年(元慶8)父の即位の2カ月後に源朝臣を賜姓され,臣籍に下ったが,887年(仁和3)父の臨終に際し皇位継承者に決まり,死去の当日に立太子し,即日践祚(せんそ)した。即位早々,藤原基経に関白として政治を一任しようとしたが,勅答文中の「阿衡(あこう)」の用語をめぐって基経と対立し,苦杯をなめる(阿衡の紛議)。その後,菅原道真を重用し,藤原氏との溝を深めた。31歳で長子(醍醐天皇)に譲位し皇統を確立するが,901年(延喜元)の道真失脚事件によって発言力を失う。899年(昌泰2)仁和寺で出家,法皇となり仏道に励み,御室(おむろ)の法流を開く。著作に「寛平御遺誡(ごゆいかい)」があり,日記も逸文として伝わる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宇多天皇」の意味・わかりやすい解説

宇多天皇
うだてんのう

[生]貞観9(867).5.5. 京都
[没]承平1(931).7.19. 京都
第 59代の天皇 (在位 887~897) 。名は定省。光孝天皇第7皇子,母は尊称皇太后班子女王。仁和3 (887) 年8月皇太子になると同時に践祚,同年 11月即位。寛平9 (897) 年7月醍醐天皇に譲位,太上天皇と称せられ,昌泰2 (899) 年落飾,法皇となる。のち仁和寺に御堂を造営し,ここへ移ったので御室御所の称が起った。亭子院帝または寛平法皇などともいう。子の醍醐天皇に譲位の際与えた訓戒は『寛平御遺誡 (かんぴょうのごゆいかい) 』として有名。その日記『宇多天皇御記』は現在残闕を伝えるのみ。和歌の御製は『古今集』以下の勅撰集に収められたものが少くない。陵墓は京都市右京区鳴滝宇多野谷の大内山陵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宇多天皇」の解説

宇多天皇 うだてんのう

867-931 平安時代前期,第59代天皇。在位887-897。
貞観(じょうがん)9年5月5日生まれ。光孝天皇の第7皇子。母は班子(はんし)女王。父の死で即位。藤原基経(もとつね)を関白とする詔勅をめぐる政争(阿衡(あこう)の紛議)がおこる。基経の死後は菅原道真(みちざね)を重用し,親政をおこなう(寛平(かんぴょう)の治)。譲位後は仁和(にんな)寺にはいり,法皇をはじめて称した。承平(じょうへい)元年7月19日死去。65歳。墓所は大内山陵(おおうちやまのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は定省(さだみ)。別名に亭子院,寛平帝。法名は空理,金剛覚。歌集に「亭子院御集」。
【格言など】行きて見ぬ人の為にと思はずば誰か折らまし庭の白菊(「続古今和歌集」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「宇多天皇」の解説

宇多天皇
うだてんのう

867〜931
平安前期の天皇(在位887〜897)
光孝天皇第7皇子。887年即位後阿衡 (あこう) 事件をおこしたが,藤原基経死後は関白を置かず,菅原道真を登用し,藤原氏抑制政策を実行した。子の醍醐天皇に与えた『寛平御遺誡 (かんぴようのごゆいかい) 』,日記『宇多天皇宸記』は有名。

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367日誕生日大事典 「宇多天皇」の解説

宇多天皇 (うだてんのう)

生年月日:867年5月5日
平安時代前期の第59代の天皇
931年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宇多天皇の言及

【阿衡事件】より

…しかししだいに対立を深め,ついに884年(元慶8)天皇を廃し,故仁明天皇の皇子時康親王を擁立し,この55歳の老帝光孝天皇のもとで実権をにぎった。その後,887年(仁和3)基経の妹・尚侍淑子と文章博士橘広相(ひろみ)らの奔走によって,すでに臣籍に降っていた皇子源定省(さだみ)が即位すると,親政の意欲をもつ新帝宇多天皇との間に対立が生じた。そのきっかけは,天皇が先代と同様に太政大臣基経に政務を一任する旨の詔書を発した中に,〈よろしく阿衡の任をもって,卿の任となすべし〉との辞があったのに対して,基経が家司藤原佐世の言にしたがい,〈阿衡〉とは実権のない礼遇を意味すると非難し,政務を拒否したことにある。…

【歌合】より

…当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)などのほか,主催者や和歌の清書人,歌題の撰者などが含まれる。
[沿革]
 (1)第1期(885‐1107) 光孝天皇の遺志を継いだ宇多天皇が,摂関政治を抑圧して朝廷の権威を高める手段として,和歌再興の文化政策をいっそう効率的に推進したが,もっぱら菅原道真が中心となって勅撰和歌集の編纂が企画され,その予備行為としてまず《新撰万葉集》を撰ぶに際して,《寛平后宮歌合(かんぴようのきさいのみやのうたあわせ)》や《是貞親王家歌合》など100番・50番の大規模な歌合がその撰歌の場として催された。宮廷におけるこれらの歌合の開催は,漢詩文隆盛の平安朝初期に,沈滞していた詠歌への意欲を刺激して,次の醍醐天皇の代に《古今和歌集》(905)を成立させるにいたるのであるが,歌合も頻繁に催され,晴儀としての歌合の形式は急速に整い,913年(延喜13)の《亭子院歌合》を経て,960年(天徳4)の《天徳内裏歌合(てんとくのだいりのうたあわせ)》にいたって最初の完成に達した。…

【寛平后宮歌合】より

…893年(寛平5)の秋以前に,宇多天皇が母の皇太夫人(ぶにん)班子女王の宮で催した歌合。春,夏,秋,冬,恋の5題各20番200首に及ぶ大規模な歌合であるが,実は《是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)》とともに宇多天皇が企図した勅撰和歌集の試行としての《新撰万葉集》の撰歌の手段であって,この歌合の左歌が《新撰万葉集》の上巻を,右歌が下巻を形成している。…

【寛平御遺誡】より

…897年(寛平9)宇多天皇が醍醐天皇に位を譲るにあたって,当時13歳の幼少の天皇のために書き贈った帝王学の教本。叙位・任官などの朝廷の政務儀式,天皇の動作や学問のことなど,天皇としての心得を細かく記している。…

【朱雀院】より

…嵯峨天皇のあと皇后の彼女が居住したことを物語るものである。896年(寛平8),譲位を控えた宇多天皇が新造し,退位後に後院として利用した。《貞信公記》にみえる栢梁殿はこのときの出現であろう。…

※「宇多天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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