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宇多天皇 うだてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宇多天皇
うだてんのう

[生]貞観9(867).5.5. 京都
[没]承平1(931).7.19. 京都
第 59代の天皇 (在位 887~897) 。名は定省。光孝天皇第7皇子,母は尊称皇太后班子女王。仁和3 (887) 年8月皇太子になると同時に践祚,同年 11月即位。寛平9 (897) 年7月醍醐天皇に譲位,太上天皇と称せられ,昌泰2 (899) 年落飾,法皇となる。

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デジタル大辞泉の解説

うだ‐てんのう〔‐テンワウ〕【宇多天皇】

[867~931]第59代天皇。在位887~897。光孝天皇の第7皇子。名は定省(さだみ)。菅原道真を登用し、藤原氏を抑えて政治の刷新を図った。その治世を後世、寛平(かんぴょう)の治という。譲位の時にその子醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡(ごゆいかい)」が有名。日記に「宇多天皇御記」がある。亭子院(ていじのいん)のみかど。寛平法皇

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百科事典マイペディアの解説

宇多天皇【うだてんのう】

平安前期の天皇。亭子院帝(ていじいんのみかど),寛平(かんぴょう)法皇とも。光孝天皇の皇子。887年即位,897年まで在位。関白藤原基経の死後,関白を置かず,菅原道真を起用して政治の刷新に努め,後世寛平の治(ち)といわれた。
→関連項目栄花(華)物語寛平御時后宮歌合本朝世紀大和物語

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宇多天皇 うだてんのう

867-931 平安時代前期,第59代天皇。在位887-897。
貞観(じょうがん)9年5月5日生まれ。光孝天皇の第7皇子。母は班子(はんし)女王。父の死で即位。藤原基経(もとつね)を関白とする詔勅をめぐる政争(阿衡(あこう)の紛議)がおこる。基経の死後は菅原道真(みちざね)を重用し,親政をおこなう(寛平(かんぴょう)の治)。譲位後は仁和(にんな)寺にはいり,法皇をはじめて称した。承平(じょうへい)元年7月19日死去。65歳。墓所は大内山陵(おおうちやまのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は定省(さだみ)。別名に亭子院,寛平帝。法名は空理,金剛覚。歌集に「亭子院御集」。
【格言など】行きて見ぬ人の為にと思はずば誰か折らまし庭の白菊(「続古今和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

宇多天皇

没年:承平1.7.19(931.9.3)
生年:貞観9(867)
平安前期の天皇。仁和寺第1世。光孝天皇と班子女王(仲野親王の娘)の子。名は定省。亭子院,寛平法皇とも。侍従となったことから王侍従と称された。元慶8(884)年,源姓を賜って臣籍に下ったが仁和3(887)年8月に至り,藤原基経の推挙により親王に復して立太子するという異例の措置を経て即位した。儀式終了後直ちに基経に勅書を送り,援助に謝意を表明しているが,4カ月後,基経の関白就任を要請する勅書に用いた「阿衡の任」の解釈をめぐってトラブルが起こり(阿衡事件),基経に煮え湯をのまされた。寛平3(891)年に基経が没すると,関白を置かず,この事件の際基経に諫言した菅原道真を,藤原時平(基経の子)と共に起用し,自らも意欲的に政策を展開したが(寛平の治),在位10年,31歳で皇太子敦仁親王(のちの醍醐天皇)に譲位した。13歳の新帝に与えた訓誡は「寛平御遺誡」として知られるが,譲位のことを道真ひとりに相談しているように,過度の信任が延喜1(901)年,道真の大宰府への左遷に発展した。左遷と聞き,宇多は内裏に押しかけたが宮門は閉ざされ,座り込んで抗議したが聞き入れられなかった。これより先昌泰2(899)年,仁和寺(京都市右京区御室)で出家(法名は空理のち金剛覚。法皇の初例),寺内の御所が御室と尊称されたことから,いつしか御室が付近一帯の地名となり,寺は「御室の仁和寺」と呼ばれるようになった。和歌や音楽を好む風流人で,しばしば詩宴を主催したが,特に延喜13年の「亭子院歌合」は有名。『宇多天皇日記』は天皇日記としての初例である。仁和寺御室で没し,寺の北方,大内山陵に葬られた。『仁和寺御物実録』は,没する直前寺家宝蔵に納められた物品の目録であるが,平安初期における唐物受容の一端を示す。藤原温子(基経の娘),同胤子(高藤の娘,醍醐天皇生母),菅原衍子(道真の娘)などが女御として入内。

(瀧浪貞子)

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世界大百科事典 第2版の解説

うだてんのう【宇多天皇】

867‐931(貞観9‐承平1)
第59代に数えられる平安前期の天皇。在位887‐897年。亭子院帝,寛平法皇ともいう。時康親王(のち光孝天皇)と班子女王を父母として生まれた。陽成天皇廃立によって父が帝位につくと兄弟姉妹とともに臣籍に降って源定省(さだみ)と称し,官人として勤めていたが,父の強い希望によって,887年(仁和3)親王となり,帝位を継いだ。即位の直後,これまでの政治的実権を失うことを恐れた太政大臣藤原基経との間に,阿衡(あこう)事件と呼ばれる権力争いが起こり,これに敗れたため,891年(寛平3)の関白基経の死に至るまで,政権をゆだねざるをえなかった。

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大辞林 第三版の解説

うだてんのう【宇多天皇】

867~931) 第五九代天皇(在位887~897)。光孝天皇の皇子。名は定省さだみ。親政を行おうとしたが、関白藤原基経に阻まれた(阿衡あこう事件)。基経の死後は菅原道真を起用して摂関政治の弊害を改めるのに努めた(寛平の治)。のち、出家して寛平法皇・亭子院ていじのいんと称した。子の醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡」、日記「宇多天皇御記」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宇多天皇
うだてんのう
(867―931)

第59代天皇(在位887~897)。光孝(こうこう)天皇第3皇子。母は式部卿(きょう)仲野親王女(むすめ)、班子女王(はんしにょおう)。諱(いみな)は定省(さだみ)。884年(元慶8)源氏を賜姓され臣下となっていたが、887年(仁和3)光孝天皇の病があつくなったとき、天皇の意をくんだ太政大臣(だいじょうだいじん)藤原基経(もとつね)の推挙を受け、皇太子となり、ついで践祚(せんそ)した。897年(寛平9)皇太子敦仁(あつひと)親王(醍醐(だいご)天皇)に譲位するまで在位10年。学者出身の菅原道真(すがわらのみちざね)を重用し、親政を行った。権門勢家の活動を抑制し、律令(りつりょう)の原則に立ち返った政策路線を採用、後世、寛平(かんぴょう)の治と称された。譲位後しばらくは道真追放をめぐり醍醐天皇と対立したが、その後協調的となり、上皇として政務に関与するところがあった。承平(じょうへい)元年7月19日、仁和寺(にんなじ)に崩ず。[森田 悌]
『森田悌著『王朝政治』(1979・教育社)』

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世界大百科事典内の宇多天皇の言及

【阿衡事件】より

…しかししだいに対立を深め,ついに884年(元慶8)天皇を廃し,故仁明天皇の皇子時康親王を擁立し,この55歳の老帝光孝天皇のもとで実権をにぎった。その後,887年(仁和3)基経の妹・尚侍淑子と文章博士橘広相(ひろみ)らの奔走によって,すでに臣籍に降っていた皇子源定省(さだみ)が即位すると,親政の意欲をもつ新帝宇多天皇との間に対立が生じた。そのきっかけは,天皇が先代と同様に太政大臣基経に政務を一任する旨の詔書を発した中に,〈よろしく阿衡の任をもって,卿の任となすべし〉との辞があったのに対して,基経が家司藤原佐世の言にしたがい,〈阿衡〉とは実権のない礼遇を意味すると非難し,政務を拒否したことにある。…

【歌合】より

…当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)などのほか,主催者や和歌の清書人,歌題の撰者などが含まれる。
[沿革]
 (1)第1期(885‐1107) 光孝天皇の遺志を継いだ宇多天皇が,摂関政治を抑圧して朝廷の権威を高める手段として,和歌再興の文化政策をいっそう効率的に推進したが,もっぱら菅原道真が中心となって勅撰和歌集の編纂が企画され,その予備行為としてまず《新撰万葉集》を撰ぶに際して,《寛平后宮歌合(かんぴようのきさいのみやのうたあわせ)》や《是貞親王家歌合》など100番・50番の大規模な歌合がその撰歌の場として催された。宮廷におけるこれらの歌合の開催は,漢詩文隆盛の平安朝初期に,沈滞していた詠歌への意欲を刺激して,次の醍醐天皇の代に《古今和歌集》(905)を成立させるにいたるのであるが,歌合も頻繁に催され,晴儀としての歌合の形式は急速に整い,913年(延喜13)の《亭子院歌合》を経て,960年(天徳4)の《天徳内裏歌合(てんとくのだいりのうたあわせ)》にいたって最初の完成に達した。…

【寛平后宮歌合】より

…893年(寛平5)の秋以前に,宇多天皇が母の皇太夫人(ぶにん)班子女王の宮で催した歌合。春,夏,秋,冬,恋の5題各20番200首に及ぶ大規模な歌合であるが,実は《是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)》とともに宇多天皇が企図した勅撰和歌集の試行としての《新撰万葉集》の撰歌の手段であって,この歌合の左歌が《新撰万葉集》の上巻を,右歌が下巻を形成している。…

【寛平御遺誡】より

…897年(寛平9)宇多天皇が醍醐天皇に位を譲るにあたって,当時13歳の幼少の天皇のために書き贈った帝王学の教本。叙位・任官などの朝廷の政務儀式,天皇の動作や学問のことなど,天皇としての心得を細かく記している。…

【朱雀院】より

…嵯峨天皇のあと皇后の彼女が居住したことを物語るものである。896年(寛平8),譲位を控えた宇多天皇が新造し,退位後に後院として利用した。《貞信公記》にみえる栢梁殿はこのときの出現であろう。…

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